第四章 17 『崩れる深層』
帰還経路の崩落は、そこで止まらなかった。
巨大階段の上方から響いていた破砕音が連続し、岩盤の亀裂が左右へ走る。湖から流れ込んだ水は裂け目へ吸い込まれながら別の場所から噴き出し、階段の一部を横から削り始めていた。
「上から来る!」
ミアが片耳の音響魔導具を押さえ、崩落音の重なりへ意識を集中させる。
「人もいる! 階段の上、複数!」
——次の瞬間、暗闇の向こうから悲鳴が聞こえた。
フィナが顔を上げる。
崩れかけた階段を、別の探索者たちが駆け下りてきていた。数人は負傷者へ肩を貸し、その後ろでは落石を避けながら必死に距離を詰めている。
「ガレスさん、上の人たち!」
「ああ。嬢ちゃん、お前は天井を見ろ!」
ガレスは巨大剣を背から抜き、階段中央へ移動する。
「ミア、逃がす道を探せ! セリア、怪我人をまとめろ! レオン、足場を持たせろ!」
「了解、隊長!」
ミアはすぐに壁側へ寄り、崩れていない段差と亀裂の位置を地図へ書き足しながら声を張った。
「右壁沿い、まだ通れる! 三十歩先で広くなる! 左は地下水が来るから使わないで!」
「聞こえた人から右へ!」
ガレスの低い声が階段全体へ響く。
フィナは指示を聞きながら頭上を見上げた。
岩壁のさらに奥で、巨大な亀裂が広がっている。
「……また来る」
天井の一部がずれた。
数十メートル級の岩盤が、ゆっくり剥がれ始める。
フィナは両手を上げた。
「——大きい風!」
落ちる前に横から風を当てる。
だが岩盤が大きすぎる。完全に押し戻そうとすれば、周囲の天井まで巻き込んで崩しかねない。
「止めない。右へずらす……!」
フィナは歯を食いしばり、風の流れを一点に絞った。
巨大岩盤の落下方向が僅かに右へ逸れる。その下では、避難してきた探索者たちが階段中央から右壁側へ移動していた。
「もう少し!」
フィナが風を強めた瞬間、岩盤が完全に剥がれた。
「来るぞ!」
ガレスが叫ぶ。
巨大な岩塊は探索者たちの左側へ落ち、階段を数段まとめて押し潰した。
衝撃で別の岩片が弾け飛ぶ。
「レオン!」
「張ってる!」
レオンは両腕を広げ、避難経路の外側へ防壁を展開した。
青白い膜へ無数の岩片が叩きつけられ、表面に亀裂が走る。
「右の三人、急げ! その壁は長く持たない!」
レオンの声に、負傷者を支えていた探索者たちがさらに速度を上げた。
その一人が足を滑らせる。
「落ちる!」
エルナが真っ先に反応した。
雷光をまとって階段を蹴り、崩れた段差の縁まで一気に距離を詰める。
探索者の身体が暗闇へ沈む直前、その腕を掴んだ。
「カイル!」
「分かってる!」
カイルは右壁を蹴り、風をまとって斜め下へ飛ぶ。
エルナ一人では引き上げにくい位置へ回り込み、槍の柄を探索者の背中へ差し込んだ。
「押すぞ!」
「せーのでやるわよ!」
「今!」
「私のせーのを待ちなさいよ!」
言い争いながらも、動きは合っていた。
カイルが下から持ち上げ、エルナが腕を引く。落下しかけていた探索者の身体が階段へ戻った。
「エルナ、次!」
ミアの声が飛ぶ。
反対側で、足場を失った二人が岩壁へしがみついている。
「見えてる!」
エルナは救助した相手をガレス側へ押し出すと、すぐに雷をまとって走った。
「カイル、右の人お願い!」
「左は?」
「私が行く!」
二人が別方向へ分かれる。
カイルは風を使って壁面を駆け、落下寸前の探索者を槍の柄で引き寄せる。
エルナは雷の加速で崩れた段差を飛び越え、もう一人の腕を掴んだ。
フィナはその姿を一瞬だけ見た。
助けに行こうとはしなかった。
今、自分が離れれば頭上の最大崩落を受ける者がいなくなる。誰を任せ、何を自分がやるのか。考える前に、それが自然に決まっていた。
「フィナ!」
セリアの声が下から届く。
「こっちは任せて! 上だけ見て!」
「うん!」
階段の右側では、負傷者が数人まとめられていた。
セリアは膝をつき、脚を切った探索者の出血を光で抑えながら、隣の者へ包帯を渡している。
「腕の傷は自分で押さえて。歩ける人は治療待ちしないで先へ。頭を打った人だけここに残して」
「でも、俺より向こうの方が――」
「順番は私が決める。今は座って」
穏やかな声なのに、負傷者は反論せず従った。
そのすぐ近くで、ネムが片膝をついていた。
顔には疲れが残っている。それでも視線は、崩落全体ではなく一箇所だけへ向いていた。
「ネム、無理しないで!」
