第7話 時空環境負荷
ラグ・ドライブは、世界を変える技術だった。
だからこそ、世界は醜く反応した。
海外の研究機関が、同様の実験に成功したと発表した。
その三日後、発表は取り消された。
研究棟の一角で、二十七秒間だけ監視カメラの映像が「まだ起きていない火災」を記録していたためだった。
ある軍事大国は、情報重力場を兵器転用する計画を否定した。
否定が早すぎたので、誰も信じなかった。
宗教団体は、宇宙OSのHOSTを神と呼んだ。
無神論者団体は、神ではなく管理者だと反論した。
情報工学者は、管理者でもなくレイヤー上位のプロセスではないかと口を挟んだ。
哲学者は、全員の言葉遣いに怒った。
ニュース番組では、コメンテーターが得意げに言った。
「つまり、世界はコンピュータだったということですね?」
有馬はテレビを消した。
「違う。そういう雑な話ではない」
「でも伝わりやすいですよ」
御厨が言うと、有馬は睨んだ。
「伝わりやすさで宇宙を壊さないでください」
問題は、技術だけではなかった。
ラグ・ドライブの小規模実験後、実験室周辺で奇妙な現象が報告されるようになった。
記録されたはずの温度データが、一部だけ欠落する。
同じ時計を二つ並べると、片方だけ昨日の時刻を一秒だけ示す。
研究員が置いたマグカップが、二時間後に「置く前の状態」に戻っている。
ただし中のコーヒーだけは減っている。
琴音はそれを見て言った。
「宇宙のキャッシュ不整合」
有馬は頭を抱えた。
「高梨さん、あなたの命名はいつも嫌に的確です」
ラグ・ドライブは、宇宙の計算資源を局所的に偏らせる。
つまり、どこかを細かく更新させる代わりに、どこかが粗くなる。
航路上に、未更新領域が残る可能性がある。
そこでは、観測履歴の整合性が乱れる。
人間にとっては、幽霊、予知、記憶違い、デジャヴ、物の消失として見える。
御厨の会社の広報は、それを「時空環境負荷」と呼んだ。
琴音は苦笑した。
「二酸化炭素の次は、因果ですか」
有馬は真顔で頷いた。
「笑いごとではありません。人類はまた、便利さのために環境を消費しようとしている。今度の環境は、時間と因果です」
琴音は黙った。
自分が見つけた。
瀬尾が残した。
有馬が理論化した。
御厨が商業化しようとしている。
黒服が監視している。
でも最初に、止めずに先へ進むと決めたのは琴音だ。
夜、研究所の屋上で、彼女は黒服の男に聞いた。
「これ、本当にやっていいんですか」
「私に倫理判断を求めるのは間違っています」
「じゃあ何をする人なんですか」
「記録する人間です」
「止めないんですか」
「止める部署は別にあります」
「縦割りすぎる」
黒服は、夜空を見上げた。
「高梨さん。人類は火を使いました。蒸気を使いました。原子力を使いました。情報を使いました。どれも危険でした。どれも世界を壊しかけました。そして、どれも戻れませんでした」
「ラグ・ドライブも?」
「はい。もう戻れません」
「なぜ?」
「あなたが、宇宙に通知を送ったからです」
琴音は、何も言えなかった。
黒服は続けた。
「上位側がこちらを見た。なら、こちらも上を見るしかない」
階下に降りて廊下を歩いていると、実験棟の入口の前に、見慣れた派手なスーツの背中があった。
御厨だった。
時刻は、午前一時を回っていた。
御厨はガラス戸の前に立ち、その向こうの暗い実験室を、ただ見つめていた。
ラグ・ドライブの試験機が、薄い緑色のスタンバイランプを点していた。
「……夜中に何やってるんですか」
琴音が声をかけると、御厨は振り返った。
昼間のような営業スマイルはなかった。
「眠れなくて」
「珍しいですね、社長が」
「私だって、怖くないわけじゃないですよ、高梨さん」
琴音は、黙った。
御厨は、ガラスに映る自分の姿を見ながら、続けた。
「投資家には言えない話を、今だけしますね」
「はい」
「私の祖父は、パイロットでした。ジェット機の黎明期に、たくさんの仲間が落ちた時代の人です。整備不良、設計ミス、無理な運用。それでも飛び続けて、最後は普通に老衰で死にました」
「そうですか」
「祖父はよく言っていました。『新しい乗り物は、人を殺すんだ。最初の何十人かは絶対殺す。それでも乗る人間がいるから、後の何百万人が乗れるようになる』」
「重い話ですね」
「私は、その最初の何十人を出したくないんです。本当に」
御厨は、初めて琴音の目を見た。
「でも、誰かが商売にしないと、結局もっと雑な誰かが商売にする。私は、雑じゃない誰かでありたいと思っています。儲けたいのは本当ですよ。それは嘘じゃない。でも、儲け方を選びたい」
琴音は、何も言えなかった。
御厨は、いつもの笑顔に戻った。
「と、まあ、たまには真面目な話もするんですよ、私も」
「珍しいものを見ました」
「明日は忘れてください」
「忘れません」
御厨は、少しだけ嫌そうな顔をした。
「やっぱり高梨さん、性格悪いですね」
「先輩譲りです」
琴音はそう答えて、研究所の廊下を歩き出した。
歩きながら、思っていた。
ここには、まともに見える人が、ひとりもいない。
黒服も、有馬も、御厨も、自分も。
それでも誰一人、本気で悪い人ではない。
たぶん、瀬尾先輩も。
ならば、誰が悪いのか。
悪いのは、たぶん、宇宙のほうだ。
こんなに面白いものを、見せてしまった宇宙が悪い。
琴音は、ほんの少しだけ笑った。
その笑いが消えるより先に、スマホが震えた。
画面に、見慣れない名前。
佐伯。
物理部顧問。
高校の。
もう何年も連絡を取っていない、あの先生。
メールの本文は、一行だった。
> 物理準備室の床板を、剥がせ。
追伸が、さらに一行。
> 瀬尾が、君に渡したいものがあるそうだ。
琴音は、廊下の真ん中で立ち尽くした。
瀬尾が、誰かに伝言を残せた。
ということは、瀬尾は──。
そこから先を、彼女はうまく言葉にできなかった。
ただ、スマホを握る指が、少しだけ震えていた。




