第一章 10 『フィナ師匠!』
警報が鳴り響く中、フィナたちは村外れの低い丘へ駆け上がった。
眼下の草原には、角を持つ獣型、泥をまとった四足型、羽根の生えた小型魔物が混ざり合い、黒い波のように村へ押し寄せている。
その数は百を越え、さらに群れの奥では、丘ほどもある大型魔物がゆっくりと巨体を起こしていた。
「大きい……」
さっきまで標的へ火球を届かせた喜びに震えていたリリカが、杖を胸元へ引き寄せる。
大型魔物が一歩踏み出すたび、遠く離れた丘の土まで細かく揺れた。
「災害級だ。群れを追い立てているのも、あれで間違いない」
レオンは測定札を空中へ広げ、魔力反応と地形を重ねて確認した。
村では同行教員と冒険者が外周へ防壁を張り、自警団が住民を中央広場へ誘導している。
だが、畑にはまだ逃げ遅れた者がおり、荷車を引く人々の列も村道から抜け切っていなかった。
「フィナ、まだ撃つな。村人の避難が終わっていない」
「うん。でも、敵だけなら動かせるよ」
「何をするつもりだ?」
「魔物を、村から遠いところへ運ぶの。傷つけないように、一体ずつ」
「一体ずつと言いながら、百体以上を同時に扱う気か?」
「だって、一体ずつちゃんと見れば大丈夫でしょ?」
「同時という言葉の意味を忘れるな!」
レオンの声に、近くで防衛準備をしていた者たちが振り返った。
フィナは丘の上から村と草原を見渡す。
住民、家、畑、家畜、柵、荷車。そのすべてを避け、前進してくる魔物だけを選ぶ。
「ネム、群れの後ろに人はいない?」
フィナの隣で枕型の魔導具を抱えていたネムは、眠そうな瞳を草原へ向けた。
「人、いない。右の林にもいない。魔物は百二十七。空に九」
「数えたの!?」
「うるさかったから」
「魔力の数を騒音みたいに言うな……いや、お前にはそう感じるのか」
レオンは額を押さえかけた手を止め、地図へ指を走らせた。
「北西に荒野がある。村から三千歩以上離れ、途中に人家もない。運ぶならそこだ。ただし、落下させるな。群れを散らせば別の集落へ向かう可能性がある」
「分かった。みんな一緒に、そっと置くね」
「その言い方だけ聞くと、荷物の移動なんだがな」
フィナは両手を胸の前で合わせ、魔物の群れへ意識を向けた。
強く吹き飛ばせば、魔物が傷つく。地面ごと巻き上げれば畑が荒れる。だから必要なのは、魔物の身体だけを下から持ち上げ、進む方向を変える風だった。
「——強い風!」
草原に風が生まれた。
だが、フィナたちの髪も服も揺れない。畑の麦穂も、村の屋根に掛かった布も、避難中の人々が持つ荷物も動かなかった。
風は魔物だけを選び、一体ずつ身体の下へ潜り込む。
四足型は腹を支えられ、羽根のある魔物は翼の動きを邪魔されないまま浮かび、泥をまとった魔物さえ表面を崩されずに持ち上がった。
「うわあ……」
リリカが口を開けたまま、空を見上げる。
百を越える魔物が、見えない手で持ち上げられたように空中へ並んでいた。暴れても互いにぶつからず、村へ向けた爪や牙だけが空を切っている。
「行ってらっしゃい!」
「遠足へ送り出すように言うな!」
フィナが手を北西へ動かすと、魔物の群れも一斉に荒野へ運ばれていった。
速度は速いが、身体には負担が掛からない。地上の木々や丘を避け、空を飛ぶ魔物も群れから外れないよう風が個別に包み込んでいる。
やがて百二十七の反応は、北西の荒野へまとまって下ろされた。
「傷ついてない?」
「全個体の反応を確認。損傷なし。だが、災害級だけが残っている」
レオンの視線の先で、大型魔物が低く唸った。
巨体の周囲に幾重もの光輪が現れ、地面へ食い込むように最高位の防御障壁を展開する。フィナの風は障壁の外側を回り込み、持ち上げる対象へ届かなかった。
同行教員たちの表情が険しくなる。
「あの障壁は、学院の上級攻撃魔法でも突破できる強度ではありません!」
「村の防壁を維持したままでは、こちらの火力も集中できない!」
「じゃあ、私がやるね」
フィナは気軽に一歩前へ出た。
「待て。あれは周囲の地脈へ障壁を固定している。力任せに壊せば、草原一帯が巻き上がるぞ」
「障壁と魔物だけに当てればいいんでしょ?」
「言葉にすると簡単だが、実行できる魔法では――」
レオンは途中で口を閉じた。
隣でネムが、当然のようにフィナの袖を掴んでいる。
「フィナなら、できる」
「信頼が早い!」
「昨日、魔導兵だけ壁にぺたってした」
「実績の表現が軽い!」
フィナは大型魔物の足元を確認した。
