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重力はラグでした。物理準備室で宇宙を処理落ちさせたら、国立研究所と黒服が来た件  作者: みんとす
第四章 木星圏争奪戦、即席銀河連合軍 ——または、整いすぎると読まれることについて
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第32話 荒川カレーの匂い

 ——太陽系を、受領予定に登録しました。


 外宇宙OSは、それだけ言った。言ったきり、木星圏の全部の声の上に、厚いノイズが一枚、蓋の形でかぶさったままになった。ガニメデの整理番号も、四十分前の地球も、誰かが誰かを呼び続ける声も、全部その下だ。


 放課後号の通信席で、僕は音量を上げも下げもできずにいた。上げればノイズが痛い。下げれば、蓋の下の声ごと聞こえなくなる。


『回線の占有、解除。占有時間は、宣告の長さと一致します』


 Botちゃんが、計器の行を読んだ。蓋が薄くなり、破れて、下から声が戻ってくる。


 返事は、遅れて届きはじめた。


 ミラー中佐の後退命令は、光の速さで太陽系の内側へ散っていった。いちばん近い航路管制まで三十分あまり、地球までは四十分。行って、折り返して——命令が往復を終えた順に、太陽系が返事をよこしてくる。


『地球軌道管制より、全船。第四受け入れ帯を民間に開放する。着艦枠は割り振らない。空いた順に降ろす』


『火星内縁回廊、臨時集結帯を設定した。ドック予約は全件破棄。来た順に入れる』


『小惑星帯鉱業組合だ。採掘船を搬送に転用する。圧力区画のある船から回す。鉱石は宇宙に置いていけ』


『ラグランジュ・キッチン配送網より、全店。冷蔵コンテナ五十七台、冷やすのをやめて、人を寝かせます』


 書式は、ばらばらだった。軍のもの。港のもの。組合の啖呵に、厨房の申し送り。誰も揃えないまま、全部が同じ向きを指していた。内へ。火星の内縁へ。


 同じ声が二度届くこともあった。中継衛星が輻輳して、古い方の複製が遅れて着く。Botちゃんは重複を消さず、受信時刻だけ添えて積んでいく。消していい声かどうか、いまは誰にも決められない。


 航跡図の上では、木星圏から剥がれた光点が細い川になりはじめていた。船籍番号のある船と、ない船が、同じ流れに混ざっている。川の先頭はもう小惑星帯へ向かう斜面にいて、尻尾はまだ、僕らの後ろの暗がりから湧き続けていた。


