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重力はラグでした。物理準備室で宇宙を処理落ちさせたら、国立研究所と黒服が来た件  作者: みんとす
第一章 重力はラグでした。物理準備室で宇宙を処理落ちさせたら、国立研究所と黒服が来た件
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第9話 放課後号、起動

 それから三年が経った。


 高梨琴音は、高校生ではなくなっていた。


 大学には籍を置いている。

 だが、ほとんど研究所と宇宙港にいた。


 肩書きは、国立時空情報研究所・特任研究員。

 オービタル・キッチン改め、株式会社ラグランジュ・キッチンの技術顧問。

 未定義現象監査室の要注意協力者。

 そして、一部メディアではいまだに「重力女子高生」と呼ばれている。


「もう女子高生じゃないんですけど」


 と抗議しても、ネット記事は直らなかった。


 ラグ・ドライブは、完全に安全とは言えなかった。

 だが、使える段階には来ていた。


 無人機での月軌道投入。

 小惑星探査機の軌道変更。

 地球・月系ラグランジュ点への往復。

 それらは成功した。


 失敗もあった。


 ある無人機は、帰還後に機体番号がひとつ若返っていた。

 ある実験では、打ち上げ前の記者会見映像に、打ち上げ後の管制官が映り込んだ。

 ある航路では、同じ通信が三回届いた。無人のはずの機体から、存在しない乗組員からのメッセージ。


 それでも、人類は止まらなかった。


 止まれるはずがなかった。


 ラグ・ドライブ商業一号機の打ち上げ日。


 宇宙港には、世界中のメディアが集まっていた。

 機体は白く、細長く、従来のロケットのような巨大な燃料タンクを持たない。代わりに船体前方に、黒い環状構造がある。情報幾何場を形成するためのラグ・リングだ。


 船の名前は、


 放課後号


 命名会議では反対が多かった。


 軽すぎる。

 歴史的事業にふさわしくない。

 投資家向け資料に載せづらい。

 海外展開時に意味が伝わりにくい。


 琴音は全部聞いたうえで、言った。


「じゃあ、宇宙を一回処理落ちさせた場所の名前にします?」


 会議は沈黙し、《放課後号》に決まった。


 船内には、古いメトロノームが固定されていた。


 あの日、物理準備室で最初に嘘をついたメトロノーム。

 いや、違う。

 あれは嘘ではなかった。


 宇宙の遅れを、誰よりも先に教えてくれた。


 有馬は、管制室で最終チェックを見ていた。


「本当に乗るんですか」


 琴音は宇宙服の首元を調整しながら答えた。


「最初に止めた人間が、最初に飛ぶべきでしょう」


「科学者の発言ではありません」


「では、元高校生の発言ということで」


 御厨は満面の笑みで親指を立てた。


「商業史に残りますよ」


「請求書も残るかもしれません」


 御厨の笑顔が一瞬だけ固まった。


 黒服の男は、相変わらず黒いスーツで立っていた。宇宙港なのに、暑そうな顔ひとつしない。


「高梨さん」


「はい」


「上位応答の頻度が、今朝から上がっています」


「やっぱり見てますか」


「はい。特に、決済関連と思われる語彙が増えています」


「決済関連」


「LICENSE、ACCOUNT、BILLING、AGREEMENT」


 琴音は空を見上げた。


「宇宙にも利用規約か」


「同意ボタンを押す前に、必ず読むことをおすすめします」


「人類史で一番守られない助言ですね」


 搭乗時刻が来た。


 琴音は、《放課後号》に乗り込んだ。


 船内は静かだった。

 従来型ロケットのような轟音はない。

 巨大な燃焼もない。

 ラグ・ドライブは、空間を蹴らない。宇宙に「そちらを先に計算して」と頼む。


 座席の前に、メトロノームが固定されている。


 琴音は、そのぜんまいを巻いた。


 カチ。

 カチ。

 カチ。


 管制室から声が響く。


「放課後号、起動シーケンス開始」


「ラグ・リング冷却、正常」


「局所情報密度、上昇」


「前方更新率勾配、形成」


「船体内固有時間、安定」


 窓の外に、青い地球が見えた。


 あまりにも大きく、あまりにも美しい。

 その表面では、数十億人が今日も、重力を当たり前だと思っている。


 重力は、宇宙のため息だ。


 琴音は、かつて自分が書いたメモを思い出した。


 質量が空間を曲げるのではない。

 宇宙が計算を間に合わせるために、時間を薄めている。


 ならば、ラグ・ドライブとは何か。


 宇宙に、ほんの少しだけ頼みごとをする技術だ。


「高梨さん、準備は?」


 有馬の声。


「準備完了」


「最後に確認します。異常があれば、即時停止します」


「はい」


「無理はしないこと」


「それ、高校の先生にも言われました」


「守ったことは?」


「ありません」


「でしょうね」


 御厨の声が割り込む。


「人類初の商業ラグ航行です。コメントをどうぞ」


 琴音は少し考えた。


「ええと」


 カメラの向こうに、世界がいる。


 研究者。政治家。投資家。軍人。宗教家。陰謀論者。子どもたち。

 そして、もしかしたら瀬尾先輩も。


 胸ポケットには、あの白い封筒が入っている。

 いつかの後輩へ、と書かれた便箋を、今日も持ってきた。

 お守りのつもりだった。


「重力は、上から押さえつける力じゃありません」


 琴音は言った。


「宇宙が、複雑なものをどうにか整合させようとして生まれる遅れです。私たちは今日、その遅れを利用して飛びます。でもこれは、宇宙を支配する技術ではありません。宇宙に迷惑をかけながら、お願いする技術です」


 管制室が静かになる。


「だから、最初の一歩は、えらそうにじゃなくて、謝りながら行きたいと思います」


 琴音は、窓の外を見た。


「すみません、宇宙。ちょっと通ります」


 有馬が小さく笑った。


「ラグ・ドライブ、起動」


 メトロノームが鳴る。


 カチ。


 次の一拍が来る前に、世界が変わった。


 衝撃はなかった。

 加速度もなかった。

 胃が浮く感覚すらなかった。


 ただ、宇宙が一瞬だけ、行き先を先に思い出したような感覚があった。


 窓の外の地球が、遠ざかっていた。


「航行成功!」


「月軌道外縁、到達!」


「船体正常!」


「更新率勾配、安定!」


 管制室から歓声が上がった。


 琴音は息を吐いた。


「……飛べた」


 その瞬間だった。


 誰も触れていないはずの船内モニターが、勝手に点灯した。


 白い文字が、ゆっくりと浮かび上がった。

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