第四章 12 『深層の揺らぎ』
晶鎧獣を倒してから、探索隊は峡谷の岩棚を少し戻り、比較的幅のある場所で休息を取ることになった。
戦闘中に砕けた魔晶石の破片がまだ周囲に散らばり、青や紫の光を不規則に反射している。遠くには倒れた晶鎧獣の巨体が残り、その外殻から剥がれ落ちた結晶だけが、時折遅れて岩肌を転がっていた。
「まず怪我を見せて。平気そうでも順番に確認するから」
セリアは荷物を下ろすと、休むより先に治療道具を広げた。
最初に呼ばれたカイルは、槍を岩壁へ立てかけて左腕を差し出す。外殻の上を走った際に結晶片で擦ったらしく、袖の下に細い傷が何本か残っていた。
「このくらいなら動ける」
「動けるかどうかじゃなくて、悪化するかどうかを見るの」
セリアは傷口を洗い、薄く光を当てながら皮膚の状態を確かめる。
「深層で小さい傷を放置して、あとで動けなくなる方が面倒だから」
「分かった、セリアさん」
カイルが素直に引き下がったのを見て、少し離れて座っていたエルナが眉を上げた。
「案外ちゃんと言うこと聞くのね」
「死にたくないから」
「そこだけは話が早いわね」
「エルナも次」
セリアから名前を呼ばれた瞬間、エルナの表情が僅かに固まった。
「私は平気よ?」
「右足」
「……見てたの?」
「着地した時、一回だけ庇ったでしょ」
逃げられないと悟ったエルナは、少し不満そうに靴を脱いだ。
足首に腫れはないものの、結晶外殻から飛び降りた際の衝撃が残っているらしく、押されると眉間へ皺が寄る。
「痛いじゃない」
「ちょっとよ」
「ちょっとなら今のうちに休ませる」
セリアが固定用の布を巻き始めると、エルナは反論を諦めて岩壁へ背を預けた。
その横でフィナは自分の手足を見回し、目立った傷がないことを確認している。
「私は大丈夫そう」
「フィナはあとで呼ぶから、自分で終わらせないでね」
「はい……」
先回りを封じられ、フィナの肩が小さく落ちる。
レオンはその様子を横目で見ながら、割れた記録板の端を布で補強していた。晶鎧獣の反射位置を書き込んでいる途中で細かな結晶片が当たり、角の一部が欠けている。
「レオン、その板はあと」
セリアの視線が飛んできた。
「先に手」
「手?」
「右手の甲、切れてる」
言われて初めて気づいたらしく、レオンは自分の手へ目を落とした。薄い血の筋が一本だけ伸びている。
「これくらいなら記録に支障は――」
「その台詞、ガレスと同じだからやめて」
「俺まで巻き込むな」
少し離れた場所で巨大剣を点検していたガレスが、低い声だけ返した。
セリアは二人をまとめて見たあと、柔らかい笑顔のまま目だけを細める。
「じゃあ二人とも、次から『動くから平気』は禁止ね」
「……分かった」
「了解」
フィナは思わず口元を押さえた。
「二人とも弱いね、セリアさんに」
「お前も同じだ」
レオンの返しに、フィナの笑顔が止まる。
「私はまだ何もしてないよ?」
「今、自分で確認して終わらせようとしただろ」
「それは……ちょっとだけ」
「……同じ」
枕型魔導具を抱え、近くの岩へ座っていたネムが短く加わる。
フィナは助けを求めるようにネムを見るが、本人はすでに目を半分閉じていた。
「ネムも確認するよ」
セリアが近づくと、ネムは枕を抱えたまま顔だけ上げる。
「疲れた?」
「……少し」
「眠いのは?」
「……いつもより、ちょっと強い」
「魔法はまだ使えそう?」
ネムはすぐには答えず、自分の指先を一度見た。
「……使える。でも、長いのは嫌」
「うん。それでいい。今日は短く使う前提にするから、もっと重くなったら教えて」
「……分かった」
以前なら「平気」で終わらせていたかもしれない。今のネムは、自分の疲れを必要な分だけ言葉にしている。
フィナはそれを聞きながら、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「ネム、ちゃんと言えたね」
「……フィナも言う」
「私はまだ大丈夫だよ?」
「……そういうところ」
「ネムまでセリアさん側!」
小さなやり取りに、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
リリカはその間に自分の魔力残量を確認し、使った小さな火の数と負担を記録冊子へ書き込んでいる。さっきまでの戦闘でかなりの数を展開したが、呼吸は落ち着いていた。
「リリカは?」
セリアが声を掛けると、リリカは記録冊子から顔を上げた。
「魔力は少し減っています。でも、歩くのも魔法を使うのも大丈夫です」
「眩暈や頭痛は?」
「ありません!」
「なら休んで水飲んで。記録はそのあと」
「はい!」
