第4話 二十八年
タワー暦1199年 11/14 | 第一タワー→ミナト
卒業の日、持ち出す物は箱一つに収まった。
衣服と端末。研究の個人控え。工作の授業で作った、歪んだ小さな球。処分するつもりだったが、掌に載せると軽すぎて、捨てる理由が見つからなかった。
机の上に置いたままにできる物はなかった。次にここを使う誰かのため、部屋は空にする決まりだった。
先生は扉の前に立っていた。
「持ち出し情報の確認は完了しました」
「先生の記録は持っていけないんですか」
「あなたが閲覧できる学習記録は、端末に保存されています。私の機能そのものは移せません」
「相談したくなったら?」
「卒業後の相談窓口をご利用ください」
番号が端末へ届いた。
タツオは礼を言おうとして、声が出なかった。先生の姿は見えるのに、もう別の担当へ受け渡された感じがした。
「僕は、ちゃんとできましたか」
「あなたは、所定の課程を修了しました」
「そうじゃなくて」
続きが言えなかった。
先生は少し首を傾けた。幼い頃に転んだときも、その角度で見ていた。痛む箇所を尋ねるための姿勢だった。
「タツオ。移動の前に、食事を取ってください」
彼は笑った。泣くほどのことではないと思ったからだが、うまく笑えたかはわからなかった。
中央駅から構内列車に乗り、外縁の出口へ向かった。一つの階層は広く、出口までにも日常の生活圏が何度も窓を流れた。自分の知っていたタワーは、タワー全体のごく一部だった。
途中の駅で、ミオが降りた。職員区へ向かう連絡路はそこで分かれる。
「その箱、持とうか」
「ここまでで大丈夫」
タツオは持ち直した。ミオの荷物は自分より多い。袋の口から、長年使った布のひざ掛けが見えた。持っていけるなら、持っていけばよかったと、初めて自分の寝台を思い出した。
別れの言葉を考えていると、扉が閉まる予告音が鳴った。
「あとでね」
ミオが言い、降りた。
五十年近く、同じ時間に食事をしていた相手との別れにしては、短すぎた。タツオは窓越しに手を上げた。彼女も手を上げ、そのまま職員用の受付へ向かった。
列車が動く。隣の席が空く。
今までの階層移動なら、少し離れても、次の食堂で会えた。今度は、自分から連絡しなければ会わないかもしれない。その違いが、扉の閉まったあとでわかった。
彼は端末に、無事に着いたら連絡する、と入力した。すぐに、待ってる、と返ってきた。
下りていく時間は長かった。上へ進むことだけが成長だと思ってきた身体に、下へ向かう移動は奇妙だった。表示される階の数字を見ないように、箱の蓋を押さえた。
地上の乗換場で、支援窓口から指定された輸送業者を探した。
小さな電動車の横に、作業着の男がいた。
「タツオ」
呼び方が妙に近かった。
男は端末の名前を確認していない。左の眉が少し上がり、口の端だけで笑った。その笑い方を知っていた。
「レン?」
「箱、それだけか」
男が手を伸ばした。タツオは反射的に箱を抱え直した。
「どうしてここにいるんだ」
「荷物を運びに来たんだよ」
「まだ、二十年生じゃなかったのか」
レンの手が止まった。
近くを無人搬送車が通り過ぎた。低い警告音が二度鳴る。
「俺は二十八年前から、こっちにいる」
タツオは年を数えた。二十二歳。自分が次の階層へ進む、三年前。
「先生は、知らないって」
「そうか」
「ずっと下の階にいると思っていた」
「そうか」
二度目の返事は、一度目より小さかった。
レンは箱を荷台に固定した。手際がよかった。留め具を締めたあと、底に布を挟み、もう一度軽く揺すった。
「中、壊れるものあるか」
「球が一つ」
「何の球」
「自分で作った」
「じゃあ、壊せないな」
レンはもう一枚、布を足した。
車が外へ出た。空気の匂いが、換気口から少しだけ入った。湿った、何かが生きているような匂いだった。
振り返ると、タワーは大きすぎて上端が見えなかった。
レンは前を見ていた。曲がり角で速度を落とし、道端の人に指を二本上げた。相手も同じように返した。
タツオの知らない挨拶だった。