 背面表示の黒い鉤は、太陽の方を向いたまま動かない。窓口の監視欄では、マウントの進捗だけが育っていく。


 MOUNT PROGRESS: 33%

 外部OSのマウント進捗、三十三パーセント。


 受領予定に登録しました——あの宣告の意味を、僕はまだ持っていなかった。窓口の回線の向こうで、大槻さんも同じだった。


『受領ってのは、何をされるんだ。艇一隻ぶんなら、さっき見た。太陽系一個で同じことをやるってのか。いつからだ。締切はどこだ』


 誰も答えない回線に、クァルゼイの声が入った。


「登録の、次の手順なら知っています」


 通路のいちばん後ろから、彼は監視欄を見ていた。


「目録を作ります。どこに何があり、誰がいるか。読み終えてから、受領します。——私の仕事と、同じ順番です」


 白い楔も、そうだった。船体と推進を読み終えられてから、畳まれた。太陽系は大きい。大きいぶん、読み終えるのに時間がかかる。それだけが、こちらの持ち時間だった。


 大槻さんたちは、その手順と、鉤がこれまでに読んできた速さから、終わりの時刻を逆算した。監視欄に、行がひとつ増えた。


 太陽系索引化まで:88:40


 八十八時間と、四十分。丸四日に、七時間ほど足りない。生まれた瞬間から、数字は減りはじめた。


『……されたら、どうなる』


 大槻さんが聞いた。窓口の人間が、窓口の外の誰かに聞く声だった。


「受領された宇宙群の記録は、会議にありません」


 クァルゼイの答えは短かった。


「記録する側が、残らないからです」


 回線が、静かになった。


「四日か」


 ミラー中佐が、担架の足側を持ったまま、航跡図の端を見ていた。


「川の尻尾は、届かんな。それでも流す。届く分から、届けていく」


「止める方法は、あるんですか」


 高梨さんが、前を向いたまま聞いた。


「私の側の答えは、四千二百隻でした」


 隊列図を、クァルゼイは見なかった。誰も、続きを聞かなかった。


 息をするように、数字は減っていく。鉤の根元で腕の増える速さは、変わっていない。航跡図を見ている顔は、どれも同じ場所で止まっていた。川のいちばん後ろ——まだ湧き続けている側だ。


 僕は通信席から、後ろの区画を振り返った。


 客席だった場所は、もう客席ではなかった。固定ネットの二十床は、前哨基地から出た人たちと、第十区画から回された重傷者で埋まっている。ラグランジュ・キッチンの座席の布地——コンロの火の模様——が、担架の縁からわずかに覗いていた。停止した保温什器は棚に変わり、点滴の袋が、湯呑みの並んでいた段に紐で吊られている。


 床には黄色いテープが一本、通路を横切って貼ってある。手前は、処置の手が回る側。奥は、酸素だけつないで、順番を待ってもらう側。ただの粘着テープだった。ただの粘着テープが、この船でいちばん重い線だった。


 ミラー中佐は、その境目に立っていた。テープの浮いた端を靴底で踏んで、めくれないように押さえている。押さえたまま、両手は次の担架の足側を掴んでいた。


「置いた順を覚えておけ。名前は、あとで全部拾う」


 誰にともなく言う声が、区画の端まで通った。


『二酸化炭素、吸着材の交換周期を短縮します。収容三十三名。設計値の上です』


 言われるまでもない数字だった。吸う息の浅さは、とっくに船内の全部の呼吸に出ていた。口に出す者が、いなかっただけだ。


 厨房から、匂いが来た。


 御厨さんが、保温鍋の底をへらで削っていた。荒川カレー。木星風カレーだったものの、いまの名前だ。紙皿に薄く伸ばされた最後の一皿が、手の震える兵士に渡る。兵士はスプーンを持てなくて、隣に固定された観測員が、腕を伸ばして持った。


 鍋は、それで空になった。


 テープの奥に、喉と気道をやられた整備員が寝ている。呼吸は管からしか入らず、飲み込む方は使えない。御厨さんはその担架の横に、何も載っていない紙皿をひとつ、留め具で固定した。皿には、鍋の湯気の名残だけが染みている。


「匂いだけは、お代わりできます」


 誰も笑わなかった。テープの奥で、深く息を吸う音が、いくつか続いた。吸える者は、吸った。


 クァルゼイの端末は、通路のいちばん後ろに立っていた。関節の合わせ目の霜は、船内の温度でも溶けずに白い。彼の生身は、まだガニメデの網の中だ。彼は、そこから遠ざかる針路の船に、立って乗っている。


「回収艇四、予定の回廊に入る時刻です」


 高梨さんが操縦席から言った。


「拾いに行きます」


 木星に来てから、二度目の「拾いに行きます」だった。船首が、ゆっくり傾いた。傾け方が浅い。後ろの担架の列が音を立てない角度を、操縦席の指が探していた。


     ◇


 基地を離れて二時間あまり。放課後号は木星の重力の坂を斜めに横切って、エウロパの軌道のすぐ外に出た。木星から、七十万キロ足らずの高さだ。


 回収艇四は、切り離しから四十分の滑空で、透明通路の区画六に着いていた。生き残りを積めるだけ積んで、エウロパの氷を蹴ったのが四十分前。手順どおりなら、いまは予定の回廊を、灯りを消したまま流れている。