直下には草があり、その周囲には避難路へ続く道がある。熱が広がれば火災になるため、燃やすのは障壁と魔物だけに絞る必要があった。
「じゃあ、周りは熱くしないで……大きい火!」
掌の前に、拳ほどの炎が生まれた。
見た目だけなら試験場の火球と大差ない。だが、炎が飛んだ瞬間、大型魔物を覆う光輪が一斉に震えた。
火球は障壁の正面へ触れ、爆発せずに広がった。
炎は光輪の表面を這い、障壁の形だけをなぞって包み込む。地面へ伸びていた固定経路も同時に燃え上がったが、すぐ横の草は一本も揺れず、周囲の空気にも熱は伝わらない。
最高位の障壁が、音もなく消えた。
次の瞬間、炎は内側の大型魔物だけを覆う。巨体が咆哮を上げるより早く、その魔力反応が一気に弱まり、黒い身体はその場へ崩れ落ちた。
炎が消えた後も、草原には焦げ跡一つ残っていなかった。
「終わったよ」
「……ああ。終わったな」
レオンは測定札を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「最高位障壁の構造だけを焼却。地脈との接続を切断し、対象内部へ熱を限定。周囲への放射熱と衝撃を完全に遮断……」
「レオン、また長い名前を考えてる顔してる」
「今は現象を整理している!」
「大きい火でいいよ?」
「よくない! 毎回規模も機能も違う魔法を全部『大きい火』でまとめるな!」
ネムが大型魔物の方を見たまま、淡々と付け加える。
「火は拳くらい。名前ほど大きくない」
「ほら、ネムもそう言ってるよ」
「味方が増えたと思うな。問題が別方向へ増えただけだ!」
村の防壁が解除され、避難していた人々が恐る恐る外へ顔を出した。
畑も家も無傷で、怪我人もいない。遠ざけられた魔物は荒野にまとまっており、冒険者たちが追跡と監視へ向かう準備を始めていた。
リリカは焦げ跡すらない草原と、倒れた大型魔物を何度も見比べていた。
「すごい……」
震えた声が、少しずつ熱を帯びる。
「こんなに強いのに、村も畑も、魔物の群れまで傷つけなくて……。必要なものだけを選んで、全部守ったんですね!」
「うん。村のみんなが困らないようにしたかったから」
「お師匠様!」
「お、お師匠様!?」
リリカはその場で姿勢を正し、フィナの前へ勢いよく頭を下げた。
「——私を弟子にしてください!」
「えぇ!? どうして急に!?」
「私も、強いだけではなく、誰も傷つけない魔法を使えるようになりたいんです! ぎゅっとして最後まで押す教えも、絶対に忘れません!」
「待って待って! 私、魔法の理論を全然説明できないよ?」
「だからこそ、フィナ師匠の感覚を学びたいんです!」
「もう師匠って呼んでる!」
リリカは鞄の中から一枚の紙を取り出し、両手で差し出した。
紙の上部には大きく《弟子入り届》と書かれ、その下にはリリカの名前、得意属性、目標、毎日の練習時間まで丁寧に記されている。
「弟子入り届を事前に用意していたのか」
レオンが紙を覗き込み、呆れた声を落とした。
「はい! フィナ師匠を見た瞬間に書きました!」
「出会ってから、まだ半日も経っていないぞ」
「休憩中に急いで完成させました!」
「行動、早い」
ネムが素直に評価すると、リリカは嬉しそうに胸を張った。
「ありがとうございます!」
「褒めたかどうかは微妙だぞ」
「私、弟子を取れるほど何も知らないんだけど……」
フィナは困ってレオンへ助けを求めた。
「俺を見るな。断るなら自分で断れ」
「そんなにはっきり言ったら、リリカが悲しむよ」
「既に断れない顔をしているな」
「だって、こんなに真剣だし……」
フィナが迷っている間も、リリカは弟子入り届を差し出したまま動かなかった。
瞳には不安よりも期待が強く、先ほど初めて火球が届いたときの喜びが残っている。
「じゃあ……正式に弟子にするかは、保留でいい?」
「はい!」
「その間、一緒に練習したり、分かることを教えたりするくらいなら」
「ありがとうございます、フィナ師匠!」
「保留って言ったよ!?」
「保留中の一番弟子として、全力で学びます!」
「一番も何も、ほかに弟子はいないからね!?」
レオンは深く息を吐き、ネムは眠そうな顔のままフィナの反対側の袖を掴んだ。
村の安全確認と後処理を終え、三人が学院へ戻る馬車へ向かうと、リリカも鞄と杖を抱えて当然のようについてきた。
誰も正式な同行許可を出した覚えはなかったが、保留中の一番弟子は既にフィナの隣を自分の居場所と決め、学院までの道を一緒に歩き始めていた。




