第四章 13 『地の底の湖』
巨大峡谷を抜けた先で、探索隊を待っていたのは、岩壁でも樹林でもなかった。
細い下り道を進むにつれて湿った空気が強まり、やがて暗闇の向こうから低い波音が聞こえ始める。フィナが首を傾げながら曲がり角を抜けた瞬間、携帯灯の光が届くより遥か先まで、水面が広がっていた。
「……湖?」
フィナは思わず足を止めた。
目の前にある水域は、湖と呼ぶにはあまりにも大きい。右を見ても左を見ても岸が遠くまで続き、正面の対岸は薄い靄の向こうへ溶けている。天井も携帯灯では捉えられず、遥か上の岩肌に付着した発光鉱物だけが、星のように疎らな光を落としていた。
その光を受けた水面には、小さな波が絶えず打ち寄せている。
「地下なのに波がある……」
リリカは水際へ近づきすぎない位置でしゃがみ、記録冊子を開いた。
「風で起きてるんでしょうか?」
「それもあるだろうけど、湖自体に流れがあるかもしれない」
レオンは靴先が濡れない場所に立ち、水面の揺れと空気の流れを交互に確認する。
「どこかから大量に流れ込んで、別の場所へ抜けてるなら、地下でも波はできる」
「海みたいだね」
フィナがそう口にした瞬間。
レオンの視線が止まった。エルナも振り返った。リリカは記録冊子から顔を上げ、ネムまで枕型魔導具の上からフィナを見た。
「……なに?」
四人分の視線を受け、フィナは一歩だけ後ろへ下がる。
「私、まだ何もしてないよ?」
「今のところはな」
レオンが警戒を隠さず返す。
「ちょっと! アクアレイアの時だって、私が海を逆さにしたわけじゃないからね!?」
「でも水を見た時のあんた、だいたい何か思いつくじゃない」
エルナは腕を組みながら、水面とフィナを交互に見比べた。
「今回は『底を見たい』とか言わないでよ」
「今言おうと思ってたのに!」
「やっぱり!」
「見るだけだよ!? 水をどかしたりしないよ!」
フィナが慌てて両手を振る横で、ネムは水面へ視線を戻した。
「……魚、困る」
「しないって言ってるよね!?」
リリカは真剣な顔で冊子へ一行を書き足した。
「フィナ師匠、水域ではまず生態系への配慮を――」
「私が教えたみたいにしないで!」
声が湖面へ広がり、少し遅れて暗闇の奥から反響が返ってくる。そのあまりの広さに、フィナは自分の抗議まで途中で忘れ、改めて湖の向こうへ目を凝らした。
少し離れた岩棚では、ミアが地図を広げていた。湖岸の形を確認しながら、片耳の音響魔導具へ指を添え、短い音を水面すれすれへ飛ばしている。
「対岸、直線でもかなり遠いよ。岸沿いに歩くと、もっとかかる」
返ってきた響きを確かめたミアは、水際からさらに右側へ視線を動かした。
「でも渡る方法はある」
「船か」
ガレスが見ている先には、岩壁を削って作られた小さな船着き場があった。
そこへ係留されているのは木造船ではない。細長い船体を金属と強化木材で組み、底部と側面に複数の魔石機構を備えた探索用魔導船だった。船内には荷物固定用の金具や照明設備まであり、深層探索用に何度も補修された跡が残っている。
「ここまで船を運んだの?」
フィナが驚いて近づくと、カイルは船体脇の固定具を外しながら首を振った。
「たぶん現地で組んだ。部品を分けて運んで、ここで組み立てるんだよ」
「……それも大変そう」
「だから壊したら困る」
カイルの半眼がフィナへ向く。
「なんで私を見るの?」
「水の前にいるから」
「理由になってないよ!」
エルナがすぐ隣で吹き出し、フィナが頬を膨らませる。
その間にも、ガレスとカイルは船体の状態を確認し、ミアは岸から見える範囲の障害物を地図へ追記していた。
「船底に大きな損傷なし。推進用魔石も生きてる」
船尾付近を確認したレオンは、魔力回路へ指を触れず、外から流れだけを追う。
「補修跡は多いけど、今のところ動かせそうだ」
「乗る前に全員の状態も見たい」
セリアは水際から少し離れた場所で、一人ずつ顔色を確認した。
「エルナ、足首は?」
「もう痛くないわ。固定もいらないくらい」
「じゃあ歩行は普通でいい。でも船の上で無駄に跳ばないこと」
「私を何だと思ってるのよ」
