第四章 31 『目覚める大地』
巨大な眼が開いたまま、山脈そのものに見えていた影がゆっくりと持ち上がった。
最初に動いたのは頭だった。岩山だと思っていた隆起が少しずつ形を変え、その下から何重もの地層に似た甲殻が現れる。続いて前脚らしき巨大な柱が大地を押し、数百メートル級の身体が起き上がり始めた。
「……大きすぎる」
フィナのすぐ横で、杖を握り締めたリリカが息を呑む。
「山が立ってるみたいです……」
その表現は大げさではなかった。
地殻竜の背中には本物の岩山がいくつも乗っていた。長い年月の間に積もった岩や土が甲殻の隙間へ根を下ろし、遠目には完全な山脈を作っていたのだと、立ち上がった今になってようやく分かる。
「全長、見える?」
記録板を持ったレオンは顔を上げたまま、巨体の端から端まで視線を走らせる。
「無理だ。尻尾の先が岩山の向こうまで続いてる」
片耳の音響魔導具へ指を添えたミアも、返ってくる反響を追いながら顔を強張らせた。
「数百メートルはあるよ。それも最低で。背中の岩山を含めたら、もっと大きく感じる」
地殻竜が前脚へ体重を掛けた。ただ、それだけだった。
巨大空洞全体へ低い振動が走り、フィナたちの足元が大きく揺れる。周囲の岩山から石が転がり落ち、遠くの崖では一部が崩れて土煙を上げた。
「立っただけで地震って何よ!」
エルナが体勢を低くしながら叫ぶ。
その少し前では、左脚を庇うカイルが槍を地面へ突き、揺れに合わせて重心を移していた。
「文句言っても小さくならないぞ!」
「分かってるわよ!」
言い返すエルナとカイルを、ガレスの声が切る。
「全員、喋る余裕があるうちに位置を取れ!」
肩の固定はまだ残っている。それでも巨大剣を抜いたガレスの姿勢に迷いはなく、視線は地殻竜の頭部、前脚、尾の位置を順番に追っていた。
「負傷者は後方の岩山へ! セリア、付き添え! ミアは距離と動きを見ろ!」
「分かった」
セリアはすぐに担架へ向かい、負傷者たちを近くの岩陰へ誘導する。そのまま枕型魔導具を抱えたネムにも声を掛けた。
「ネムは私と一緒。今日は長く止めないで」
「……うん。必要な時だけ」
ネムも無理に前へ出ようとはしなかった。
フィナはその様子を確認してから、改めて地殻竜を見上げる。
あまりにも大きい。それでも、不思議と人が作ったものには見えなかった。甲殻は地層のように不揃いで、岩山も均等ではない。身体のあちこちには自然に削れた溝や古い傷があり、長い時間そのまま眠り続けていた生き物の姿にしか見えなかった。
「レオン、何か術式ある?」
フィナが尋ねると、レオンはすぐに首を横へ振った。
「見える範囲にはない。魔力の流れも施設みたいに整ってない」
「じゃあ、あの街を守ってたとかじゃない?」
「少なくとも、そう判断できる材料はない」
レオンは地殻竜の胸部から背中へ目を移す。
「むしろ身体の上に岩山ができるほど、ずっとここで寝てたと考えた方が自然だ」
「誰かに操られてる感じもないね」
フィナの言葉に、後方にいるネムが小さく返した。
「……魔力、外から繋がってない」
フィナはその一言で少しだけ息を吐いた。
誰かが仕掛けた敵ではない。ただ、この場所で生きてきた巨大な生物。そして自分たちは、その眠りを覚ました。
地殻竜の巨大な眼が動き、視線がゆっくりと探索隊へ向いた。
「……見られた」
リリカがフィナの左側で杖を構える。
地殻竜の鼻先から岩砂混じりの息が噴き出し、次の瞬間、轟音とともに咆哮が空洞を満たした。
「——っ……!」
フィナは反射的に耳を塞ぐ。
音というより衝撃だった。空気が揺れ、足元の砂が跳ね上がる。天井の発光鉱石まで僅かに震え、遠くの岩山から崩落音が連続して響いた。
「これ、怒ってるわよね!?」
エルナは雷をまとわせたまま、咆哮へ負けない声を張る。
低い姿勢を保ち、地殻竜の前脚から視線を外さないカイルが返した。
「たぶん、俺らが縄張りに入った!」
「なら話は早い!」
ガレスが巨大剣を構え直す。
「向こうからすりゃ、俺たちが侵入者だ! 逃げ道が作れるなら逃げる! 無理なら戦う!」
ミアは反響を飛ばしながら、後方と左右の地形を確認する。
「今の位置だと、背後は崖です! 右は谷! 左は岩山が続いてる! 一気に逃げるなら左だけど、負傷者連れだと追いつかれる!」
「だったら迎撃しながら距離を取る!」
ガレスはすぐに指示を切り替えた。
