第35話 家の灯り
太陽系索引化まで:58:12
クァルゼイが作戦対象の欄に「太陽」と書いた翌朝、避難の手順書が全系統に流れた。
『保存処理の概要です。受け入れ先は、火星内縁の中核船六隻。方法はコールドスリープ、または情報格納。所持品は三キログラムまで。生体読み取りに約四十分。現在の待ち時間は、四時間です』
太陽が消えれば、住む場所はない。眠らせるか、データにして、住める星の当てがつくまで預かる。クァルゼイの案を通した先の、混成軍の仕事だった。
放課後号は中継についた。避難船団のあいだを縫って、人を保存処理船へ運ぶ。運ぶ足は、放課後号だけではなかった。
『救助艇マリモ、八名。満席です。いただきます』
若い声だった。マリモの操縦士は、一便ごとに「満席です。いただきます」と言った。定食屋か、と最初は笑われて、それきり全員がその声を目印にした。
最初の便に、三歳くらいの男の子がいた。靴を脱がされて泣いた。スリープ槽は、靴のまま入れない。母親がしゃがんで、片方ずつ紐を解いた。ビニール袋に入れて、胸に抱いた。
「起きたら、返すからね」
槽の蓋が閉まるまで、男の子は母親の襟を掴んでいた。ガラスに、小さな掌の跡が残った。係の女性が布で拭いた。拭いてから手が止まって、布を膝に落とした。
その母子を中核船へ運んだのが、マリモだった。
『マリモ、二人お届け。……次、行きます』
次の便に、格納を選んだ人がいた。人ひとりの記憶と体の造りを、データに書き出す。体は残らない。読み取り、圧縮、書き出し。手順は、敵の索引化の画面と、並べても見分けがつかなかった。
通路に列ができていた。先頭の女性が、紙の手帳を胸に押しつけていた。開いて、最後のページに何か書いて、閉じて、受付台に置いた。紙は保存されない。それを知っていて、書いていた。
窓から太陽が見えた。火星の内縁まで下がってきたぶん、木星圏にいたときより近い。光の温かい距離だった。通路の角で、誰かが端末を太陽に向けていた。白く飛んで、まともには写らない。それでも写していた。
「先輩」
高梨さんが、操縦席から振り向かずに言った。
「次は第四中核船です。スリープ槽の空きが、十二。——先輩の分も、取りますか」
「いい」
「じゃあ、格納で——」
「どっちもいい」
高梨さんの手が、操縦桿の上で止まった。
「太陽を残す方法を、探す」
言葉にすると、無茶の形がはっきりした。三万六千の記録を全部めくって、太陽しかないと言った人がいる。端末の隅で、数字は減り続けている。
「根拠は」
「ない」
「根拠は、あとで作る。ですね」
高梨さんは振り向かないまま、第四中核船への進路を表示に乗せた。
◇
「太陽を残す道を、探す」と、僕は全系統へ流した。
クァルゼイの回線に乗って、それは遅れなく太陽系じゅうへ届いた。返事は、遅れて来た。地球の大学から四十分。火星の研究所から二十六分。それでも、来た。
最初に芯を投げたのは、海王星の外だった。片道四時間を、クァルゼイの橋が飛ばしていた。船籍のない船。名簿のない人たち。御厨さんの裏帳簿だけが、宛先を知っていた。回線が古くて、声が割れていた。
『太陽を燃やすな。あれは、家の灯りだろ』
「代案を、述べろ」
クァルゼイだった。
『木星と土星と海王星を潰せ。で、黒い鉤を囲め。壁一枚じゃ足りねえ。曲がり角を作れ。読みに来たやつを、曲げ続けろ』
『知らねえよ。追手は曲がり角で撒く。住所も荷札も嘘だ。うちらを最後まで読めたやつは、まだいねえ』
地球の誰かが、それを三体問題と呼んだ。そして、太陽系じゅうの計算機が、いっせいに同じ問題を回しはじめた。地球では講堂を潰して演算機を並べ、火星の研究所は寝ずに軌道を刻んだ。月の裏の観測所が、望遠鏡を計算機に繋ぎ替えた。低軌道を回る通信衛星の群れまで、空いた演算を差し出した。人類の機械が、総がかりで、重い穴を三つ、近くで回しはじめた。
僕は僕で、役所を叩いた。
「宇宙OSのサポート窓口。三つの惑星の名義を、作戦のあいだ凍結できないか」
『申請区分が、存在しません』
