第33話 急場の混成軍
指の腹で、送信を押し込んだ。
六年前に書いた文面が、太陽系の六つの方角へ散っていく。混成構成を編成してください。整っていないものを、同一系統に含めてください。廃止予定の欄で埃をかぶっていた一行が、いまでは太陽系でいちばん新しい作戦案だった。
返事は、光の速さでしか帰ってこない。火星まで片道二十六分。地球まで四十分。待つのは窓口の本業だ。慣れている。慣れているのと平気なのは、別の話だ。
最初に返ってきたのは、船団の中からだった。
『LK配送網。混ぜる方、始めます。保温車も冷蔵車も、今日から人を運びます』
『小惑星帯鉱業組合、セレス第四鉱区。議決は待つが、船は先に出す。「整っていないもの」呼ばわりは気に入らんが、質量なら誰にも負けん』
一時間して、遠い返事が追いついた。いちばん短いのは、地球からだった。
『地球低軌道港湾、未確定残滓対応班。対応します。以上』
会ったことは、一度もない相手だ。向こうが知っているのは僕らの顔ではなく、文面に書いた仕事の中身だ。未確定を、ゼロにしない側の仕事。書式一枚で、それだけが通じた。
L4とL5の滞在船群は、文字を返してこなかった。代わりに航跡図の隅で、滞在軌道の光点が、ひとつずつ船団へ合流する隊列に移っていく。返事を書くより先に、舵を切っていた。
『受信五系統。相互の互換、ありません。混成構成に、含めました。系統名は——未記入です』
Botちゃんの読み上げの、系統名の欄だけが白く空いていた。僕はまだ、埋めなかった。名前を付けるということが何を招くか、この二日で嫌というほど見てきたからだ。
◇
目録を繰っていたのは、そのすぐあとだった。
船団の脇を流れる浮遊物の目録。デブリ、氷塊、投棄された鉱石。目録上の登録数、二千三百十二。掩蔽観測の実数、二千三百十六。
四つ、多い。
『照合しますか』とBotちゃんが言った。『識別信号の照会が、最短です』
「照会するな」
自分でも驚くくらい強い声が出た。
「識別コードも振るな。……岩だ。岩。以上」
Botちゃんは黙った。この太陽系で、いま「呼ぶ」がどういう意味か、装置ですら手順を覚えた。呼ばれた者は、手続きに拾われる。四千二百隻が昨日、丸一日保たずにそうなった。名を呼ぶことが、この宇宙でいちばん丁寧な殺し方になった。
僕は四つの岩の数値を見た。岩にしては、そろって軽い。中が空洞の、小型艦くらいの軽さだった。そして四つとも、船団の進む向きに対して、ほんの微妙に、姿勢を保っていた。
岩は、姿勢を保たない。姿勢を保つのは、保ちたい者だけだ。
喉の奥が熱くなるのを、書式の言葉で押さえつけた。呼名、不可。照会、不可。登録、不可。備考欄すら危ない。残る欄が、ひとつもない。
いや。ひとつだけあった。
「《砂払い》さん。腕を貸してください。叩きたい岩が、四つあります」
『叩きたい岩、ね』
砂利声が、少しだけ間を置いた。
『——何秒いる』
「二秒です」
『行く』
採掘船が列を半歩外れて、いちばん手前の岩に横付けした。船体に、氷を割った傷が年輪みたいに入っている老朽船だ。関節が三つある作業腕が伸びて、先端の爪が、焦げた岩の面にそっと触れた。
隣で高梨さんが、管制卓の縁を両手で掴んでいた。昨日から彼女は、ときどき片方の耳に手をやる癖がついている。そこにまだ残っている声が、あるからだ。
「もし、違ったら」
小さい声だった。
「ただの岩だったら」
「そのときは、岩を二回叩いた変な採掘船がいた、って話になるだけです」
軽口は、僕の場合、手が震えているときに出る。高梨さんはそれを知っているから、笑わなかった。
『叩くぞ。二回』
こん。こん。
音は真空を渡らない。振動だけが、爪から外板へ、外板から中の空気があればそこへ、渡る。腕の付け根の集音器が、その二打を管制卓へ流していた。