素直に冊子を閉じたリリカの横で、ミアは地図を膝へ広げていた。戦闘中に使えなくなった経路や、結晶光線が砕いた足場を書き直している。時折峡谷の左右へ目をやり、戻る際に使える道も確認していた。
「ここ、帰りは少し遠回りした方がいいかも」
ミアは地図の一箇所を指でなぞる。
「さっきの反射で右の岩棚が割れてる。渡れなくはないけど、荷物増えた状態だと嫌だな」
「別の道は?」
ガレスが剣の点検を終え、ミアの隣へ移動する。
「左側に一段下の棚がある。距離は伸びるけど幅は広い」
「帰りはそっちを使う」
「了解、隊長。地図直しとく」
フィナは二人の会話を聞きながら、水筒へ口を付けた。
戦いが終わってからも、見るべきものは次々と出てくる。
怪我。疲労。道。装備。帰りに同じ場所を通れるかどうか。
勝った直後に気を抜く暇がないという意味が、少しずつ実感として分かってきた。
「——嬢ちゃん」
ガレスの声に呼ばれ、フィナは顔を上げる。
「今のうちに食っとけ。次の休憩がいつ取れるか分からん」
「はい!」
返事をしたフィナは鞄を開き、保存食の袋へ手を伸ばした。
その横から、ネムの視線がゆっくり袋へ移動する。
「……ネムの分もあるよ?」
「……言ってない」
「顔が言ってたよ」
「……じゃあ、少し」
「やっぱり欲しかったんじゃない!」
フィナが袋を開け、半分を渡そうとした瞬間だった。
足元から、低い音が響いた。
最初は遠くで何かが崩れたような音だった。だが次の瞬間、岩棚そのものが大きく揺れた。
「——伏せろ!」
ガレスの声が峡谷へ響く。
フィナはネムを抱えるように身体を低くし、レオンは咄嗟に手を地面へ向けて足場を補強する結界を展開した。
周囲の魔晶石が一斉に震える。
巨大な結晶柱同士がぶつかり、甲高い音が連続して響いた。岩壁から落ちた水滴が空中で散り、休憩場所の隅に生えていた細い地底植物まで激しく揺れている。
「さっきより大きい!」
エルナは固定された右足を庇いながら岩壁へ手をつき、落ちてくる結晶片を雷で細かく砕いた。
「上、崩れる場所ある!?」
フィナの声に、ミアは音響魔導具へ手を当てる。
「待って、揺れが強すぎて拾えない!」
振動は十秒ほど続いた。
長い。
それでも突然始まった時と同じように、やがて少しずつ弱くなっていく。
最後に細かな砂が岩壁から落ち、峡谷へ静けさが戻った。
「全員いるか」
ガレスは姿勢を低くしたまま、探索隊を順番に確認した。
「いる!」
フィナは抱えていたネムを離し、レオン、リリカ、エルナへ視線を走らせる。
セリアもすぐに全員の身体を見回していた。
「新しい怪我は?」
「こっちはない!」
カイルは槍を杖代わりにして立ち上がり、峡谷の先へ目を向ける。
「でも、何か変だ」
「何が?」
エルナが足元を確かめながら問う。
カイルは答えず、遠くの岩棚を指した。
そこを、小型の四足魔物が走っていた。
一体ではない。その後ろから別の群れが続く。
さらに上空には飛行魔物まで現れ、同じ方向へ飛び去っていく。
「こっちに来る?」
リリカが杖へ手を伸ばす。
「違う」
ミアは立ち上がると、地図を脇へ挟み、片耳の音響魔導具へ集中した。
「戦う気ない。全部、こっちを無視してる」
別の岩陰からも魔物が飛び出した。
晶鎧獣より小型のもの。地底森林で見た飛行昆虫。遠くの崖を這う大型の影。
種類も生息場所も違うはずの魔物たちが、互いに争うことすらせず、揃って浅い方角へ向かっている。
ミアの顔から、いつもの明るさが完全に消えた。
「何かから逃げてる」
ガレスは巨大剣を握り直し、魔物たちが来た方向へ身体を向ける。
「深い方からか」
「たぶん。でも、何からかまでは分からない」
ミアは何度も音を送るが、遠くの反響が乱れすぎているらしく、眉を寄せたままだった。
「隊長、追う?」
カイルが槍を構えたまま尋ねる。
「追わん」
ガレスは即座に切った。
「逃げてくる連中の正面へ出るな。まず原因を読む」
その間にも、魔物の群れは途切れない。
戦えば縄張りを守るはずの個体まで、こちらへ牙を向けることなく通り過ぎていく。
フィナはその光景を見ながら、胸の奥に冷たい違和感を覚えた。
さっきの揺れだけなら、深い場所で起きた崩落かもしれない。けれど、魔物まで一斉に逃げる理由は何なのか。
——その時。
ネムだけが、皆と違う方向を見ていた。
枕型魔導具を抱えたまま、ゆっくり膝をつく。そして片手を岩床へ触れさせ、普段より僅かに目を開いた。
フィナはその様子に気づき、声を掛けようとして止まる。ネムの意識が、足元よりさらに深い場所へ向いているのが分かったからだ。
しばらくして、ネムの小さな声が、逃げていく魔物たちの足音の間へ落ちた。
「……下、動いた」
その一言を境に、フィナたちの視線は魔物が去っていく先ではなく、自分たちの足元に広がる、さらに深い暗闇へと向けられていた。