「じゃあ、作れ」
『作成権限が、存在しません』
「人類が滅ぶ」
『滅亡は、登録後に処理されます。……よい一日を』
窓が閉じた。笑うしかない顔で、僕は笑った。役所は、宇宙になっても役所だった。
まともな道が閉じると、汚い道で来るのが、この船団だった。
『こちら冷凍貨物船。海王星の影、測れる。積み荷は魚だが、望遠鏡は生きてる』
『土星の環の粉、こっちで拾う。古い採掘船だ、ゴミには強い』
『三体の軌道表、軽い版をくれ』
『軽い版なんかない』
『じゃあ、汚い版でいい。人類、だいたい汚い版で生きてきた』
◇
計算は、すぐに壁に当たった。
その壁を、言葉にしたのはクァルゼイだった。手すりの前から、動かずに言った。
「三つの星を、回すだけでは、止まりません」
「軌道は、解が閉じないだけです。敵は時間をかければ、一歩ずつ書き出す。書けたものは、読める。ただの三体は、あの読み手を遅らせるだけです」
その通りだった。地球の計算機が束になって追っても、軌道は、いつか書き終わる。書き終われば、読まれる。回線が、静かになった。
僕は、端末の隅を見た。木星の底で、止めた腕が、まだ一つの問いを噛んでいる。黒い鉤の腕の一本——三日前、僕が終わらない数学の問いを差し込んで、動きを止めた腕だ。答えは、まだ出ない。反例ではない、次へ。宇宙を一日で読む相手が、あの一問だけ、読み終えられずにいる。
窓口回線が、ざらついた。
『航。その止めた腕、まだどこの帳面にも載ってねえぞ。三日、誰も読めてねえ』
大槻さんだった。相変わらず、答えは寄越さない。場所だけ、指して寄越す。
軌道じゃない、と思った。止めた腕と、同じだ。
「軌道じゃ、ないんだ。縁だ」
声に、出ていた。
「僕の止めた腕は、読み終わらない問いです。軌道は、書き終わる。でも、読み終わらない問いは、書き終わらない。——潰した星は、中身を、縁にしか残しません。ブラックホールの、あの表面に。中を読むには、縁を読むしかない。その縁を、三つ、絡ませて、止めずに回したら」
クァルゼイが、初めて、少し黙った。
回線の向こうで、地球の誰かが、息を呑む音がした。
『……ホログラフィック境界の、三体だ』
『穴の中身は、地平面に貼りつく。三つの縁を絡めれば、片方を読むたび、残りが書き換わる。しかも三体だ。同じ形には、二度と戻らない。読み手が写し取れる一枚は——どの瞬間にも、存在しない』
『それ、論文になりません』
『論文じゃない。罠だ』
太陽系じゅうの計算機が、問題を組み替えた。軌道を追うのをやめて、三つの地平面に絡んだ情報を回しはじめた。表示のなかで、ばらばらに散っていた無数の解の線が、少しずつ束ねられて、三つの輪へ寄っていく。
僕は、その線が閉じるのを、息を止めて見ていた。
『試算、出ました』
Botちゃんだった。
『ホログラフィック三体配置。外部からの読み出し——不可。索引化——不可。太陽は、残ります』
回線が、鳴った。三日、減るしか知らなかった相手に、初めて、読めないものを差し出せた。太陽を、殺さずに。
◇
その騒ぎの裏で、救助は続いていた。避難船団はまだ火星へ下る途中で、こぼれる船が出る。拾うのは、放課後号やマリモのような小さな足だ。
指揮が、二本あった。
『統合本部。昨日版で継続。変更なし』
『火星管制。今朝版へ切替。旧手順、停止』
片方は電波で四十分古く、片方は火星の即時だった。マリモは、放課後号の即時橋には乗っていない。芯の何隻かだけが、クァルゼイの回線に生で乗る。小さな救助艇は、人の口から口へ、電波で命令を聞く。マリモが聞いたのは、古いほうだった。
『救助艇マリモ。担架二名、横付けします。手順は昨日と同じ——』
「マリモ、その手順、昨日で読まれた。逆から入って」
僕は即時橋へ叫んだ。橋は太陽系じゅうに届く。マリモにだけ、届かない。マリモへは、中継の卓を跨いで、人が送り直す。
『マリモの登録行に、読み出しが立ちました。三手目』
「誰か、マリモに直接。電波でいい。今すぐ」
僕の声が人の声に変えられて、送り出される。その一往復のあいだに、Botちゃんが読んだ。