沈黙。船団は進み続けている。何千の航行灯が、画面の端をゆっくり横切っていく。
こん、こん。
返ってきた。岩の内側から。二度。同じ間で。
高梨さんが息を呑む音のほうが、打音より大きかった。
二つ目の岩。こん、こん。——こん、こん。
三つ目。こん、こん。——少し間があって、こん、こん。
四つ目。
こん、こん。
長い沈黙があった。
『……来ねえな』
誰も、次の言葉を出さなかった。高梨さんの手が、耳へ上がりかけて、止まった。
四つ目の岩の、焼け焦げた割れ目から、小さな光が一度だけ点いた。
作業灯だった。叩き返す腕が、もう残っていないのだ。焼け残った灯りひとつが、持っているものの全部で、それを点けた。一度だけ。
『——岩は、灯りをつけねえぞ』
砂利声が、太いまま震えていた。
そして、四つの岩が、光った。
四箇所、同時に。一度だけ点いて、消えた。
僕はその明滅を知っていた。昨日、艦隊が読まれて消えていくとき、この避難船団が——船という船が、航行灯を一度だけ明滅させて送った、名を発音できない者たちへの敬礼だ。
彼らは、見ていたのだ。瓦礫のふりをして、声を出せば死に、灯りを点ければ見つかる暗闇の中で、僚艦が一隻ずつ消えていくのを見ながら——人間たちの船団が仲間に送った明滅を、数えて、覚えて、ここまで運んできた。
いま、返している。
高梨さんが泣いていた。声を出さずに、管制卓を掴んだまま。
クァルゼイは、通路の手すりの前に立っていた。名前は、呼ばなかった。膝の脇の拳だけが、指の一本ずつ、ゆっくり開いた。
「壊れていた艦です」
それだけ言った。整った僚艦は隊列から崩れられないまま読まれ、戦闘で認証の欄まで潰れていた艦だけが、隊列からこぼれ落ちることができた。助かった理由が「壊れていたから」だなんて報告書は、誰も書きたくない。それでも、生きている者は生きている。
僕は目録の入力欄に、やっと打った。
岩、四。備考:なし。
備考欄に何も書かないことが、彼らを生かす唯一の書式だった。名前のない岩は、読まれない。
『岩なら、うちの鉱区に登録しとく』
《砂払い》の船長が、腕を畳みながら言った。
『うちの鉱区の岩は、俺の許可なく誰にも触らせん。……それとな。岩に水と電気を分けてやるのは、違法じゃねえよな』
「現場判断です」
声が掠れた。
「現場判断は、目録より偉い」
◇
残り、八十五時間。
減っていく数字の下で、人類は指揮権で揉めていた。
火星は統合指揮を拒み、統合本部は承認手続きを盾に取り、月の事務方は適用条約の確認が先だと書いてきた。全員が正しかった。全員が正しいまま、数字だけが減った。僕は通信席で議事録係みたいな顔をして、手続きのやり取りが生きた時間を食っていくのを見ていた。
『前例がありません』
と、統合本部が言った。
「前例は、先日つくりました」
クァルゼイだった。通路の手すりの前に立ったまま、端末も持たず、全系統へ声だけで割り込んだ。
「四千二百隻で。——一日、保ちませんでした」
回線が、ざらりと静まった。
発言者一覧の末尾で、ずっと消えていた表示が灯っていた。監査人(音声のみ)。彼の生身はこの会議のどこにもいない。毛布を掛けられた開かない箱として、人間の避難列のどこかを流れている。だから各卓にとって、彼は声だけだった。
「議題は指揮権の帰属と伺いました。参考までに、監査人の決裁単位を申し上げます」
議事録の声。それしか持たない者の声。ただ、その声が昨日一日で何を失ったか、回線の全員が知っていた。
「私は、銀河を単位に裁可します。恒星ではなく、腕でもなく、銀河です。そして——銀河は、一つで止まるのなら、安い」
誰かが、椅子の上で身じろぎした。
