第四章 10 『風と雷の先行路』
巨大地底森林を抜けた先で、探索隊の前から地面が消えた。
発光樹の根が途切れた場所から先は、左右へ果てしなく続く巨大峡谷になっている。対岸は見えているのに、谷底は携帯灯の光が届かず、落とした小石の音もなかなか返ってこなかった。
「……深いね」
フィナは縁から少し離れた位置で足を止め、暗闇へ目を凝らした。
「覗き込みすぎるなよ」
レオンはフィナの肩を軽く引きながら、峡谷沿いに続く岩棚へ視線を移した。
「通れそうなのは、あっちか」
進行方向には、人一人が歩ける程度の細い足場が崖へ張り付くように続いている。場所によっては幅が靴二つ分ほどしかなく、途中には崩落して切れている箇所まであった。
先頭側にいたミアは片耳の音響魔導具へ指を添え、峡谷へ短い反響音を飛ばす。
「下はかなり広い。こっちの岩棚は百歩くらい先まで続いてるけど、その後は曲がってて見えない」
「風は?」
ガレスが峡谷の壁面を見上げる。
ミアは少し首を傾け、頬へ流れる空気を確かめた。
「一定じゃない。下から上へ抜ける風と、横から巻き込む風が交互に来てる」
それを聞いたカイルが、背中の分割槍へ手を掛けた。
「俺が先見る」
「一人で行く?」
エルナがすぐに反応し、足場の先へ目を向ける。
「私も行くわ」
「狭いぞ」
「見れば分かる」
カイルが半眼のままエルナを見返す。
「雷で飛ばしすぎて落ちるなよ」
「そっちこそ風に乗って谷底まで行かないでよね」
「二人とも」
ガレスが低い声で止めると、カイルもエルナもすぐに口を閉じた。
「競うのは構わん。だが、戻ってこられる範囲までだ。先行は探索だ。勝負じゃねえ」
「分かってる、隊長」
カイルは短く返し、エルナも腕を組んだまま頷く代わりに視線を前へ戻した。
「危ないと思ったら止まるわよ」
「なら行け。二人とも、互いの位置を見失うな」
許可が出ると、カイルは長槍を接続せず、軽い状態のまま岩棚へ踏み出した。
エルナも少し間を空けて続く。
フィナたちは峡谷の入口側で待ち、二人の姿を見守った。
最初の数十歩はまだ足場が広い。ところが先へ進むにつれ岩棚は細くなり、右側は垂直の岩壁、左側は底の見えない空間だけになる。
「カイル、速いね」
フィナが目を丸くする。
カイルは走っているわけではない。それでも足を止めない。
足場が狭くなれば歩幅を自然に小さくし、岩の出っ張りがあればそこへ足を乗せる。横風が吹く直前には壁側へ身体を寄せ、風が抜けた瞬間だけ次の一歩を進めていた。
「風を使ってるだけじゃないな」
レオンは二人の動きを追いながら、足場の形を記録板へ書き込む。
「先に地形を読んでる。足を置いてから調整するんじゃなく、置く場所を決めてから動いてる」
「……深層歩きに慣れてる」
ネムは枕型魔導具を抱えたまま、遠くのカイルへ目を向けている。
「……エルナ、追ってる」
そのエルナは、カイルとはまるで違う動き方をしていた。
足場へ踏み込む直前、足元へ細い雷光が走る。《紫電歩〈パソ・センテリア〉》による瞬間的な加速で狭い区間を抜け、次の安全な岩面へ正確に着地する。
「今ので三歩分!」
エルナの声が峡谷へ響く。
少し先を進んでいたカイルが振り返る。
「その着地、次の風来たら危ない」
「来る前に動くから問題ないわ!」
「二秒後」
「え?」
カイルが壁側へ身体を寄せた直後、峡谷の下から強い風が吹き上がった。
エルナの髪と装備の裾が大きく持ち上がる。
「ちょっ……!」
足元へ雷を流して姿勢を戻そうとした瞬間、エルナはすぐに加速を止めた。身体を岩壁へ寄せ、片手を突起へ掛ける。
風が抜けるまで待ってから、ゆっくり息を吐いた。
「……分かってたなら先に言いなさいよ!」
「言っただろ。二秒後って」
「その前に説明して!」
「風の音で分かる」
「私はあんたほど峡谷に住んでないの!」
入口側で聞いていたフィナが思わず吹き出しそうになる。
リリカは記録冊子へ書き込みながら、真剣な顔で二人を見ていた。
「カイルさんは風そのものより、風が来る前の変化を見てるんですね」
「たぶんな。音と壁面の砂、それに上昇気流」
