第10話 移るだけのこと
タワー暦1199年 11/21 | ハルカ→ミナト
帰りの便まで時間があり、サナが診療所の裏の通路を案内してくれた。
窓の向こうには、海水処理施設の配管が見えた。自動運転になってからも、保守や観測の仕事は残る。家族と住み続ける人もいる。
「人口は減ってる。でも、ゼロではないでしょう」
サナは、廊下で挨拶した人の名前を一人ずつ呼んだ。
移転先は紹介されているという。タツオは、それならなぜ移らないのかと思った。
言葉にする前に、サナが一室の扉を開けた。
リツという女性が、窓のそばで呼吸の訓練をしていた。装置に合わせ、ゆっくり息を吐く。移転先の医療施設と調整中だが、受け入れの時期が決まっていない。
「移る意思はあるんです」
本人が言った。
「意思の確認だけは、何度も来ます」
タツオは、説明会へ出れば手続きが進むと思っていた。
次に会ったトマは、逆に、まだ移りたくないと言った。六十八歳の修理職で、共同食堂の設備も直している。
「紹介された部屋に、仕事場が入らないんだよ」
「道具を減らすことは?」
タツオが尋ねると、トマは笑った。
「君は、どの道具を捨てる?」
何を直すための物かも知らずに、選べるはずがなかった。
通路の継ぎ目から、短い警報が鳴った。サナは壁の表示を確かめ、端末へ何か記録した。
「大丈夫ですか」
「差圧の監視。今は大丈夫」
今は、という限定が耳に残った。
共同区画の空気は、安全基準内だった。ただし外気の状態が悪化すれば、同じ室内環境を保つために濾過器を多く使う。古い設備では、余裕が小さい。
「新しくすれば」
「そうね。新しくするか、移るか。両方を途中まで進めて、今ここにいるの」
サナの端末が鳴った。彼女は患者の呼び出しに応じ、タツオは一人で着陸場へ戻った。
レンが機体の周りを歩いていた。濾過器の状態を確認し、記録をつけている。
「思ったより、人がいた」
「記録には人数が書いてあっただろ」
「そうだけど」
数と、食事をした人々が、うまく同じものにならなかった。
レンは出発前に、いつもと違う荷物を一つ載せた。小さな箱に、食堂の持ち帰り用の食事が入っている。代金の代わりではなく、注文して買ったものだという。
「お礼にもらったのかと思った」
「仕事の金と、飯の金は別だ」
レンは箱を固定した。
「無料でやってたら、次に来られなくなる。サナも、そのへんはうるさい」
タツオは、外では人々がもっと冷たく計算して暮らしているのだと思っていた。しかし金を払うことが関係を続けるためになる場合もある。事業所の報酬を断ったとき、レンが譲らなかったことを思い出した。
「君はここへ来るのが好き?」
「好きな日もある。急な荷物を押し込まれた日は、文句も言う」
「でも、来る」
「仕事だからな」
それは、嫌でも従うという意味には聞こえなかった。好きだけでは続かないが、好きなものが含まれている仕事。タツオには、まだ少しわかりにくかった。
客室へ乗り込む前、サナが追いかけてきた。空気設備の更新が遅れている件で、配送できる部品を再確認してほしいという。
レンはすぐできるとは答えず、型式を送ってくれと言った。適合しない部品を運んでも役に立たない。
タツオはその型式を控えた。目に見えない空気を保つのに、こんなにも具体的な番号が必要だった。
帰路は少し揺れた。レンは速度を落とし、認可された範囲で高度を変えた。
タツオは地上の道を見た。海岸を北へ進む一本の線。機械が走り、人が暮らす建物へ枝分かれしている。
端末の地図にハルカの名前を保存した。
以前なら研究資料の地名は、位置を指定する符号だった。今日は、呼吸を数える人と、箱で駅を作る子どもが、その文字の中にいた。
着陸前、観測情報が更新された。
沿岸北部、警戒度上昇。
レンは画面を見て、帰りの便の予定を開き直した。