「私が監査してきた記録には、途中で途切れた行が、三万六千あります。文明ひとつにつき、一行です。今夜の議題は、それが三万六千一になるかどうかです。この太陽系で止まるのなら、天の川銀河一つ分の費目は、安い。必要なら、今夜の決裁簿に載せます。私にその権限があり、その筆は、まだ焼けておりません」
声は最後まで敬語のままで、一度も大きくならなかった。ただ、桁が違った。持っている桁ではない。失った桁が、違った。
「——皆様が争っておられる指揮権は、その記録の、どの行にも載らない大きさです」
指揮権を主張していた席が、ひとつ、またひとつ、手元の書類を伏せていくのが、音で分かった。
これで終わりなら、格好のいい話だった。でもクァルゼイは、同じ声のまま、続けた。
「続けて、監査対象の申告があります。対象は、私です」
議長が何か言いかけて、やめた。
「昨日、木星空域の救難網が輻輳しておりました。私は善意により、回線の身元照合欄を整列させました。整列した回線は、効率的です。効率的なものは、読みやすい。読みやすいものから、先に読まれます」
声は、議事録の速度を崩さなかった。崩さないことが、この人の唯一の姿勢の保ち方なのだと、僕はもう知っていた。
「その整列の上で、一名が消えました。真空で救助に従事していた方です。氏名は、聴取されていません。名を聞かれる前に、私の整えた回線ごと、読まれました。——本件は事故ではありません。私の入力です。どなたか、私を責める手続きを、起こしてください。監査人は、自分を監査できません」
誰も、動かなかった。
最初に返ってきたのは、罰ではなかった。
『ガニメデ仮設港、医療班。昨日、名乗らない艇に十四人拾われた側だ。あの艇の出どころが、あんたの体だったと、あとで聞いた』
昨日、これ、どこの艇だ、と言ったまま、誰にも答えてもらえなかった声だった。
『人類でもない相手に、体を張ってもらった。助けられたんだ、こっちは。責める手続きが要るってんなら、礼の手続きのあとに並べ。順番ってものがある』
ミラー中佐が、続いた。短かった。
「木星で、俺の階級記録は焼けた。俺が中佐だという証明は、もう書類からは出ない。だが部下が呼ぶから、俺は中佐だ。——あんたを何と呼ぶかは、呼ぶ側が決める。申告は預かった。手続きは、出んよ」
クァルゼイは、何も返さなかった。罰の申請書式は書けても、礼と呼び名の受け取り方は、彼の記録のどこにも載っていない。
僕は頭の中で、申立人の欄に入れる名前を探した。窓口の癖だ。彼女の名は聴取されていない。彼女に拾われた者たちは、バイザー越しの顔しか知らない。四千二百隻は発音できない。ノル=アクタは、彼自身が呼んでしまった。
申立人:該当なし。
該当なしが、こんなに残酷な書式だとは知らなかった。責められないことは、赦されることではない。責める者が全員いなくなったという、ただの在庫確認だ。この部屋は彼に礼を返し、呼び名を返した。彼が求めた罰だけが、どこからも出てこない。そしてクァルゼイは、その在庫を、誰よりも正確に読める人だった。
沈黙が長くなりすぎる前に、椅子の鳴る音がした。
高梨さんが、立っていた。
「その人の声なら、私が持ってます」
彼女は自分の端末を、通信卓に置いた。片方の耳に手をやって、それから、その手を下ろした。
「昨日、外で拾われてるあいだ、ずっと同じ回線にいました。名前は、聞けなかったけど。……処分の代わりになるかは分かりません。でも、聞いてください。この人、最後まで、こういう人でした」
再生された。
ノイズの海。呼吸音。それから、よく通る、笑いの混じった声。
『——はい摑まえた! 次! 次そっち、右の、手ぇ振ってる子! 大丈夫、順番、全員来るから——』
次。次。その声は、消える瞬間まで「次」と言っていた。自分の順番のことは、一度も言わなかった。