「フィナ、真正面! ただし広く撃つな! 足場が読めん!」
「うん!」
「レオンは退路を作れ! エルナとカイルは左右! リリカは後方へ近づける奴だけ止めろ!」
「了解!」
レオンが左手を前へ出すと、《連環築壁〈カデナ・フォルティア〉》の術式が後方の岩場へ広がり、空中足場と防壁が重なっていく。
「セリアさん、そっちの斜面へ! 崩れたら俺が支える!」
「分かった。負傷者は順番に動かす!」
フィナは中央に残りながら、地殻竜の前脚を見た。
持ち上がる。あれが落ちれば、周囲ごと潰れる。
「来る!」
ミアの警告とほぼ同時に、巨大な前脚が振り下ろされた。
「——大きい風!」
フィナは真正面から受け止めず、脚の横へ風を叩きつける。
僅かに軌道がずれ、前脚は探索隊の十数メートル横へ落ちた。大地そのものが抉り飛ばされ、地面が波打つように盛り上がると、岩と土が壁になって押し寄せてくる。
「うそ……!」
リリカが目を見開いた。
「フィナ、上じゃなく地面!」
レオンの声に、フィナはすぐ両手を下げる。
「——強い風!」
押し寄せた土砂の上側だけを吹き散らし、勢いを弱める。残った大きな岩はガレスが正面で叩き割り、エルナの雷が細かい破片を撃ち落とした。
「右から尾が来る!」
ミアの声に、全員の視線が地殻竜の後方へ向く。
巨大な尾が地面を這うように動いていた。遅く見えるのは、それがあまりにも大きすぎるせいだった。
「散れ!」
ガレスの号令で前衛が左右へ分かれた。
尾が岩山へ接触し、それだけで山腹が砕ける。巨大な岩壁が崩れ、落石の波が探索隊へ向かってきた。
「ネム!」
セリアの近くにいたネムが、落石の広がる方向を見る。
「……一瞬だけ」
《万象静止〈サイレント・レスト〉》によって、前方の巨大岩が数個だけ止まった。
「今!」
レオンがその隙間へ防壁を差し込み、落下方向を変える。フィナも横風を重ね、止めきれない岩を負傷者のいない側へ逸らした。
ネムはすぐに手を下ろす。
「……終わり」
「十分!」
セリアは負傷者をさらに岩陰へ移しながら、ネムの肩へ一度だけ手を添えた。
「そのまま休んで」
前方では、カイルとエルナが地殻竜の左右へ距離を取っていた。
カイルは岩山の斜面を風で駆け上がり、前脚の外側へ回る。反対側では、エルナが《紫電歩〈パソ・センテリア〉》の加速で地面を走り、巨大な眼の死角へ移動した。
「カイル、無茶しないでよ! 脚まだ治ってないんだから!」
エルナが声を飛ばすと、カイルもすぐに返す。
「そっちこそ、突っ込みすぎるなよ!」
「誰に言ってるのよ!」
二人とも口では言い返しながら、互いの位置を確認していた。カイルが左側へ回ればエルナは右へ動き、地殻竜が片方を追えば、もう片方が距離を取れる。
「攻撃するぞ!」
ガレスの声が響く。
「まず動きを止める! 倒すのはその後だ!」
フィナはその指示を聞いて、火を使わなかった。
この広さなら大きな魔法は撃てる。けれど、地面の下に何があるのか分からない。地殻竜だけを狙ったつもりでも、周囲の岩山や負傷者側へ影響が広がる可能性がある。
「水で押す!」
フィナの前へ巨大な水塊が生まれ、地殻竜の前脚へ叩きつけられた。
足元が少し滑る。
「今よ!」
エルナの雷撃が関節部へ集中する。
反対側ではカイルが岩肌を蹴り、槍を甲殻の継ぎ目へ突き込んだものの、硬い甲殻に弾かれ、すぐ風で距離を取った。
「硬っ……! 普通の岩じゃない!」
「見れば分かるわよ!」
エルナが返すと、カイルも言い返す。
「なら一回自分で刺してみろ!」
「雷でやるわよ!」
地殻竜は二人の攻撃を嫌がるように首を振った。それだけで巨大な頭部が空気を押し、突風が巻き起こる。
「前、来る!」
ミアの警告を受け、ガレスが巨大剣を構え、フィナも身構えた。
だが、地殻竜は前脚を上げなかった。
口を開いた。
その奥で、土と岩片が浮き始める。
「……何あれ」
フィナの声が止まる。
周囲の地面から砂、砕石、岩塊が次々と吸い上げられ、地殻竜の口元へ集まっていく。
「フィナ、前へ!」
レオンがすぐに叫ぶ。
「ただの魔力じゃない! 地面ごと巻き込んでる!」
「全員、後ろへ下がれ!」
ガレスは巨大剣を地面へ突き立てながら、後方へ手を振った。
「来るぞ!」
地殻竜の喉奥で、大地そのものを圧縮したような濁った光が膨らんだ。
次の瞬間、岩、砂、土、魔力を一つに呑み込んだ巨大な奔流が、地平線を削り取るような勢いで探索隊へ放たれた。