フィナが頭上を支えながら声を飛ばす。
「……分かってる」
ネムは短く返し、階段右側の割れ目へ片手を向けた。
「……そこだけ、止まって」
負傷者の下で崩れかけていた岩盤が、一瞬だけ静止する。
「今、移動して!」
セリアが負傷者の肩を支え、動ける者と一緒に安全側へ移す。
三秒も経たず、ネムが手を下げる。
停止が解けた岩盤は、その直後に暗闇へ落ちていった。
「ネム、大丈夫?」
セリアが移動しながら横目で確認する。
「……疲れた。でも、まだ歩ける」
「次は私か隊長に言ってから使おう」
「……分かった」
そのやり取りの向こうで、今度は水音が急激に大きくなった。
「左、決壊する!」
ミアが叫ぶ。
岩壁の亀裂から噴き出していた地下水が、一気に太くなる。
壁面が破れ、濁流が階段へ横殴りに流れ込んだ。
「フィナ!」
「見えてる!」
頭上の岩盤を風で逸らしながら、フィナは左手だけを水流へ向けた。
「——お水、下へ!」
濁流の向きが変わる。
階段中央を横切るはずだった水が、崩れた左側の裂け目へ吸い込まれた。
だが完全には処理しきれず、水飛沫と泥が周囲へ広がる。
視界が一気に悪くなった。
「暗い!」
避難者の声が響く。
携帯灯のいくつかが水を被って消えた。
「リリカ!」
レオンが防壁を維持しながら後方へ顔を向ける。
「道を見せてくれ!」
「はい!」
リリカは杖を振り上げた。
「——心火一灯〈カンデリア〉!」
小さな火が次々と生まれる。
攻撃には使わない。
右壁沿いの安全な段差へ等間隔に配置し、避難経路を一本の赤い光で繋いでいく。
「この火を追ってください! 赤い火より左へ出ないで!」
泥と粉塵で視界が悪い中、小さな炎だけが鮮明に浮かぶ。
逃げてきた探索者たちは、その光を頼りに進路を変えた。
途中で小型魔物が二体、恐慌状態のまま避難経路へ飛び込んでくる。
リリカは進路表示用の火を崩さず、別の小さな火を二つだけ動かした。
「そっちは駄目!」
魔物の足元で火が弾ける。
二体は人の列から外れ、崩れた階段側へ逃げていった。
「リリカ、そのまま火を維持!」
「任せてください!」
フィナはその声を聞きながら、両手を再び頭上へ戻した。
亀裂がさらに広がっている。
今度は岩塊一つではない。天井の広い範囲そのものが崩れ始めていた。
「ガレスさん!」
「分かってる!」
ガレスは避難者たちの最後尾を確認しながら巨大剣を構えた。
「全員、右の広場まで走れ! フィナ、十秒持たせられるか!」
「持たせる!」
「じゃあ任せた!」
それだけだった。
ガレスはフィナの力を疑わず、避難誘導へ戻った。
フィナも他を見なかった。
「——大きい風!」
落ちてくる岩盤へ下から風を当てる。
今度は逸らす場所が少ない。右には避難者。左は地下水。
なら、落下速度そのものを削る。
風を何層にも重ね、岩盤を空中で押し上げ続ける。
「重い……!」
フィナの髪が風圧で激しく揺れる。
それでも岩盤は少しずつ下がってくる。
「あと五人!」
ミアが避難者を数えながら声を飛ばす。
「三人!」
エルナとカイルが最後の負傷者を挟むように支え、右側へ走る。
「全員抜けた!」
ガレスの声が響いた。
「フィナ、離せ!」
「うん!」
フィナは風向きを一気に左へ変えた。
巨大岩盤が斜めへ滑り、誰もいなくなった階段へ落下する。
轟音。
大量の粉塵が巻き上がった。
その衝撃で、足元がまた大きく揺れた。
「まだ終わってない!」
レオンの声が鋭くなる。
探索隊の中央。
フィナたちと、右側へ避難した一団との間で、岩床へ一本の亀裂が走った。
最初は指一本ほどだった。
それが一瞬で広がる。
「——離れて!」
エルナが叫ぶ。
フィナが後ろへ跳ぼうとした時には、足元の段差ごと沈み始めていた。
「フィナ!」
レオンが手を伸ばす。
そのすぐ横で、ネムとリリカの立っていた足場も割れる。
ガレス、カイル、セリア、ミアも同じ側にいた。
「右へ飛べ!」
ガレスが叫ぶが、裂け目の幅が一気に広がった。
階段の巨大な一角が、探索隊の一部を乗せたまま岩盤から完全に剥がれる。
フィナは咄嗟に風を起こそうとした。
しかし周囲には仲間と負傷者、砕けた岩、流れ込む地下水まで混在している。
足場そのものが傾いた。
視界が暗闇へ反転する。
上方で誰かが叫ぶ声を残し、フィナたちを乗せた巨大な岩盤は、崩壊した階段から切り離されるように、さらに深い未踏の闇へ落下していった。




