第四章 18 『生還』
——最初に戻ってきたのは、冷たさだった。
頬に硬い岩の感触があり、背中には鈍い痛みが残っている。フィナは浅く息を吸い、粉塵の匂いにむせそうになりながら目を開いた。
視界は暗かった。
少し離れた場所で魔石灯が一つだけ横倒しになり、弱い光を周囲へ投げている。その光の中には砕けた岩、折れた装備、崩れた足場の残骸が散らばっていた。
「……みんな」
フィナは身体を起こそうとして、すぐに止まった。
左腕のすぐ横でネムが倒れていたからだ。
「ネム!」
慌てて身を起こし、肩へ触れる。
ネムの身体は温かい。呼吸もしている。
フィナが名前をもう一度呼ぼうとしたところで、ネムの瞼がゆっくり開いた。
「……うるさい」
「よかった……!」
「……フィナ、近い」
「ご、ごめん!」
フィナが顔を離すと、ネムは枕型魔導具を抱え直しながら身体を起こした。
その枕まで無事だったことに、フィナはこんな状況なのに少しだけ安心してしまう。
「レオン! エルナ! リリカ!」
声を張る。
すぐ近くの瓦礫が動いた。
「——聞こえてる……!」
レオンが岩片を押し退けながら上半身を起こす。
額に小さな傷があり、右肩の装備も裂けていたが、腕は動いている。
「フィナ、ネムは?」
「大丈夫! レオンは?」
「肩を打っただけだ。それより人数確認するぞ」
「——私もいるわよ!」
少し離れた暗がりからエルナの声が飛ぶ。
片膝をついた状態で岩壁へ手を掛け、ゆっくり立ち上がっていた。
「足首は?」
フィナが気にすると、エルナはその場で一度だけ体重を掛ける。
「大丈夫。さっきの方が痛かったくらい」
「リリカは?」
「——ここです!」
さらに奥で、小さな火が灯った。
リリカが杖の先へ小さな火を浮かべ、その明かりで自分の周囲を照らしている。頬に擦り傷があり、袖も破れていた。
「私は大丈夫です! ちょっと痛いですけど、動けます!」
五人の声が揃ったところで、別の場所から低い咳が聞こえた。
「——嬢ちゃんたち、無事か」
「ガレスさん!」
ガレスは巨大剣を杖のように使い、崩れた岩の間から立ち上がっていた。
左肩の装甲が割れ、額から血が流れている。
そのすぐ近くでは、カイルが横倒しになった槍を拾い上げていた。
「俺もいる。左脚ちょっと打ったけど歩ける」
「ちょっとかどうかは私が決める」
セリアの声が暗闇から飛び、カイルが肩を落とした。
フィナが光を向けると、セリアも無事だった。白い上着は泥と粉塵で汚れているが、腰の治療道具はかなり残っている。
「ミア!」
「——いるよ!」
少し遠くから赤茶色の髪が現れる。
ミアは片耳の音響魔導具を押さえながら、足元を確かめていた。
「こっちに三人いる! 一人、脚を挟まれてる!」
その報告で全員の動きが変わった。
「フィナ、灯り!」
「うん!」
フィナは小さな光を複数浮かべ、周囲へ散らした。
淡い明かりに照らされ、崩落に巻き込まれた探索隊員が数名見つかる。
全員、息はある。
そのうち一人は太腿を岩に挟まれ、別の一人は腕から出血していた。
「ガレス、挟まってる方お願い。フィナは岩を急に動かさないで」
セリアは負傷者の横へ膝をつき、出血の程度と意識を確認する。
「圧迫されたまま長かった可能性がある。先に状態を見る」
「分かった」
フィナは今すぐ岩を浮かせたい気持ちを抑え、セリアの指示を待った。
ガレスも巨大剣を差し込むだけに留め、勝手に持ち上げない。
「カイル、足どう?」
「歩ける」
「なら布持ってきて。エルナはそっちの人の肩、動かせるか確認して」
「分かったわ」
セリアの声を中心に、全員が自然に動き始める。
しばらくして負傷者の状態が安定すると、フィナが岩の重さだけをゆっくり支え、ガレスが隙間を広げた。
挟まれていた脚が抜ける。
「痛っ……!」
「動かさないで」
セリアがすぐに患部へ手を当て、淡い光を広げた。
骨の状態を確かめながら固定を始める。
「折れてる。でも今すぐ命に関わる状態じゃない。歩かせない」
「担架、作れる」
レオンは痛む右肩を庇いながら、折れた装備と残った布を見回した。
「材料はある。固定術式も最低限なら使える」
「頼む」
ガレスが任せると、レオンはすぐ作業へ移った。
その間、フィナは周囲を見回した。
見覚えのあるものが、一つもない。
