第四章 15 『地図のない階段』
地下湖の岸へ引き上げた探索用魔導船の後ろで、水面がゆっくり静けさを取り戻していく。
その正面では、巨大な階段が暗闇の奥へ伸びていた。
一段の高さはフィナの膝ほどあり、横幅は十人以上が並べそうなほど広い。湖岸から始まった段差はほとんど同じ間隔を保ちながら、まっすぐ下方へ続いている。
「やっぱり、作ったようにしか見えないよね」
フィナは最初の一段へ近づき、携帯灯を岩肌へ向けた。
レオンも隣へしゃがみ込み、表面の凹凸を指先ではなく視線で追う。
「削った跡がない」
「ないの?」
「少なくとも、この範囲には工具痕も魔法加工の痕跡も見えない。材質も周囲の岩盤と同じだ」
レオンは階段の端と壁面の境目を見比べたあと、測定器を取り出した。
「継ぎ目もない。巨大な岩盤そのものが、この形になってる」
「自然に階段ができたってこと?」
リリカは記録冊子へ段数を書き始めながら、思わず上を見た。
「こんなに綺麗にですか?」
「綺麗すぎるから困ってる」
レオンの返事に、フィナももう一度足元へ目を落とす。
人工物なら、誰かが作った理由を考えられる。けれど自然にできたと言われると、それはそれで目の前の光景がさらに奇妙に見えた。
少し離れた場所では、ミアが既存の地図を岩の上へ広げていた。湖岸の形と自分たちの現在位置を何度も照合し、赤茶色の髪を耳へ掛けながら首を傾げている。
「やっぱりないなあ」
地図の端へ新しい線を書き足しながら、ミアは階段へ顔を向けた。
「古い探索記録にも、この岸から下へ続く道は載ってない。湖を渡った記録自体はあるけど、もっと北側の岸に出てる」
「じゃあ、見つかってなかっただけ?」
フィナが地図を覗き込むと、ミアは鉛筆の先で現在地を軽く叩いた。
「それもある。でも湖の水位が昔と違った可能性もあるし、岩が崩れて隠れてた可能性もある。今の段階じゃ決められない」
「分からないこと、多いね」
「だから楽しいんだよ」
ミアは嬉しそうに笑いかけた直後、少し離れたガレスの視線に気づき、慌てて口元を引き締めた。
「……楽しいけど、ちゃんと警戒してます」
「ならいい」
巨大剣を背負ったガレスは階段の入口へ立ち、まず下ではなく後方の湖を見た。
魔導船は動かせる。戻る道も、現時点では残っている。
「ここで引き返す手もある」
その言葉に、フィナたちだけでなくカイルとミアもガレスへ視線を向けた。
「水竜を倒した。峡谷の異変も確認した。原因不明の揺れまで出てる。持ち帰る情報としては十分だ」
ガレスは淡々と続けながら、階段の先へ目を戻した。
「未知を見つけたからって、必ず入らなきゃならん理由はねえ」
フィナはすぐに「行きたい」とは言わなかった。
昨日までなら、知らない道を見つけた高揚がそのまま口から出ていたかもしれない。今はまず、皆の顔を見る。
セリアは治療道具を片付け終え、ネムの様子を確認していた。カイルは左膝を曲げ伸ばししながら、階段と湖を交互に見ている。
エルナも黙って足場の状態を確かめ、レオンは地図と周辺地形を見比べていた。
「——隊長」
先に口を開いたのはミアだった。
地図を持ち上げ、現在地の周囲を指でなぞる。
「北側へ回る既知経路は、さっきの揺れで安全確認が必要。この階段は方向としては南東、今回確認する予定だった新経路の延長にかなり近い」
「俺もそう見る」
カイルは湖岸から階段までの地形を確かめながら、槍の固定具を締め直した。
「しかも入口周りに新しい崩落はない。今すぐ危ない感じはしない」
「感じじゃなく確認しろ」
「だから今からする」
ガレスに釘を刺されても、カイルは不満を見せず階段の縁まで進んだ。
風を足元へ薄くまとわせ、一段目、二段目まで降りる。左右の壁や天井を確認したところで止まり、それ以上は先行しなかった。
「少なくとも入口は安定してる。風も下から来てる」
「風?」
エルナが階段の前へ寄り、髪先へ触れる。
確かに弱い空気の流れが下から上がっていた。
「どこか広い場所に繋がってるのかもね」
「可能性はある」
レオンは測定器をしまい、ガレスへ顔を向けた。
「新経路探索という目的には合っています。地形も、既存経路を無理に延長するより自然です」