録音が切れたあと、どの卓でも、誰も口を開かなかった。減っていく数字だけが、画面で音もなく点滅していた。
やがて、音声のみの席から、声がした。いつもの敬語だった。ただ、議事録の速度が、初めて崩れていた。
「……議事録に、残すことを、許可いただけますか」
「残してください」
「発言者、氏名不詳、一名。……保存区分は」
声が、そこで一度、途切れた。開かない箱の中の生身が、いまどんな顔をしているのかは、誰にも見えない。見えないことが、たぶん、彼に残された最後の毛布だった。
「保存区分は、永久。——議事を続けてください、議長。指揮権の件は、いかようにも。残り時間は、八十四時間と、五十一分です」
永久、の行が書かれて、数秒あとに、別の帳面が動いた。
『ラグランジュ・キッチン木星支店です。ただいまの音声のお客様を、予約台帳に記帳しました。一名様、ご来店日は未定。お名前は、ご来店のときに伺います』
御厨さんはそれだけ言って、回線を閉じる寸前に、小さく付け足した。当店から席を下げた前例は、開店以来ございません。
二つの帳面に、同じ人が載った。片方は保存区分が永久で、片方は来店日が未定。どちらも、消えない側の書式だった。
指揮権の議題は、そのまま取り下げられた。誰も理由を口にしなかった。理由をいちいち口にするような会議では、もうなくなっていた。
◇
散会のあと、ミラー中佐が通信席の端で申請の束を作っていた。燃料から固定ネットの替えまで、船団の欠品の一覧だ。
「作戦名の欄、空欄だとどうなりますか」
「動かん」
即答だった。
「倉庫番は書類で動く。悪口じゃないぞ。書類で動くから、倉庫は空にならずに残ってる。名無しの申請に出る箱は、一箱もない」
名前を付ければ、読まれる。それを見なかった者は、この船団にいない。それでも、箱が動かなければ、船団は火星に着く前に空気が尽きる。
「体裁は要らん。実態を書け」
僕は申請欄に書いた。書ける実態は、ひとつしかなかった。
作戦名:急場の混成軍
「急場、って自分で書くんですね」
操縦席から、高梨さんが言った。目の縁がまだ赤かった。
「間に合わせです、って最初から書いておくんです。実態と違う書類は、差し戻しの往復で死ぬので」
申請が流れた先で、組合は承認を待たなかった。航跡図の上で、ベルトの岩から補給の箱が押し出されはじめる。怒られる側の名簿の筆頭には、議長の名が先に載っていた。
その卓の隅で、ガニメデ港の医療班から問い合わせが一件、手を挙げた。
『未登録収容物一件、次の便に積む。維持手順を確認したい。温度は。栄養は。……開けるべきか』
「開けないでください」
クァルゼイの声が、即時の回線に置かれた。
「開けられない、のではありません。開けると、読める形になります」
数分の往復があって、港の声が戻った。
『了解した。毛布を掛けておく』
「……熱的には、無意味です」
『気分の問題だ』
回線の切れる寸前、布の広がる音がした。彼は、それ以上訂正しなかった。
◇
通信席へ戻ると、監視欄の数字が待っていた。
太陽系索引化まで:84:36
その下に、行がひとつ、増えていた。
IRREGULARITY PROFILE: INDEXING
不均質性の輪郭を、索引化しています。
書いた名前は、承認より先に読まれていた。火星の倉庫番の返事は、まだ電波の途中だ。向こうの側だけが、即時だった。
「先輩」
高梨さんが、背面の欄を見ていた。
「ばらばらのまま、束ねたのに」
「ばらばら、って名前を付けた」
短い行は、それきり増えない。INDEXINGの文字だけが、一定の間隔で点いては、消える。
回線の底から、外宇宙OSの声が来た。ノイズの蓋も使わず、監視欄の行と同じ静かさで、一度だけ。
——不均質性を、救助標準として登録します。