レオンは峡谷の岩壁から落ちる細かな砂粒を示した。
「エルナは逆に、風が来ても対応できるように魔力演算を組んでる」
「違うやり方で同じ場所を進んでるんだね」
フィナが感心している間にも、二人は先へ進む。
やがて足場が完全に途切れた。
正面には三メートルほどの空間があり、その先に再び狭い岩棚が続いている。
カイルは一度止まり、下から吹き上がる風の周期を読む。
「次、弱い」
足元へ風をまとわせる。
岩棚を蹴った身体が峡谷側へ飛び出し、横風へ流される直前に空中で姿勢を変えた。次の足場へ片足で着地する。
「意外と普通に飛ぶのね」
向こう側から手を振るカイルを見て、エルナが少し口元を上げた。
「じゃあ私はもっと速く行く」
「着地点、右寄りにしろ」
「分かってるわよ」
エルナの両脚へ雷が集まる。
細い閃光が走った次の瞬間、その姿が岩棚から消えた。
カイルより明らかに速い。一気に空間を越え、反対側の岩棚へ着地する。
しかし、足を置いた直後だった。
「エルナ、上!」
カイルの声で、エルナの顔が上がる。
崖の陰から、翼を持つ小型魔物が三体飛び出した。
鳥に似ているが、翼の先に硬い鉤爪があり、谷側から回り込むようにエルナへ迫ってくる。
「こんなところで!」
エルナは足場が狭いため、大きく横へ避けられない。
右手へ雷を集める。
「——雷針〈アグハ・ヴォルティア〉!」
細い雷撃が一体を正確に撃ち抜いた。
一体が谷へ落ちる。
だが残り二体は左右へ分かれた。
「左は俺!」
カイルが壁を蹴り、風をまとってエルナの前へ飛び出す。
接続した長槍が左側の一体を貫き、そのまま槍身を回して谷側へ弾き飛ばした。
同時に、右から来た最後の一体がカイルの背後へ回る。
「カイル、伏せて!」
エルナの声に、カイルは理由を聞かず身体を沈めた。
その頭上を雷光が通過する。
右側から迫っていた飛行魔物の翼を撃ち抜き、岩壁へ叩きつけた。
数秒で静かになった。
「……助かった」
カイルは槍を肩へ戻しながら、崖へ落ちていく魔物を一度だけ見送る。
「こっちも」
エルナは髪を耳へ掛け直し、少しだけ視線を逸らした。
「今の左、私からだと撃ちにくかったし」
「俺も背中は見えない」
「じゃあ一勝一敗ね」
「何の勝敗だよ」
「助けた回数」
「それ数えるの?」
入口側で聞いていたレオンが額を押さえる。
「普通そこは相殺で終わるだろ」
「相殺じゃないわよ! 次にどっちが先に助けるか残るでしょ!」
「競争の対象がおかしくなってるぞ!」
フィナは笑いながら二人を見る。
「でも、いい感じじゃない?」
「何がですか?」
隣のリリカが顔を上げる。
「お互い違うところ見えてるから」
カイルは風と地形を読む。
エルナは短い瞬間へ魔力計算を重ね、速度と精度で突破する。
同じように先へ進んでいるのに、使っている強さは違っていた。
「よし、先を見て戻るぞ」
カイルは競争を切り上げ、再び前方へ視線を向けた。
エルナも今度は余計なことを言わず、岩壁の先を確認する。
二人は互いに少し距離を取りながら、峡谷の中央付近まで進んでいく。
その先で、カイルの足が止まった。
「……エルナ」
声の調子が変わる。
「見えてる」
エルナも返事を短くし、峡谷の向こうへ目を細めた。
遠くからでも分かるほど、岩壁の一部が強く光っている。
青。紫。白。
巨大な結晶柱が何百本も峡谷の中央から突き出し、互いの光を反射し合っていた。
一本だけでも人間より遥かに大きい。中には数十メートル級のものまであり、峡谷そのものに巨大な宝石の森が生えているように見える。
「隊長!」
カイルが戻る方向へ声を張る。
「先に大きな魔晶石群がある!」
その報告を受け、探索隊も安全を確認しながら岩棚を進み始めた。
フィナがようやく峡谷中央を見渡せる位置まで来ると、無数の魔晶石が放つ光が暗い谷を染め、遥か下の闇にまで細かな輝きを落としている。
地底森林とはまた違う光景を前に、フィナたちは足を止めた。
風と雷が競いながら拓いた先には、峡谷を埋め尽くすほど巨大な魔晶石の群れが、誰にも触れられないまま静かに輝いていた。