ガレスはそれでもすぐには決めなかった。
今度はセリアへ視線を移す。
「状態は?」
セリアは待っていたように全員へ目を向けた。
「カイルの膝は軽い打撲。歩けるけど、痛みが増えたらすぐ止める。エルナの足首は問題なし。レオンは魔力消費が少しあるけど許容範囲」
続いて、フィナとリリカを見る。
「フィナは身体疲労が少し。リリカは魔力を使ってるけど、どちらも今なら進める」
「ネムは?」
ガレスに確認され、枕型魔導具を抱えたネムは自分から顔を上げた。
「……少し眠い。歩ける。魔法は短いのなら使える」
「下りながら悪くなったら?」
「……言う」
セリアがそれを聞いて、小さく笑った。
「ネムはそれでいい。私も後ろから見る」
ガレスは最後にミアへ向き直る。
「帰路は記録できるか」
「できる。階段そのものは分岐なし。入口も湖岸から見失わない」
「よし」
短い返事とともに、ガレスの表情が決まった。
「下りる。ただし、異常が一つでも重なったら戻る。調べるために死ぬ気はねえ」
「はい」
フィナは今度こそ迷わず答えた。
未知へ進めることは嬉しい。けれど、戻る判断まで含めて探索なのだと、ここまでの道で何度も見せられてきた。
探索隊は隊列を組み直した。
先頭にカイルとミア。その後ろへガレス。
中央にフィナたち五人が入り、セリアは全員の歩き方を確認できる後方寄りへつく。
「段差大きいから、急がないで」
セリアが後ろから声を掛けると、先を進むカイルも普段より歩幅を抑えた。
「ネム、きつかったら言ってね」
フィナは一段下へ降りながら、隣のネムを気にして振り返る。
「……まだ平気」
「抱っこの方が楽?」
「……歩く」
「そっか」
その返事に、フィナは余計な手を出さず前へ向き直った。
リリカは歩きながら数段ごとに冊子へ記録し、レオンも階段の高さや岩質の変化を書き足していく。
最初の百段ほどは、湖から吹いていた湿った風が背中へ届いていた。
だが下るにつれて、その感触が変わる。
「空気、冷たくなってない?」
フィナが腕を擦る。
前方にいたミアも立ち止まり、片耳の音響魔導具へ触れながら小さく息を吸った。
「冷たい。それと乾いてる。湖側の湿気が薄くなってる」
「匂いも違うわね」
エルナは眉を寄せ、階段脇の岩壁へ視線を向けた。
青白い菌類も、湿った苔も、いつの間にか姿を消している。代わりに岩の裂け目には、薄い灰色の硬い殻を持つ小型の生き物が張りついていた。
光を当てると、地上側へ逃げるのではなく、さらに暗い裂け目の奥へ潜り込んでいく。
「さっきまでと生き物も違う」
リリカが足を止めずに書き込む。
「湖の向こうに来ただけなのに、こんなに変わるんですね」
「深さも増えてる」
レオンは階段の傾斜を見上げず、下へ続く闇へ視線を固定した。
「同じ迷宮でも、環境が切り替わる境目なのかもしれない」
さらに下ると、今度は天井近くの暗闇を細い影が横切った。
カイルがすぐ槍へ手を掛けたが、その生き物はこちらへ降りてこない。長い膜状の翼だけを一瞬光に見せ、そのまま下方へ消えていった。
「追わないよ」
ミアは音響魔導具へ指を添えたまま、先頭で歩みを止めない。
「一匹だけ。こっちに興味なし」
「この辺から、上で見た魔物と変わると思っとけ」
ガレスは巨大剣へ手を伸ばせる姿勢を保ちながら、階段の左右を確認していた。
「知らない奴ほど、先に手を出すな。習性も間合いも分からん」
「了解、隊長」
カイルは槍から手を離さず、それでも先行距離を伸ばさない。
エルナも雷を出しかけることなく、頭上の暗闇を警戒していた。
どれだけ下ったのか、湖の波音はもう聞こえない。
振り返っても、上方には細長い暗闇が続くだけだった。
——その時。
遠くで、低い音がした。
全員の足が止まる。
「……また?」
フィナが声を落とした直後、二度目の地鳴りがさらに深い場所から響いた。
数秒置いて、三度目。
今度は階段の表面に置かれた細かな砂まで震えた。
ガレスが片手を上げたまま全員をその場へ留め、ミアとネムが揃って足元へ意識を向ける。
断続的な地鳴りは止まらず、一定でも不規則でもない間隔を挟みながら、まだ見えない深層の奥で何か巨大なものが身じろぎするように続き始めていた。