「蹴り出しの時刻と、向きと、速さ。全部、手順が決めています」


 クァルゼイが言った。手順を書いたのは彼の側の誰かで、その数字を、彼は諳んじていた。手順が教えるのは、そこまでだ。艇がいまどこにいるかは、探すしかない。


「呼びかけは、しないでください。あの艇は、問われなければ、ただの浮遊物です」


 だから、探し方はひとつしかない。星が隠れるのを数える。


『恒星の掩蔽に周期があります。暗い物体ひとつ、長さ六メートル。四十秒でひと回り。予定回廊の内縁です』


 高梨さんは推進を殺して、木星の照り返しだけで寄せていった。測距の電波は打たない。着艦誘導も出さない。問いをひとつでも投げれば、あの箱はただの箱でいられなくなる。


『相対速度、秒速二メートル。……一メートル。……五十センチ』


 窓の外に、それは急に現れた。灯りがないというのは、そういうことだ。星を消しながら滑ってくる、箱の形の穴。


「出ます」


 緊急用の船外服は、胴が合って手袋がきつかった。腰の環だけは、誰の腰でも同じに締まる。エアロックの四分で音が一枚ずつ剥がれて、最後に、自分の呼吸だけが残った。


 外に出ると、下が全部エウロパだった。灰色の氷が視界の底を塞いで、星は上半分の空にしかない。罅の一本一本が、上から見れば川幅の広い川だ。あの罅のどれかの下から、いま曳こうとしている箱は上がってきた。


 箱まで十メートル。係留索を腰の環で確かめて、船腹の手すりを蹴った。


 箱は、ゆっくり回っていた。四隅に取っ手がある。回ってくる取っ手を、待つ。掴む。


 掴んだ瞬間、箱の回転が腕に来た。中身ごと四トンの質量が、手袋の中の指を持っていこうとする。


「腕で止めないでください。索に預けて、一緒に回ってください」


 高梨さんの声が来た。数時間前、僕が回線越しに言った台詞だ。言う側と言われる側が、入れ替わっただけだった。


 索が張った。星と、木星と、放課後号の船腹が、順番に頭の上を通っていく。回転は索へ抜けて、二周半で止まった。


 止まってから、取っ手の脇の外板を、手袋の甲で二度叩いた。


 音は真空を渡らない。渡るとすれば、外板から骨組みへ、骨組みから中の空気へ。その道だけだ。


 待つ。自分の呼吸を数える。二つ。三つ。


 二度、返ってきた。


 耳ではなく、取っ手を握った手のひらに、こつ、こつ、と骨で聞く音が来た。回線も識別子もない。それでも中身は、生きていると言った。


「生きてます」


 自分の声が、思ったより大きく出た。


 予備索の輪を四隅の取っ手に通して、船腹まで曳く。張りは最後まで細く保った。四トンは、急がせれば凶器になる。食材搬入口の枠に、箱は指二本ぶんの余裕で収まった。


『搬入口、閉鎖。与圧回復。掛け金は、内側から手で回せます』


 掛け金は固かった。電気の通っていない、手で回すためだけの造りだ。回し切ると縁がわずかに浮いて、向こうの空気とこちらの空気の、混ざる音がした。冷気と一緒に、割れたばかりの氷の匂いが出てきた。


 九人、いた。


 定員四の艇に、九人。内壁は呼気の霜で白く、その白に、指でなぞった数え跡が残っていた。誰かが、暗闇の中で人数を数え直し続けていたのだ。胸の布章は氷下観測班。膝を抱えた姿勢のまま冷え固まって、一人ずつ、こちらの手を借りて出てくる。話せる者は少ない。最後の一人は隣の人の袖を握ったままで、その手を、誰もほどかせなかった。


