第31話 手の届く一点
「拾いに行きます」と言ってから、まだ操縦桿を持ち替えてもいなかった。
背面の表示で、黒い鉤の根元が変わっていく。放課後号が剥がれた場所は、もう窪みではなかった。濡れた黒が広がって固まり、床になっている。固まった床から、新しい腕が二本、芽の向きで持ち上がりかけていた。
「先輩、抜けた穴、塞がりました」
「見えてる。もう潜れない」
先輩の端末の隅では、コラッツの探索がまだ走っている。
N=618308 到達。反例ではない。次へ
探索を差された一本の腕は、その欄ごと固まって動かない。
隊列図は、見ないようにしても目に入った。四十二の輪は、もう図の形をしていない。残った短い線が、更新のたびに減っていく。
クァルゼイの右手が、その表示へ伸びた。
残存群の中継欄。行き先を書き込む枠の上で、指が一文字目の形になった。
なった形のまま、動かなかった。
人差し指が畳まれた。残りの指が続いて、拳が膝に降りた。
口は結ばれたままだった。その横で、隊列図の線だけが、また一本減った。
窓口回線から、大槻さんの声が入った。
『航。鉤の周りで読みの入ってない場所は、一箇所きりだ。おまえの止めた腕の周りだ』
「放られてるだけ、ですよね」
『放られてるだけだ。解く気がない。だから通れる。縁を外すな』
止めた腕の縁。読まれない細い帯。それが、いまの木星圏に残ったただ一本の通り道だった。
通信が割れて、別の声が乗った。
『国連宇宙軍木星前哨基地より、救助可能な全船へ。……全船と言ったが、映っているのは一隻だな。放課後号、聞こえるか』
ミラー中佐だった。映像はない。声の後ろで、金属を叩く音が続いている。
『医療区画が、一区画ぶん建設されなかったことになった。区画ごと壊れたんじゃない。最初から、なかったことになってる。支えを失った人間だけが、外に浮いてる。こっちの艇は骨組みごと吸われた。回せるか』
「回します」
声が、考えるより先に出た。操縦桿は、もう倒しはじめていた。
「高梨さん。針路は止めた腕の縁から外さないでください。縁の外は、読まれます」
先輩が言った。
「縁を、走ります」
◇
黒い鉤の根元から前哨基地まで、三十六万キロ。地球から月までと同じだけ離れている。基地は木星の半径で五つぶん外の軌道にいて、噴射で追えば半日仕事の距離だ。糸の上なら、十二分で渡れる。渡れるが、こぼれた瞬間に読まれる。
道は、道の形をしていなかった。止めた腕は大赤斑の底から夜側へ長く倒れていて、その表面すれすれに、読まれない帯が糸の細さで残っている。糸の上に船腹を乗せ、こぼれる前に戻す。操縦桿には、糸を踏んでいるあいだだけ、抵抗の軽さが伝わってくる。軽い側へ、軽い側へ。手のひらで探りながら滑った。
左舷の外板は、鉤から剥がれたときの亀裂を抱えたままだ。船体が撓むたび、継ぎ目のどこかで細い音がする。
『左舷亀裂、進行なし。客席区画、与圧維持』
Botちゃんが、計器の行だけを読んでいく。
背中側で、客席の畳まれていく音がした。振り返る余裕はない。音だけで分かる。背もたれが順に倒れて、固定ネットが張られていく。
『客席を救護配置に変更します。ネット、二十床ぶん。保温什器は停止中のため、収容棚に転用します』
ラグランジュ・キッチンの船だ。人を座らせて温かいものを出すための艤装が、そのまま、人を寝かせて縛るための艤装になる。厨房は非常系の薄い明かりの中で、鍋が留め具ごと冷えていた。操縦席の脇には、輪ゴムで留めた私の紙カップがある。中身がいつのお茶だったか、もう思い出せない。その隣、補助席の折りたたみテーブルには、最初の日の緑茶が、紙コップごと留められたままだ。
受信機は開けたままにしてあった。木星圏の声が、混みあったまま流れ込んでくる。
『ガニメデ仮設港、収容飽和。桟橋外周に係留列を追加。整理番号八百番台、そのまま待て』
地球の声もあった。四十分あまり前の地球の声だ。いま返事をしても、届くのは四十分先になる。太陽系は広くて、広さのぶんだけ、声が古い。
航跡図の内側では、避難船の光点が細い列を作りかけていた。番号のある船と、ない船が、同じ列に並んでいる。
クァルゼイは補助席で、その航跡図ではなく、線の減っていく隊列図を見ていた。拳は膝の上から動いていない。
十二分は、長かった。
前哨基地は、最初、夜側の一点だった。
点が伸びて、線になる。線に瘤が並んで、瘤が区画の形になる。全長九百メートルの背骨に、居住殻と倉庫殻が数珠で通してあり、放熱板が背骨から鰭のように立っていた。木星の照り返しで、板の片面だけが鈍い赤に光っている。
その数珠の並びに、歯抜けがあった。
欠けた場所は、壊れた場所とは違って見えた。破断面がない。背骨の外皮は素通りに続き、配管は分岐の根さえ持たずに走り抜けている。区画標識は、第八のつぎが第十だった。第九医療区画は、失われたのではなかった。建てられなかったことに、なっていた。
その、あったはずの場所の外に、光が散っていた。
ヘルメット灯だった。数えて、十二。背骨の手すりに掴まっている灯と、ゆっくり離れていく灯がある。離れていく方は、回りながら遠ざかる。
灯の一つが、こちらへ手を振っているのが分かる距離まで来た。
「基地、姿勢制御が死んでます。ゆっくり回ってる」