巨大階段は消えている。湖から流れ込んでいた水も見えない。代わりにあるのは、広い天然洞窟と、斜めに崩れた岩盤、それから暗闇の奥へ続く一本の通路だけだった。
「ここ……どこ?」
フィナの声が自然に小さくなる。
「未踏だと思う」
地図を広げていたミアは、何度見比べても一致しないらしく眉を寄せていた。
「今まで通った地形と繋がる場所がない。落ちた距離も正確には分からない」
「上は?」
フィナが見上げる。
そこには巨大な岩塊が折り重なり、完全に天井を塞いでいた。光を届かせても、隙間らしい隙間がほとんど見えない。
「俺が見る」
レオンは担架の固定を終えると、上方へ構築系の探査術式を伸ばした。
青白い線が岩の隙間へ入り込み、しばらくして消える。
「……かなり厚い」
「どのくらい?」
「今の術式じゃ上まで抜けない」
レオンは額の血を袖で拭い、塞がれた天井を睨む。
「ただ、方法がないわけじゃない。俺が岩盤の接触面を解析して、フィナが動かせる範囲を絞れば――」
「待て」
ガレスが低く止めた。
レオンも反論せず、視線だけを向ける。
「上にまだ人がいる」
「分かってます」
「湖も近かった。水脈も何本走ってるか分からん」
「それもあります」
レオンは一度息を吐き、フィナへ顔を向けた。
「問題はそこだ。フィナなら岩盤そのものを動かせるかもしれない」
「うん。たぶんできる」
フィナは塞がれた上方を見た。
大きな岩をどかす。地面を動かす。それ自体は、難しいと思わない。
「でも、どこまで動かしたらいいか分からない……」
声に出した瞬間、危険の大きさがはっきりした。
目の前の岩だけを持ち上げても、その上に何が乗っているのか分からない。帰還経路の上には、別れた探索隊員が残っているかもしれない。さらにその上には地下湖があり、水がどこへ流れ込んでいるかも不明だ。
「上まで全部持ち上げたら、人も水も巻き込むかもしれない」
「そういうことだ」
レオンは悔しそうに唇を結んだ。
「地盤の構造が分からない状態で強引に開けるのは危険すぎる。俺も安全な線を引けない」
「じゃあ掘るのはなしね」
エルナは負傷者の近くで膝をついたまま、塞がれた上方から視線を外した。
「フィナができるかどうかじゃなくて、やっていいか分からないなら駄目でしょ」
「うん」
フィナは素直に頷いた。
できる。だからやる。
以前なら、その二つをほとんど同じものとして考えていたかもしれない。
今は違った。
「ミア。動ける道は?」
ガレスが巨大剣を背負い直す。
ミアは地図を畳み、音響魔導具へ指を添えた。
「上は全部詰まってる。左も途中で崩落。右は細すぎて担架が通らない」
短い反響音を暗闇へ送り、ミアは正面の通路へ顔を向ける。
「安全に進めそうなのは、あそこだけ」
「方向は?」
「下」
その一言に、フィナは通路の奥を見る。
僅かな傾斜が、さらに深い場所へ続いていた。
「下に行けば出口がある?」
リリカが不安を隠せない声で尋ねる。
ミアはすぐには答えず、首を横へ振った。
「分からない。出口がある保証はないよ」
ガレスも同じ暗闇を見ていた。
「むしろ何があるかも分からん」
「それでも行くんですか?」
フィナが尋ねる。
ガレスはまず負傷者を見る。次にセリア。レオン。ミア。
最後に、全員が揃っていることを確かめるように周囲へ視線を回した。
「ここに居続けても助からん」
低い声に迷いはなかった。
「余震が来りゃ、今度こそ天井が落ちるかもしれねえ。水が回ってくる可能性もある」
巨大剣の柄を握り直し、ガレスは唯一残された通路へ身体を向けた。
「出口があると思って進むんじゃねえ。生き残れる場所を一つずつ探す」
フィナはその言葉を聞き、隣にいる四人を見た。
ネムは疲れている。レオンは肩を負傷している。エルナにも細かな傷が増え、リリカの顔にも不安がある。
それでも誰も、一人だけで何とかしようとはしていなかった。
セリアが負傷者を担架へ乗せ、カイルとミアが前方確認の準備を始める。レオンも自分の役割を探すように残った記録板を取り出し、ネムは枕型魔導具を抱えたまま立ち上がった。
ガレスは全員が動ける状態になったことを確認し、暗闇へ続く通路の前で足を止めた。
「ここから先は探索じゃねえ。——生還だ」
その言葉を境に、未知を求めて始まった旅の意味が変わった。
地上へ帰る道も、正しい進路も分からないまま、探索隊は負傷者を守りながら、唯一歩ける深部の暗闇へ足を踏み出していった。