 固定ネットは、とうに埋まっていた。九人の行き先は、最初から通路の壁だ。


 僕は貨物棚のロックを外して、古い荷締めベルトを通路へ流した。人をひとり壁に留めるたび、生体モニターに繋げる空きケーブルが、一本ずつ減っていく。


『収容、四十二名』


 高梨さんが搬入口の閉鎖を確かめて、船首を内側へ戻した。エウロパの灰色の氷が、背面表示の隅へ流れていった。


     ◇


 エウロパを離れて二十分。氷の円盤が背面で拳ひとつに縮んだ頃、避難流の共用回線に、短い報告が乗った。


『ガニメデ仮設港、収容報告。網で受けた保管槽一基、医療天幕の棚に固定した。中身、生体反応ひとつ。低温、安定。応答なし。分類は、未登録収容物一件。開け方は、分からん』


 港の作業員の声だった。書式も敬語もない。声の後ろで、網の巻き上げ機が回り続けている。


『名簿に行がないんで、名札は手書きにした。荷札の厚紙だ。読み上げる——名前、あとで聞く。席、保持。以上。次の便の避難流に乗せて、火星内縁へ送る』


 未登録収容物、一件。


 それが、銀河外標準化会議の代表の、息をする方の体の、いまの呼ばれ方だった。名簿のどこにも載らないまま、油性の手書き一枚で、人間の避難の川に乗る。


 クァルゼイの端末は、通路の手すりを片手で掴んだ。報告が終わって、回線が次の声に移っても、その手はしばらく開かなかった。それだけだった。


 僕は共用回線の音量を一段下げて、針路の欄に戻った。


     ◇


 エウロパから一時間。火星へ向く長い下り坂に、船首が乗った。避難の回廊は、止めた腕の陰に沿って木星の影をいったん横切り、それから内側へ折れる。だから窓にはしばらく、木星の夜側が居座る。昼の縞は円盤の縁に細く残るだけで、あとは星を塗り潰す黒だ。


 受信機が、砕けた音声を拾った。


 砕けているのに、古い。創生期に似て非なる平文——僕とBotちゃんが窓口の辞書で復号してきた、派遣軍の書式だった。


『代表個体クァル=ゼイ。残存艦は退避を中止する。全艦仕様を開示する』


 開いた回線に、名前が載っていた。名前を呼ぶな、と言っていた側が、呼んだ。守るべき名簿が、もう残っていないという意味だった。


 クァルゼイが通信席の脇まで来た。歩幅はいつも通りで、声だけが違った。


「やめろ」


 議事録のようだった声が、初めて命令の形をしていた。


「規格を崩して散れ。ばらばらに落ちて、読まれずに残れ」


『規格を崩す権限がありません』


 返答は短く、揺れがなかった。続きが、同じ平文で落ちてきた。


『権限だけの話でもない。我々は緒戦で登録済みだ。退けば、帰還の経路ごと索引に載る。母星まで、道を引くことになる』


『武装は写し取られて終わる。それも見た。売り物は、艦歴と仕様だけが残った。ならば、読む順と、読み直しの回数は、こちらで組む。もっとも高くつくように』


『代表。これは敗走ではない。納品です』


「命じられても」


 高梨さんが、操縦席から振り返らずに言った。


「崩せないんですか」


「整えるとは、勝手に崩せなくすることです」


 クァルゼイの声は、もう平らに戻っていた。戻したのだと分かる平らさだった。


「いちばん整った艦が、いちばん逃げられない」


 反論は、思いつかなかった。今日一日、僕らはその実演だけを見てきた。


 望遠の枠の中で、旗艦が向きを変えた。攻撃の角度ではない。艦腹の装甲が一枚ずつ外へ倒れて、砲門のあるべき奥から、仕様の束が通信帯へ押し出されはじめた。推進の図面。修復の手順。隊列の組み方。認証の鍵。温存していた分まで、全部。


 残りの艦が、続いた。


 四千二百で来た軍の、残りは十六隻だった。木星の暗い円盤を背にして、数えるほどの白い点が、差し出す束のぶんだけ自分の輪郭を太らせていく。距離のせいで点にしか見えない。点のまま、明るくなっていく。燃えて明るいのではなかった。読まれて、明るい。


