第四章 30 『地底の地平線』
落下は、終わりがないように続いていた。フィナは下から風を押し上げ、全員を浮かせるのではなく、落下速度だけを少しずつ削っていく。頭上からは崩れた石材が追ってきているため、その場へ固定してしまえば瓦礫に巻き込まれる危険があった。
「フィナ、左下!」
片耳の音響魔導具を押さえたミアが、暗闇の中で腕を伸ばす。
「張り出した岩がある! かなり広い!」
フィナはすぐに風の向きを変えた。探索隊全体が縦穴の中央から左へ流れ、やがて暗闇の中から巨大な岩棚が浮かび上がる。
「レオン、着地できる?」
「足場を二枚出す! ガレスさん、担架を先に!」
右肩を庇いながら、レオンが左手を振る。《連環築壁〈カデナ・フォルティア〉》の術式によって岩棚の手前に半透明の足場が二枚現れ、ガレスとカイルが担架の左右を支えた。
フィナの風で勢いを殺しながら一枚目、二枚目と踏み、最後に岩棚へ飛び移る。
「フィナ師匠、ネムちゃん! こっちです!」
すでに着地していたリリカが両手を振る。
「うん!」
フィナはネムの手を取ったまま風を弱め、二人で岩棚へ降りた。靴底が地面へ触れた瞬間、それまで抑えていた重さが戻り、フィナは数歩よろめいてから膝へ手をつく。
「全員、そのまま動かないで!」
セリアは自分の呼吸も整わないうちに、担架の負傷者と探索隊員たちを順番に見回した。
「ガレス、カイル、立てる? ネム、気分悪くない?」
「俺は問題ない」
ガレスに続き、槍を杖代わりにしたカイルも答える。
「左脚は痛いけど、さっきより悪くはなってない」
その返事を聞いてから、セリアは枕型魔導具を抱えるネムへ視線を移した。
「ネムは?」
「……疲れた。でも平気」
「魔法は使わなくていいから、今は休んで」
「……うん」
フィナがようやく息を吐いた、その直後だった。
遥か上から轟音が落ちてくる。
「伏せろ!」
ガレスの声で全員が岩棚へ身体を寄せた。巨大な瓦礫が頭上を通過し、さらに下の暗闇へ消えていくと、数秒遅れて底の方から鈍い衝突音が返ってきた。
「……まだ下があるの?」
岩棚の端から覗き込みかけたエルナは、途中で足を止めて眉を寄せる。
「嫌になるくらい深いわね」
同じ端へ近づいたカイルが、横からエルナへ声を掛けた。
「高いところ、平気なんじゃなかった?」
「平気よ。落ちたくないだけ」
「それを苦手って言うんじゃないか?」
「違うでしょ!」
エルナが振り返ったところで、セリアがカイルの肩を押した。
「元気なら座って。左脚見るから」
「今ので急に元気なくなりました」
「じゃあ余計に座って」
カイルが大人しく腰を下ろし、エルナも小さく鼻を鳴らす。
フィナはそのやり取りを聞きながら、岩棚の先へ視線を向けた。
暗い。けれど、完全な闇ではなかった。
「……あれ?」
頭上の遥か彼方に、小さな光がある。白、青、淡い緑。無数の光が、広大な天井へ点々と散らばっていた。
「フィナ師匠、あれ……星みたいです」
杖を胸元へ寄せたリリカも、同じ方向を見上げている。
「地下だよね、ここ」
「地下よ」
エルナの返事は早かったが、その視線も天井から離れない。
高すぎて岩肌そのものが見えず、発光鉱石だけが暗闇の中へ浮かんでいる。フィナには、本当に夜空を見上げているようにしか見えなかった。
「すごい……」
思わず漏れた声のまま、フィナは視線を下へ移し、そこでさらに言葉を失った。
岩棚の先には、大地が広がっている。洞窟の床などという規模ではない。何重もの岩山が遠方まで連なり、その間には谷や平地らしい場所まで見える。
「端が見えない……」
フィナが呆然と呟くと、記録板を持っていたレオンも数歩前へ出た。
「天井も、壁も、この位置からじゃ分からない」
「反響を飛ばす」
ミアは地図を脇へ挟み、音響魔導具へ集中して巨大空洞へ音を広げた。
すぐに返ってきたのは近くの岩山だけだった。さらに奥の谷、高地へと反響を拾うたび、ミアの表情が少しずつ固まっていく。
「ミア、どれくらい?」
フィナが尋ねても、ミアはすぐには答えなかった。暗闇の向こうへ何度も音を送り、ようやく音響魔導具から指を離す。
「一回じゃ無理。広すぎる」
記録板を開いたまま、今度はレオンが問いかける。
「測れないくらい?」
「うん。数キロじゃない。たぶん……数十キロ規模」
「数十キロ!?」
リリカが目を丸くする。
「地下に、ですか?」
「私に聞かないでよ!」
ミアは自分でも信じられないという顔で地図を見下ろした。
「私だって今、何をどう描けばいいか分かんないから!」
普段なら未知の地形を見るなり地図を広げるミアが、しばらく線を引けずにいる。フィナにも、その理由はよく分かった。
上には星空のような光があり、前には地平線が広がっている。地下だと知らなければ、別の土地へ出たと思ってしまいそうだった。
「景色に見惚れるのは後だ」
巨大剣を背負い直したガレスが、岩棚の下へ目を向ける。
「ここが安全とは限らん。まず地面へ降りるぞ」
「右側なら、斜面が続いてます」
フィナが示した方向へ、ミアもすぐ反響を送る。
