第四章 14 『水竜の湖』
探索用魔導船の真下を通り過ぎた巨大な影は、そのまま湖の暗闇へ消えた。
誰もすぐには動かなかった。
船首側ではミアが片耳の音響魔導具へ指を押し当て、水中へ短い反響音を繰り返し送っている。ガレスは巨大剣を抜かないまま船体中央へ重心を落とし、カイルも槍へ手を掛けて水面を警戒していた。
「……離れてない」
ミアの声が低くなる。
「船の右下を回ってる。深さは……さっきより浅い」
「追ってきてる?」
フィナは船縁から距離を取ったまま、水面の下へ目を凝らした。
「たぶん。速くなってる」
答えが終わるより先に、右舷側の水面が盛り上がった。
「——掴まれ!」
ガレスの声と同時に、湖が爆発した。
巨大な水柱が船のすぐ横から立ち上がり、船体を強く押し流す。魔導船が左へ大きく傾き、固定していた荷物まで金具を軋ませた。
「船体右側に衝撃!」
船尾のレオンは片手を床へ叩きつけ、船体を覆うように複数の構築術式を展開する。
青白い結界が右舷へ重なり、水圧を受けた船板の変形を食い止めた。
「推進機構は生きてる! でも次を同じ場所でもらうと危ない!」
「本体、上がる!」
ミアが水面を指した。
数十メートル先で、巨大な頭部が水を割って現れる。
青黒い鱗。長く伸びた首。頭部の左右には水晶のような角が生え、背には大きな鰭が何枚も並んでいた。
胴体の全長は、水面へ出ている部分だけでは分からない。それでも、船より遥かに巨大であることだけは疑いようがなかった。
「水竜……みたい」
リリカは杖を構えながらも、驚きで一瞬目を見開いた。
「見惚れるのはあとだ!」
ガレスが水竜と船との距離を見ながら、右手を振る。
「正面へ来る! レオンは船を守れ! セリアは中央! 全員、落水だけはするな!」
水竜の口元へ水が集まり始めた。
湖面そのものが引き寄せられ、巨大な水塊が圧縮されていく。
「来るよ!」
フィナは船首寄りへ踏み込み、両手を正面へ向けた。
「——すごい水!」
船の前方に、巨大な水壁が立ち上がる。
直後、水竜の口から圧縮された水流が撃ち出された。
轟音。
二つの水が真正面から衝突する。
フィナの水壁が押され、表面が大きく凹んだ。
「重い……!」
フィナの足が半歩だけ後ろへ滑る。
力負けしているわけではない。だが船を守りながら受けているため、水を無制限に膨らませれば船体まで巻き込む。
「フィナ、中央だけ厚くしろ!」
船尾側からレオンの声が飛ぶ。
「横へ広げるな! 押し返す方向を前へ固定!」
「分かった!」
フィナは両腕を少し狭めた。
水壁の横幅が縮まり、その代わり正面中央の密度が一気に上がる。水竜の水流とフィナの水が拮抗し、湖面の上に巨大な水の壁が形成された。
「今なら本体見える!」
エルナは船の左側へ移り、右手へ雷を集めた。
だが、水面へは撃たない。
雷光を細い一本に絞り、水竜の首だけを狙う。
「——雷針〈アグハ・ヴォルティア〉!」
鋭い雷撃が水壁の脇を抜け、水竜の肩口へ直撃した。
青黒い鱗が弾け、水竜が首を振る。
その瞬間、水流ブレスの軸が逸れた。
「押し返すよ!」
フィナが両手を前へ突き出す。
水壁が一気に前進し、水竜のブレスごと押し返した。
巨大な水塊を浴びた水竜が後方へ沈む。
「やった?」
リリカが水面を見つめる。
「まだ!」
ミアの声が重なった。
次の瞬間、船の左右から三本の水柱が立ち上がる。
「囲まれた!」
カイルは槍を接続し、最も近い水柱へ向けて足元へ風を集めた。
「カイル、どこ行くの!?」
フィナが振り返った時には、もう遅い。
カイルは船縁を蹴り、水柱の表面へ飛び乗っていた。