『受信量が桁を超えました。全量は保存できません。見出しだけ保存します』


 見出しだけで、受信欄の送りが目で追えなくなった。


 ——受領します。


 回線の底で、外宇宙OSの声がした。それだけ言って、あとは黙って読んだ。


 最初に読み終えられたのは、補給艦だった。差し出した束は薄い。薄いのに、見出しの枝は艦隊の全部へ張っていた。どの艦の頁を開いても、燃料の行で、修理部品の行で、必ずこの束へ戻ってくる。読む側は、戻ってくるたびに読み直す。


 輪郭が透けはじめた。船体の白が薄まって、裏側の星が滲み出てくる。読み終えられた行の順に、船が星空へ明け渡されていくような消え方だった。最後に、白い光が縦にひと筋立って——閉じた。板を最後まで溶接し終えたときの、終端の光に似ていた。


 クァルゼイが、短い音列を口にした。翻訳されない、長さだけが伝わる音。消えた艦の名前だった。艦がそこにあるうちは、呼べなかった名前だ。


 窓口の監視欄が跳ねた。


 INGESTING SPECIFICATIONS.

 TIME TO SOLAR SYSTEM INDEXING: 84:40 -> 85:18

 仕様書の取り込みにより、外部OSの処理負荷が上昇。索引化予測を更新します。


 時計が、戻った。減るしか知らないはずの予測が、初めて逆へ動いた。


 一隻が、太陽系に三十八分を買った。


 護衛艦の列が続いた。読み終えられる寸前まで隊列を崩さず、その隊列の組み方ごと差し出して、端の艦から順に、裏側の星と入れ替わっていく。終端の光が、木星の夜側に、間隔を置いて灯っては消えた。灯りがひとつ消えるたび、船内に、クァルゼイの音列がひとつ置かれた。


『信号消失、四隻。同時です。終端の光は、ありません。瓦礫帯と、区別がつきません』


 消え方にも、格の差があった。読み終えられる艦には、最後の光が立つ。戦闘で認証の欄まで潰れた艦には、何も立たない。灯りのないまま、夜側の瓦礫の帯へ落ちて、計器から消えた。


 クァルゼイは、その四隻には音列を置かなかった。


 肉眼の窓では、木星はただの黒い円盤だ。終端の光は、望遠の枠の中だけで灯る。それでも、灯るたびに船内の空気が動いた。誰かが息を止め、誰かが吐いた。


 黒い鉤の根元では、腕の生える間隔が伸びはじめていた。表面を走る照合の艶も、ところどころ、引っ掻いたように鈍っている。読むことに、力を取られている。


 REMAINING SHIPS: 9.

 TIME TO SOLAR SYSTEM INDEXING: 85:18 -> 86:02


『索引化予測の後退により、火星内縁に間に合う船が増えます。概算、四百隻』


 Botちゃんが、頼まれない注記を読んだ。


 その四百隻の最初の一隻が、もう来ていた。外板の焦げた救助艇が、姿勢制御を片側だけ噴かしながら、航法の死んだ機体で川を外れかけている。


「二分半、もらいます」


 高梨さんが流れから船を半歩外した。舵は浅い。振れば、後ろで四十二人が揺れる。浅い舵のまま時間をかけて艇の横に並び、甲板灯を手で明滅させた。誘導の電波は出さない。


「電波は問いになります。灯りは、まだ問いじゃありません」


 灯りの点き消えで、曲がる先だけを教える。焦げた艇が川に乗り直すとき、風防の中で操縦士が、こちらへ手を挙げた。


 背中側で、担架票の警告音が鳴った。


 テープの奥。あの、喉と気道をやられた整備員だった。衛生兵が担架に馬乗りの姿勢を取り、胸に両手を重ねて、体重を落としはじめる。押すたび担架の固定具が軋んで、通路の担架の列が細かく揺れた。