『四手目。船体に、届きます』
『——満席です。いただきま』
声が、そこで切れた。
『信号消失、救助艇マリモ。乗員一、収容八、担架二名ごと。同時です』
悲鳴はなかった。爆発もなかった。名簿から、マリモの行が消えた。八人と、二人と、若い操縦士が、音もなく畳まれた。
僕の指は、まだ即時橋の上にあった。太陽系じゅうに届く回線だった。マリモにだけ、届かない回線だった。
高梨さんが、操縦桿を握ったまま、動かなかった。
「あの人です。……朝、靴の子を、運んでた」
減っていく数字だけが、画面で光っていた。
やがて、海王星の外の声が、割れたまま言った。
『見ただろ。二度目は、向こうの手だ。うちらは、同じ道を通らねえ』
◇
会議は、太陽系のあちこちから開いた。
放課後号の通信席に、僕。操縦席に高梨さん。通路の手すりの前に、クァルゼイ。客席の端で、ミラー中佐が膝に端末を開いている。厨房では、御厨さんが、大鍋を火にかけたまま聞いていた。《砂払い》の管制室に、多々良船長。火星の中継局に、管制官。地球本部も、クァルゼイの橋で同じ卓にいた。海王星の外の、名簿のない声も。
三つの地平面で太陽を守る、という試算は、もう全員が見ていた。だが、決を採る前に、クァルゼイが手すりから手を離した。
「その形なら、読まれません。私の記録にも、読み終えた例が、ありません」
三万六千をめくった人が、そう言った。回線が、静まった。
「ですが、安い策ではありません。太陽なら、一撃で済む。これは、同じ仕事を三つに割って、三箇所で、ほとんど同時に決めろ、という作戦です。時間差が開けば、先に生まれた穴の縁から静まって、写されます」
「三箇所、同時」
ミラー中佐が、低く繰り返した。
「星を潰せる砲は、この太陽系に、四門しかありません。あの四隻です。——あなたがたは、重力を曲げることを覚えた。床を軽くし、船を曳き、軌道を押せる。立派なことです。ですが、星は、潰せない」
誰も、言い返さなかった。潰す手だけは、この人に頼るしかない。
「四で、三つを、同時に。しかも木星には、敵がいる。撃つあいだ、砲は止まります。止まったものは」
「読まれる」
多々良船長だった。マリモの行が、まだ全員の頭にあった。
「はい。ですから、撃つ手の周りに、代わりに読ませるものが要ります。陽動です。砲の届く位置まで、質量と触媒を運ぶ手も。配置のあとで、寄っていく穴を押し戻し続ける手も——放っておけば三つは寄り、寄れば、絡みは解けます。腕力の話ではありません。作戦の話です。私の見立てを申し上げます。四で三は、薄い」
「潰す以外の全部は、こちらでやります」
僕は言った。
「重力なら、いじれます。港の床を軽くするのと、原理は同じです。穴が寄ったら、質量を回して、軌道を押し戻す。押し戻しの船は、海王星の外の、船籍のない船団から出します。名簿にない船は、読まれにくい。読まれたら、その船は下げて、次は別の船、別の手順で行く」
「いつまで、続けるおつもりですか」
「絡みが、編み上がるまでです」
答えたのは、地球の物理屋だった。
『三つの縁は、書き換え合うほど、ほどけにくくなります。編み上がってしまえば、あとは軌道が多少寄っても、写せる一枚は二度と戻らない。手が要るのは、編み上がるまでです』
「なら、そこまでは、出せる手を全部出します」
僕は言った。クァルゼイは、すぐには返さなかった。
「完成の前に、手が尽きた文明なら、私の記録に、あります」
「……編み上がった例は」
「ありません。誰も、そこまで、持たなかった」
「たぶん、これから一行、増えます」
「編み上がれば、罠は手を離れても立ちます。実例が立てば、銀河の側からも、人が来ます。援軍は、約束できません——私は、解任された身です。ですが、監査団なら、必ず来ます。止まった災害を、会議は見に来ずにいられない。それまで、持てば、いい」
クァルゼイは、手すりの前で、指を四本、立てた。
「四隻を、作戦表の下に置きます。私の指揮から、外します。撃つ手は、貸します。——守るのは、あなたがたの仕事です」