「そこ、乗れるの!?」
「一瞬なら!」
足裏の風で身体の接触を補助しながら、カイルは上昇する水柱を螺旋状に駆け上がる。
頂点近くで蹴り出し、別の水柱へ跳ぶ。
その下から、水竜の尾が水面を突き破った。
「カイル、下!」
エルナの警告に、カイルは空中で槍を振る。
穂先へまとった風が身体の向きを変え、尾の軌道から僅かに外れた。
水柱へ再び着地する。
「今の危なかった!」
エルナは船上から水竜の尾の付け根だけへ雷を飛ばす。
水面へ広く流さず、露出した鱗へ一点だけ落とす精密な一撃だった。
水竜の尾が痙攣し、船への横薙ぎが途中で止まる。
「助かった!」
カイルは水柱から跳び、水竜の背へ槍を突き込んだ。
「——疾風穿〈ヴェル・ラディア〉!」
風をまとった穂先が鱗の隙間へ食い込み、水竜が大きく身を捩る。
カイルは即座に槍を抜き、水面へ落ちる前に別の水柱を踏んで船へ戻った。
「そんな使い方ありなの!?」
フィナが驚いている間にも、水竜は次の攻撃へ移る。
水面から無数の水塊が浮かび上がった。
拳大ではない。一つ一つが人間ほどもある圧縮水弾だ。
「全部船狙い!」
ミアが叫ぶ。
「十……十二! 右から多い!」
レオンは船体周囲へ防御結界を展開するが、全てを受ければ推進機構への負担が大きい。
「落とせる奴は落としてくれ!」
「はい!」
リリカが船体中央から杖を上げる。
「——心火一灯〈カンデリア〉!」
小さな火が十数個展開される。
ただし水弾へ直接ぶつけない。
「熱くしすぎたら蒸気が船に来る……なら、表面だけ!」
リリカは自分で距離を見ながら、小さな火を水弾の進行方向へずらして配置した。
火が触れた水弾の表面だけが急速に乱れ、圧縮が崩れる。
二つ、三つと水塊が途中で形を失い、湖へ落ちた。
「右奥、まだ五つ!」
ミアが位置を伝える。
「ネム!」
フィナが振り向くと、ネムはすでに枕型魔導具から片手を離していた。
「……近い三つだけ」
静かな声と同時に、船へ迫っていた巨大水弾が三つ、空中で不自然に止まった。
「今!」
レオンが結界の一部を前方へ押し出す。
停止が解けた瞬間、三つの水弾は結界へ斜めに当たり、そのまま船の左右へ流された。
「残り、私がやる!」
フィナは両手を水面へ向ける。
「——お水、そっち!」
残っていた水弾の進行方向だけが曲がった。
水竜自身が操る水へ別の流れが正面から入り込み、二つの巨大水弾が互いに衝突する。
大量の水飛沫が船の前方へ降り注いだ。
「ほんとに水同士で喧嘩してるみたいね!」
エルナは濡れた前髪を払いながら、水竜の頭部へ狙いを定め直した。
「でも、まだ来る!」
水竜は湖面から半身を大きく持ち上げた。
頭部の角が強く発光し、その周囲の水が巨大な渦となって集まっていく。
さっきまでとは桁が違う。
「大きいの来る!」
フィナの表情から笑みが消える。
レオンも船体結界を正面へ集め、ガレスは巨大剣を甲板へ突き立てて船の揺れへ備えた。
「船ごと呑むつもりだ!」
巨大な水流ブレスが放たれる。
「フィナ!」
「うん!」
フィナも正面へ両手を突き出した。
「——すごい水!」
湖面が持ち上がる。
今度は壁ではない。フィナの前から巨大な奔流が正面へ走った。
二つの水流が湖の中央で激突する。
水面が左右へ割れ、周囲から何本もの水柱が噴き上がった。
船が後方へ押される。
「推進を止めるな!」
レオンは結界を維持したまま魔導船の機構へ魔力を流し、後退しすぎないよう出力を調整する。
「あと少し正面で固定できる!」
「じゃあ押す!」
フィナの水流が太くなる。