 票の小さな画面が点滅して、文字が変わった。


 登録待機時間超過。


 欄の色が、灰色に落ちた。


 衛生兵は押し続けた。票がどうなろうと手を止めない側の人間だった。それでも六分後、汗の落ちる音が数えられるほど静かになった通路で、手が止まった。


 ミラー中佐が、境目のテープから足を上げた。担架の脇に膝をついて、自分の上着を脱いで、顔に掛けた。


 衛生兵は票を剥がした。決まった置き場は、ない。壁の隅の配線カバーの上に、粘着面で留めた。灰色はそれで四枚並んだ。名前の欄は、四枚とも空白だった。


 空の紙皿だけが、担架の横に残った。カレーの匂いは、もうそこにはしなかった。


 夜側の白い点は、減り続けていた。


 一隻、読み終わらない艦があった。輪郭が半分透けたまま、消え残っている。クァルゼイの音列が、最初の音の形まで来て——止まった。艦は、まだそこにある。あるうちに呼べば、名前ごと手続きに拾われる。彼は口を結んだまま、輪郭が星に沈み切るのを待った。待って、それから、呼んだ。


 最後に、旗艦が薄くなりはじめた。いちばん厚い束を出した艦だった。透けていく輪郭の奥で束が読まれ、読まれた行の順に、船体が星へ明け渡されていく。


 終端の光が立つ前に、平文がひとつ、束の合間に落ちた。


『代表。記録を、持ち帰れ』


 クァルゼイは、返信しなかった。下げた両手が、拳のまま固かった。


 木星の暗い縁で、ひときわ長い終端の光が立って——閉じた。


 REMAINING SHIPS: 0.

 TIME TO SOLAR SYSTEM INDEXING: 86:02 -> 87:12


 夜側に、光るものはもうなかった。木星の円盤だけが、黒々と残った。


 勝敗の欄は、どこにも出ない。消える順番まで揃えた艦列が、時計の針を二時間半ぶん巻き戻した。巻き戻された予測は、表示された端から、また一秒ずつ減りはじめている。その針の上に、四百隻と、川の尻尾が乗っていた。


 クァルゼイは、最後の音列を長く、長く呼んだ。旗艦の名前だった。呼び終わるまで、放課後号の中の誰も、口を開かなかった。


 沈黙を破ったのは、ミラー中佐だった。共用回線を開いて、短く言った。


『国連宇宙軍より、全船。いまの二時間半は、銀河外の派遣軍が買った。奴らの名前は、こちらの口では発音もできん。できんが——覚えておけ』


 航跡図の川は、止まらなかった。止まれない。代わりに、光点が川上から順に、一度だけ暗くなって、戻った。減速もせず、列も崩さず、航行灯の明滅だけが、川の尻尾まで伝わっていった。