「右、使えるよ。大きい空洞もないし、担架も通せそう」
「なら右だ」
ガレスの判断で、探索隊は岩棚から下り始めた。
崩れた場所にはレオンが補助足場を出し、フィナが担架の重さを風で軽くする。先行するカイルも左脚へ負担を掛けないよう距離を短くし、その少し後ろをエルナが警戒しながら追った。
「そこ滑るぞ」
斜面の先からカイルが声を飛ばす。
「分かってるわよ」
「今、右足置こうとしてたけど」
「確認しただけ!」
「はいはい」
「その返事やめなさい!」
二人の少し前では、セリアがネムの歩幅を見ながら速度を落としている。
「ネム、疲れた?」
「……疲れた」
「歩ける?」
「……歩ける。でも、ゆっくりがいい」
「じゃあゆっくりでいいよ。無理に前へ合わせなくていいから」
「……うん」
ネムは素直に歩調を落とし、セリアの隣を進んだ。
全員が地面へ降りた頃には、落ちてきた縦穴は遥か後方の岩壁に開いた暗い穴として見えるだけになっていた。
フィナは改めて周囲を見渡す。近くの岩は、これまでの迷宮と大きく変わらない。けれど遠景だけが異常だった。
何層もの岩山、深い谷、光る鉱脈。そのすべてが、地下空間の中に存在している。
「フィナ師匠、真ん中見えます?」
リリカが杖先で遠くを指した。
巨大空洞の中央に、一際大きな山脈がある。一つの山ではなく、幾重もの峰が左右へ長く連なり、周囲の岩山より遥かに高い。天井の発光鉱石を遮り、巨大な黒い輪郭を作っていた。
「大きいね……」
フィナが呟く。
「山脈まで地下にあるのね」
エルナも息を吐きながら、中央の影を見上げていた。
その中で、ガレスだけが黙ったまま動かなかった。
「ガレスさん?」
フィナが隣へ目を向けると、ガレスは山脈の一部へ目を細めている。
「……妙だ」
「どこがですか?」
「山腹だ。岩の向きが揃いすぎてる」
フィナは言われた場所へ目を凝らしたが、最初は普通の岩肌にしか見えない。
「リリカ、少し照らせる?」
「やってみます」
リリカが《心火一灯〈カンデリア〉》の小さな火を高く飛ばし、フィナも小さな光をいくつか遠方へ送る。
数百メートル先まで届いた光が山腹を僅かに照らした瞬間、フィナにも違和感が見えた。
「……線が並んでる」
山腹には、巨大な岩盤のようなものが何枚も重なっている。一枚一枚が建物より大きく、しかも不規則な地層ではなく、ほとんど同じ方向へ傾いていた。
「地層じゃないわよね」
エルナが目を細める。
「全部、同じ向きだもの」
「……丸い」
枕型魔導具を抱えたネムが、眠そうな目のまま山腹を見つめていた。
「……端が、丸い」
その一言で、フィナの背中に冷たいものが走る。
重なった岩盤。丸みを帯びた端。同じ方向。
「……鱗?」
リリカの声が震えた。
誰も否定しなかった。
「ミア」
ガレスの声が一段低くなる。
「山の中へ音を通せるか」
「やってみる」
ミアは音響魔導具へ両手を添え、さっきより強く長い音を送り出した。
反響が巨大空洞を渡り、中央の山脈へ届く。戻ってくるまでには、時間が掛かった。
「外側、すごく硬い」
ミアは目を閉じたまま、拾った響きを追う。
「でも中が……変。空洞じゃないのに、反響が一定じゃない」
記録板を下ろし、完全に山脈へ意識を向けたレオンが問いかける。
「何か動いてる?」
「分からない。もう一回――」
そこまで言ったところで、ミアの肩が僅かに跳ねた。
「……今、聞こえた」
「何が?」
フィナが息を潜める。
「待って。もう一回飛ばす」
ミアが再び音を山脈へ送る。
数秒、何も起きなかった。
その直後、低い振動が地面を伝った。
どくん、とフィナの足元が僅かに揺れる。
数秒後、再び同じ間隔で振動が響いた。
「地震じゃない」
レオンが山脈を見据えたまま声を落とす。
「一定すぎる」
「……鼓動」
ネムが枕型魔導具を抱え直し、小さく呟いた。
ミアは青ざめた顔で中央を見上げる。
「……山の中から返ってきてる」
再び低い鼓動が響き、大地が震えた。
フィナは山腹へ並ぶ巨大な岩盤を見る。鱗。山の稜線だと思っていた隆起。そして、その奥には異様に丸い巨大な塊がある。
「これ……山じゃない」
フィナが言葉にした瞬間、中央の山脈の一部がゆっくり動いた。
岩が崩れ、砂塵が舞う。長い年月を積み重ねたような石片が、巨大な斜面から滝のように落ちていく。
「全員、動くな」
ガレスは巨大剣へ手を掛けながらも、まだ前へ出なかった。フィナたちも息を止めたまま、中央を見上げる。
やがて山腹だと思っていた場所に細い裂け目が生まれ、ゆっくりと開いていく。
その奥から現れたのは、岩ではない。
一つの瞳だけで、フィナたちのいる岩場など簡単に呑み込めそうな巨大な眼だった。
「……生きてる」
リリカが杖を握り締める。
地響きとともに瞼が完全に開き、眠っていた山脈が、生き物として初めて深く息を吐く。
数十キロ級の地下空洞、その中央で大地そのものにしか見えなかった《地殻竜》が、巨大な眼にフィナたちを映しながら、長い眠りからゆっくりと覚醒していった。