水竜も負けじと角を輝かせ、さらに水を集めた。
一度は押し返す。再び押し返される。
湖上で巨大な水の塊が何度も形を変え、両者の間を行き来する。
「エルナ! 首を上げさせろ!」
ガレスの声が飛ぶ。
「分かった!」
エルナは雷を一本に絞り、水竜の顎の下へ撃ち込んだ。
水竜の首が反射的に上がる。
ブレスの軸が僅かにずれた。
「カイル!」
「行く!」
カイルは新たに噴き上がった水柱へ飛び乗り、風をまとって一気に上昇する。
そこから水竜の首へ向かって跳ぶ。
「——風牙連槍〈フェルザ・リオン〉!」
連続する槍撃が首の側面へ突き刺さった。
リリカも船上から小さな火を五つだけ放つ。
「傷口だけ狙います!」
炎は水面へ落とさず、カイルが作った鱗の隙間へ集中した。
小規模な熱だけが内部へ入り、水竜が苦しげに首を振る。
「今なら押せる!」
ミアが船首側から叫ぶ。
「フィナ、正面一直線!」
「うん!」
フィナは水竜だけを見た。
「——もっと強い水!」
奔流が一気に細く、重く圧縮される。
広く押すのではなく、水竜の胸部だけへ集中した巨大水圧が正面から叩き込まれた。
水竜の巨体が湖面を滑るように後退する。
それでも踏ん張るように尾を水中へ沈めたが、ガレスの巨大剣が船上から振り抜かれた。
「——岩穿剣〈グラド・ロクシア〉!」
褐色の斬撃が水面を割り、水竜の胸部へ重なる。
エルナの雷。カイルの槍。リリカの火。フィナの水流。
攻撃がほぼ同時に一点へ集中した。
水竜の身体が大きく反り、最後に激しい水飛沫を上げて湖へ沈んだ。
数秒後。
巨大な影が水中で動かなくなる。
「反響、止まった!」
ミアが確認すると、船上の緊張がようやく少し緩んだ。
セリアはすぐに全員の身体を見回し、カイルが水柱から戻った際に打った左膝と、レオンの魔力消耗を確認する。
「大きな怪我はなし。カイル、膝は歩く前に見るからね」
「了解、セリアさん」
「ネムは?」
セリアが船中央へ顔を向けると、ネムは枕を抱えたまま目を細めていた。
「……ちょっと疲れた」
「じゃあ岸までは休んでて」
「……そうする」
フィナもその場に座り込みそうになるほどではないが、何度も巨大な水流を正面から受けたせいで、肩へ少し力が残っていた。
「水の魔物と水で戦うの、変な感じだった……」
「正面から押し勝つ方も大概よ」
濡れた髪を整えながら、エルナが呆れたように笑う。
その後は大きな襲撃もなく、探索用魔導船は湖を進み続けた。
やがて暗闇の向こうに岩岸が現れ、少しずつ対岸の輪郭が広がっていく。
船が岸へ触れると、ガレスが最初に降りて足場を確認し、ミアとカイルが左右を調べる。
「周辺、今のところ問題なし!」
ミアの声を受け、フィナたちも一人ずつ船を降りた。
長い水上移動を終え、フィナは久しぶりに揺れない地面を踏みしめる。
「地面って安心するね」
「フィナがそれ言うと妙に重いわね」
エルナの返しに首を傾げながら、フィナは岸の奥へ視線を向けた。
そこで足が止まる。
「……あれ、何?」
岩壁の中央に、巨大な階段があった。
一段ごとの幅が人間数人分もあり、暗闇の奥へ向かってまっすぐ下へ続いている。
自然に崩れてできた形ではない。
明らかに、誰かが造ったものだった。
ミアは急いで地図を広げ、現在地と照らし合わせる。
「——ない」
指先が地図の空白部分で止まった。
湖を越えた先に記されている既知の経路と、目の前の巨大階段は一致していない。
水竜との戦いを越えて辿り着いた対岸で、探索隊は既存の地図に存在しない巨大な階段と、その先へ沈んでいく新たな暗闇を見つめていた。