表示が切り替わった。
受理番号〇〇四二
作戦:ホログラフィック三体トラップ
打撃:残存四隻(履歴圧縮砲)——木星二、土星一、海王星一。三箇所同時
陽動・援護:混成軍全船。同じ形を二度使わない
移送・触媒:鉱業組合、辺境船団、ラグランジュ・キッチン配送網
維持:無船籍船団、重力制御。絡みが編み上がるまで
承認:太陽系人類代表 連署
「ラグランジュ・キッチンです」
厨房から、御厨さんの声が届いた。鍋は、火にかけたままだった。
「三隊に分かれるのでしたら、出前も三系統に分けます。温かい飯は、装備のうちです。伝票は、ご来店の際に」
『宇宙航路財団、三鷹です。財団の保有航路と中継局を、通行料なしで、全部開放します。——申し上げておきますが、投資です。善意ではありません』
「知ってます。あなたの善意より、あなたの投資のほうが、まだ信用できます」
高梨さんが、振り向かないまま即答した。回線の向こうで、湯を啜る音がした。
「……その水筒、まだ使ってるんですね」
『機内販売の水は、高いので』
太陽系の航路を全部ただで開けた人が、そう言った。
「太陽案のほうが確実だと、まだ思っておられますか」
僕は、クァルゼイに聞いた。
「思っています。成功の目は、あなたがたが数えているより、少ない。……それでも、星が消えるのを、私は、見たくない。決めるのは、あなたがたです」
「なら、同じですね」
高梨さんだった。
「私たちも、太陽を消したくありません」
連署の欄が、上から埋まりはじめた。
『地球、署名する』
『火星、署名』
『月、署名』
「ミラーだ。木星前線から連れてきた全員ぶん、賛成に入れてくれ」
『船団、署名する』
「太陽系人類代表、高梨。署名します。——全艇、同じ形を二度使わない。ここから先は、こちらの手で回します」
クァルゼイは、その番号を見ていた。〇〇四二。昨夜、本庁の解任を受け止めた番号だった。
「議事録に記載します。決裁簿、第三六〇〇一群。取り扱い——保存区分、永久」
三万六千の途切れた行の、次の行が、そこで一つ開いた。終わりの日付は、入らなかった。
あの子の靴は、まだビニール袋の中だ。起きて、返してもらうまで、太陽は、消させない。
◇
署名のあと、回線が、少しだけ緩んだ。惑星を三つ捨てる相談も、決まってしまえば、あとは手を動かすだけになる。誰かが、長い息を吐いた。
僕は通信記録を閉じようとして、手すりの前のクァルゼイが、まだ何か開いているのに気づいた。
「Botちゃん。クァルゼイさん、何を」
『恒星の座標です。ケンタウリα星。……その次に、バーナード星。その次も、開いています』
監視欄に、ログが立った。
STELLAR COMPRESSION INITIATED.
恒星圧縮を開始しました。対象:ケンタウリα星。
「これは、あなたですか」
「はい」
クァルゼイは、通路の定位置から動いていなかった。次の座標を、一つ、また一つと開いている。ケンタウリの次、その次、その次。
「太陽系の外側に、遮蔽を作ります。近隣の恒星を潰して、伝播の道を塞ぐ。三体配置と、並行して」
「……全部、要りますか」
「間に合わなかったときのための道です。用意しておくのが、私の仕事です」
「敷き終わるのは、いつですか」
「この戦いが終わった——ずっと、あとです」
どうやっても間に合わない道を、署名の乾く前から敷いている。僕らが負けたあとの、銀河のための道だ。開いた座標が、一つ、また一つと増えていく。
僕は、それを高梨さんに言わなかった。
クァルゼイが、低く、付け足した。ほとんど、自分に読み聞かせるようだった。
「私は、あなた方に、勝ってほしい。……見立ては、別です」
窓の外で、ケンタウリα星が、まだ光っていた。四光年先の星だ。四年前に出た光が、いま届いている。星は、もう潰れている。あの光点が消えるのは、四年後だ。
僕らが惑星三つの計算に徹夜する夜に、この人は、恒星を一つ潰していた。「備考:良い音でした」と書いた、同じ手で。




