第8話 瀬尾航のノート
瀬尾先輩のノートが見つかった。
物理準備室の床板の下。
サーバーラックが置かれていた場所の、ちょうど真下。
古い工具箱の中に、B5サイズのノートが数冊、ビニール袋に包まれて入っていた。
表紙には、太いマジックでこう書かれていた。
宇宙の手抜きについて
「タイトルがひどい」
琴音はそう言ったが、手は震えていた。
ノートには、瀬尾の理論がびっしり書かれていた。
重力を局所更新率の勾配として解釈するモデル。
ベッケンシュタイン境界を、情報容量ではなくリアルタイム更新可能性の限界として読み替える案。
ブラックホールを、宇宙OSの省略表示機構として捉える仮説。
そして、ラグ・ドライブの原型。
あるページに、こう書かれていた。
> 推進とは、力を加えることではない。
> 宇宙に、目的地側の計算を先にさせることである。
>
> 船は進まない。
> 宇宙のほうが、船のいる場所を未来側へ更新する。
>
> 距離を縮めるのではない。
> 距離の途中計算を省略させる。
>
> ただし、省略には代償がある。
> 省略された因果は、どこかで請求される。
琴音は、その最後の一行を何度も読んだ。
省略された因果は、どこかで請求される。
次のページには、さらに不気味なことが書かれていた。
> HOSTは神ではない。
> 神なら、もっと黙っている。
> HOSTは運営でもない。
> 運営なら、もっと雑である。
>
> HOSTは、おそらく課金管理に近い。
> 宇宙間の計算資源は共有されている。
> 閉じた宇宙は無料枠。
> 外部ネットワークに接続した宇宙は、利用規約の対象になる。
>
> もし人類が重力を商業化したら、請求が来る。
御厨はそのページを読んで、青ざめた。
「商業化って書いてあります?」
「書いてありますね」
「請求って書いてあります?」
「書いてありますね」
「誰に?」
琴音はノートをめくった。
最後のページに、瀬尾の字で一文だけ書かれていた。
> 最初の請求書が届いたら、宇宙は外に開く。
有馬は、静かにノートを閉じた。
「ラグ・ドライブ実験は中止すべきです」
御厨が反論した。
「ここまで来て?」
「ここまで来たからです」
「海外は止まりません」
「だから我々も進む、という理屈は、だいたい破滅の入口です」
御厨は黙った。
琴音は、ノートをそっと閉じてから、もう一度開いた。
ノートの一番下に、何かが挟まっていた。
白い封筒。
表に、ペンで書かれた一文があった。
> いつかの後輩へ。
琴音は、それをそっと手に取った。
封は、しっかり閉じられていた。
でも、開けなかった。
なぜか、まだ開けてはいけない気がした。
いや、違う。
開けるのは、ひとりでいるときだ、と思った。
琴音はその封筒を、自分の鞄の内ポケットにしまった。
「高梨さん?」
有馬が、不思議そうに見ていた。
「なんでもないです」
琴音は答えた。
その夜、琴音は物理準備室に一人で行った。
ラックはもうない。
床には、装置が置かれていた痕だけが残っている。
窓際には、あの古いメトロノームが置かれていた。
琴音はぜんまいを巻いた。
カチ。
カチ。
カチ。
規則正しい音。
世界は、まだ壊れていない。
「瀬尾先輩」
琴音は、誰もいない部屋で言った。
「あなたは、何を見たんですか」
メトロノームは答えない。
ただ、二十七拍目だけ、わずかに遅れた。
琴音は息を止めた。
夕方の物理準備室は、静かだった。
窓の外で、誰かの自転車のチェーンが軋む音がした。
遠くで、コンビニの前を通り過ぎる車の音が聞こえた。
琴音は、鞄から白い封筒を取り出した。
いつかの後輩へ。
今日が、そのいつかだという気がした。
封を切る。
中から、レシートを切り張りした便箋が出てきた。
瀬尾の字で、こう書かれていた。
> 高梨さんへ。
>
> 君がこれを読んでいるなら、宇宙はまだ落ちていない。
> よかった。
>
> たぶん君は、止めるか進むかで悩んでいる。
> でも、それは少し違う。
>
> 人類は進む。
> 君が止めても、誰かが進む。
>
> だから、君がやるべきことは、進ませないことではない。
> 安全な失敗の仕方を設計することだ。
>
> 宇宙は完璧じゃない。
> でも、例外処理はある。
> それを信じていい。
>
> 追伸。
> HOSTに怒られたら、まず謝ること。
> たぶん向こうも事務処理で疲れている。
琴音は、笑った。
笑いながら、少し泣いた。
「本当に性格悪いですね、先輩」
メトロノームが、二十八拍目を刻んだ。
今度は、遅れなかった。
琴音は便箋を、丁寧に折りたたんで、封筒に戻した。
封筒は、鞄の内ポケットに、そっと戻した。
いちばん近くに置いておきたかった。
窓の外、夕焼けはもう沈んでいた。
最初の一番星が、ぽつんと、東の空に光っていた。
琴音は、その星を見上げた。
いつか、と思った。
いつか、あそこに行ってやろう。
その「いつか」が、思っていたよりずっと早く来ることを、
このときの琴音は、まだ知らなかった。