「カイルと競争する人」
セリアの即答に、エルナが詰まる。
少し先で船へ荷物を積んでいたカイルは、それを聞いて片眉を上げた。
「船の上じゃ競わない」
「分かってるわよ!」
「先に言っただけ」
「その言い方が腹立つの!」
フィナは二人のやり取りを見ながら笑い、荷物を抱えて船へ乗り込んだ。
探索隊全員が乗ると、ガレスは荷物を中央寄りへ固定させ、セリアとネムを揺れの少ない位置へ移す。ミアは船首側、レオンは推進機構を確認できる船尾寄りに座り、カイルとエルナは左右へ分かれた。
「嬢ちゃんは中央」
「なんでですか?」
「何か思いついても、すぐ水へ手が届かん」
「ガレスさんまで!?」
フィナの声を背に、魔導船がゆっくり岸を離れる。
魔石機構の低い駆動音が響き、水面に細い波が広がった。
陸が遠ざかるにつれ、湖の印象はさらに海へ近づいていく。岸壁の反射音が消れ、四方を暗い水面だけに囲まれる。遥か上の発光鉱物は頼りないほど小さく、船の照明が届く範囲だけが水上に浮かぶ小さな世界のようだった。
「静かだね」
フィナが声を落とす。
ネムは隣で枕型魔導具を抱えたまま、水面をじっと見ていた。
「……下は静かじゃない」
「何かいる?」
「……いっぱい」
その直後、船の脇を青い光が走った。
フィナが身を乗り出さないよう気をつけながら覗くと、透明に近い魚の群れが水中を泳いでいる。腹部に細い発光器官があり、一匹が向きを変えるたびに青い線が暗闇へ描かれた。
「わあ……!」
リリカも反対側から水面を覗き、すぐに冊子へ筆を走らせる。
「発光魚です! 数もかなり多いです!」
「前にも光る魚は見たけど、こっちは全然違うね」
フィナがアクアレイアの海を思い出して目を細める。
あの時は空中水路にも海中にも光が満ちていた。今は、船の周囲以外はほとんど闇だ。だからこそ、水中を横切る一匹一匹の光が際立って見える。
「右前、少し揺れる」
船首側のミアが急に声を抑えた。
「波じゃない。何か通った」
全員の視線が右前方へ集まる。
水面が大きく盛り上がり、次の瞬間、一本の水柱が五メートルほど立ち上がった。
「うわっ!」
フィナが反射的に両手を上げる。
だが水柱は船へ倒れてこず、その場で砕けて大量の水滴となった。
「攻撃じゃない」
ミアは音響魔導具へ集中したまま、首を少し傾ける。
「下で何か動いて、水を押しただけ」
「だけであれ?」
エルナは右手へ薄く雷を集めかけ、すぐに消した。
「水の上で雷は面倒ね」
「撃つなら絶対に位置を確認してからだ」
船尾側のレオンが推進機構から顔を上げる。
「船体にも魔力回路がある。水へ広く流すなよ」
「分かってるわよ」
今度のエルナは反論せず、水面へ警戒を戻した。
それからもしばらく、湖は幻想的でありながら落ち着かない表情を見せ続けた。
発光魚の群れが船底を横切る。遠くでは何度か水柱が上がる。水面ぎりぎりを淡い光が走ったかと思えば、その下に見える影だけが急に大きくなることもあった。
「さっきの影、大きかったね」
フィナが船縁から少し離れて座り直す。
「魚?」
「魚なら嫌だな」
カイルは槍を手の届く位置へ置いたまま、水面を見ている。
「今の、船より長かった」
「カイル、それ早く言ってよ!」
フィナが慌てて足を船内へ引っ込めた。
「水の中に入れてないだろ」
「気持ちの問題!」
ミアは二人のやり取りには加わらず、音響魔導具へ意識を集中していた。それまで水面近くへ飛ばしていた音を、今度は船底のさらに下へ落とす。
数秒。
黄緑色の目が少しずつ見開かれた。
「……隊長」
明るさの消えた声に、ガレスがすぐ船首側へ身体を向ける。
「何だ」
「真下に、でかいのがいる」
——次の瞬間。
船の下に広がっていた青い発光魚の群れが、一斉に左右へ散った。
そのさらに下。
暗い水中を、ひとつの巨大な影がゆっくり横切っていく。
端が見えない。
船体の長さを軽く超え、それでもまだ胴の途中らしい黒い輪郭が、水面から僅かに透けて見えていた。
誰も声を出さないまま見守る中、その影は探索用魔導船の真下を悠然と通過し、発光魚の光ごと湖の暗闇へ飲み込まれていった。