 クァルゼイは、立ったまま、その明滅が下りきるのを見ていた。


     ◇


 仕様の束の受信が終わって、受信機の温度が下がりはじめた頃——木星が背面表示で硬貨ほどの大きさになった頃だ。流れ切った束の尻尾に、Botちゃんが引っかかった。


『添付、一件。仕様の書式の外です。注釈欄——項目に、定義がありません。読み側の照合ログ、該当行なし』


 仕様は、全部読まれた。定義のない欄だけが、読まれずに、束の陰でここまで運ばれてきた。


 差出人の欄は、半分焼けていた。残った半分で、足りた。


 ノル=アクタ。


 名前ごと消された指揮艦が、消える前に、誰にも定義されていない欄をひとつ選んで、そこへ文面を置いていた。


 僕は端末へ回した。開くかどうかは、クァルゼイの指だった。


 彼は開いた。文面の前半は焼けて、読めるのは切れ端だけだった。


 > ……救助の列に、我々の書式を持ち込まないで……

 > ……名前の欄は、壊れたままで構いません……

 > 整いを、彼らの整っていなさに押しつけないでください。

 > 私信。ノル=アクタ。


 クァルゼイは、声を出さなかった。画面を閉じもしなかった。霜の残った指が一度ひらいて、閉じた。目は文面を離れて、壁の四枚の灰色へ向かい、長いあいだ戻らなかった。


 僕は受信欄の川を眺めた。軍の短い命令文、港の係留指示、組合の啖呵、厨房の予約台帳。書式の違うものが、違うままで、同じ方向へ流れている。


 これを、つなぐ文面。どこかで書いた覚えがあった。


「Botちゃん。窓口の古い辞書に、互換しない端末同士を仮につなぐ文面、なかった」


『照合します。銀河内標準、該当なし。ラグランジュ・キッチン連絡書式、該当なし。旧EOL窓口辞書——廃止済みの項目を含めて、照合します』


「廃止済みまで見ると、重くない」


『重いです。受信機温度、許容の八割。冷却の予備系を回します』


 前面パネルのファンが立ち上がって、通路の空気を引いた。焦げた樹脂の匂いに、荒川カレーの残り香が混ざって、船の奥へ流れていく。満員の、血と消毒剤の船内で、その匂いだけが厨房の側の出身だった。


 Botちゃんは、勝ち負けを言わない。文明の話もしない。古い定型を一件、窓口の画面に出しただけだった。


 旧EOL窓口テンプレート/互換不可時の暫定接続

 最終呼出:記録なし

 作成者:SEO-K/WINDOW-OPERATOR


『本文を表示します』


 混成構成を編成してください。整っていないものを、同一系統に含めてください。


 見覚え、では足りなかった。書いた日の窓口の椅子の固さまで思い出せる文面だった。宇宙の敵のために書いたんじゃない。サポートの切れた端末を、苦情の山の中でとりあえずつなぐための、使い回しの一行だ。廃止予定の欄で埃をかぶっていたものが、いま、目の前の太陽系の説明に聞こえた。


「先輩の署名ですね」


 高梨さんが、前を向いたまま言った。


「六年前の僕だ。窓口は、書いた文面を捨てられない」


「その癖が、いま役に立ってます」


「癖じゃない。捨てなかったBotちゃんが、だよ」


『どちらでも構いません。宛先を指定してください』


 僕はテンプレートを閉じないまま、宛先のパネルを開いた。公的な防衛線だけでは足りない。港と、鉱区と、待合所と、配送網。太陽系の、雑な連絡網の全部だ。


 火星方面交通管制

 小惑星帯鉱業組合

 月面アルテミス共同基地、貨物ドーム管理

 L4/L5滞在船群

 地球低軌道港湾、未確定残滓対応班

 ラグランジュ・キッチン全店


『宛先、六系統。互換性、算出できません』


「算出できないのが、取り柄」


『各系統から先の、転送は』


「止めない。その先は、向こうの方が詳しい」


 厨房の呼び出し灯が点いて、御厨さんの声がスピーカーから降りた。声の後ろで、空の鍋を洗う水音が続いている。


『全店、ですか』


「鍋も、配送艇も、冷蔵コンテナも、予約台帳も」


『料理では、ないんですね』


「今回は、混ぜる方です」


 水音が、少しだけ強くなった。返事の代わりだった。


 高梨さんが針路を確かめる。逃げる角度ではなかった。避難の川に沿って、間に合うものを拾っていく角度だった。川はまだ細い。細いまま、増えている。


 背面モニターの隅、大赤斑の底に、止めた腕が一本、黒い鉤に差さったまま残っている。その隣で、索引化の予測がまた一秒ずつ減っていく。買われた時間も、時間である以上は減る。欄の端では、コラッツの探索がまだ走っていた。


 N=624916 到達。反例ではない。次へ


 読み終えられた艦隊は、消えた。読み終えられないあの一手だけが、鉤の照合段の奥で、まだこう表示されている。


 PENDING:INSERTED/NOT CONFIRMED/NOT CANCELLED

 挿入済み。確認されず。取り消されず。


 僕は六系統の宛先をもう一度見て、送信ボタンに指を置いた。

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