先輩の声だった。読み上げより先に、回転の周期が航法の枠で私の正面に来る。
「合わせられますか」
「合わせます」
残距離八百メートルから、基地の回転に船の回転を重ねた。二百メートル。相対速度を殺しながら、離れていく灯の流される側へ回り込む。四十メートルで停止保持に入れた。
係留アンカーを二本、撃った。索が船から繰り出されて、真空の中で長い波をつくる。波が伸びきる前にアンカーが手すりの基部を噛み、索が張って、張った衝撃が船体ごと座席の私まで戻ってきた。
『係留二点、保持。張力、許容内』
「行きます」
操縦を係留保持へ渡して、肩ベルトを外した。立ち上がると、ふくらはぎが遅れてついてきた。操縦の十二分が、脚に残っている。
船外服は、緊急用の予備しかなかった。胴は合うのに、肩が余る。手袋は指の先が半分空く。腰の環——軌道エレベータと同じ寸法の環だけが、誰の腰でも同じに締まった。
『エアロック、使用者一名。減圧手順を開始できます』
「開始」
◇
減圧には四分かかった。四分のあいだに、音が一枚ずつ剥がれていった。ファンの音が消え、最後に残ったのは自分の呼吸と、服の関節が擦れる音だけになった。音が、外からではなく、体の内側からしか来なくなる。
外扉のロックに手をかける前に、係留索を腰の環へ通した。金具が、余った手袋の指先で二度滑った。
「先輩、この金具、向きどっちですか」
「凸が上。爪が外」
噛んだ。引いて確かめる。抜けない。
「出ます」
「索の巻き量、六十メートル。それより先は、僕が繰り足します」
外扉が開いた。
風はなかった。開いたのに、何も起きない。それが真空だった。
手すりを掴んで、体を外に出す。
木星が、いた。
腕を伸ばした拳二つ分の幅で、空に居座っている。縞の白と赤褐色が夜側へ回り込んで断ち切られ、断ち切られた先は星の詰まった黒だ。太陽は反対の空で小さかった。小さいくせに、影だけは本気で作る。空気に薄められない影が、手すりの裏側を切り口のように黒くしていた。日向の手すりは手袋越しにぬるく、陰に入ると、指の芯から冷えた。
下、という感覚が来た。木星のある側が下。頭が勝手にそう決めて、決めたとたん、九百メートルの背骨が崖の縁になった。
最初の一人は、九メートル先を回りながら流れていた。
手すりを蹴って、体を投げる。背中で索が繰り出されていく。伸びる索は真っ直ぐではなく、蛇のようにうねりながら追いかけてくる。
胸のハンドルを掴んだ。掴んだ瞬間、相手の回転がこちらの体に乗り移って、二人まとめて振り回された。重さはなくても、質量は減らない。人ひとりは、宇宙でも軽くなかった。
「腕で止めない。索に体を預けて、回ってください」
先輩の声が来る。
索が張った。張力は手ではなく、腰の環から背中へ、遅れて全身に来る。私は索を軸にして、相手ごと回った。回りきったところで、二人ぶんの行きたがる向きが、船の側を向く。
抱く。渡す。
「一人」
『エアロック、受け入れ』
引き込まれていく相手のヘルメットの中で、口が動いていた。声は繋がっていない。ありがとう、の形にも、誰かの名前の形にも見えた。
二人目は、私の手首を掴んで離さなかった。余った手袋の指先ごと捩れて、それでも骨まで届く力だった。離さなくていいです、と口の形だけで返して、また索を軸に回る。抱く。渡す。
三人目からは、渡した側が働きはじめた。
最初に入った兵士が、ヘルメットも外さないまま、エアロックの内側で足場になった。次に入った整備員は、工具ケースを胸に縛りつけたまま、片腕で担架の金具を起こした。膝をぶつけて、ぶつけた姿勢のまま作業を続けている。
浮いていた通信士は、引かれていく途中で、隣を流れる同僚の袖を掴んだ。一本の索に、二人が実った。重い。重いが、二人だ。
『エアロック、受け入れ。収容、六名』
救難の周波数は、ずっと混みあっていた。生き残りの応答が、部隊ごとに書式の違うまま重なって、誰の声がどこから出ているのか、聞き分けられない。呼びかけた名前が、別の声に押されて、戻ってこない。
クァルゼイの声が、船内から静かに入った。
「身元照合の欄だけ、揃えます。ほかには触れません」
『身元照合欄、整列。完了』
重なっていた声が、一人ずつに割れた。呼びかけに、呼びかけた相手が返ってくるようになった。
その中に、女の声があった。私は呼びかけた。
「そちら、位置を出せますか」
『名簿が、私を出してくれません』
救助する側の声か、浮いている側の声か、識別欄は空のままだった。
「名簿はいいです。名前を言ってください。私が呼びます」
『……ア』
音が、そこで潰れた。
「もう一度」
——未登録の応答を、削除しました。
索を握っていた指が、止まった。
救難の周波数に、外宇宙OSの声が混ざっていた。木星を折っているものが、人間の救助回線で喋っていた。
揃えられた欄の中に、名簿にない声がひとつ、並んでいた。正規の行に載った応答は、読まれる。それだけの順番が、手袋の中の汗より速く、頭を通り抜けた。
『身元照合欄、整列を解除しました』
Botちゃんが読み上げた。クァルゼイの声は、続かなかった。
「高梨さん。次、右十メートル」
先輩の声で、指が動いた。次のハンドルを掴む。止まっていたあいだに流された相手を、腰で引き戻す。
「名前、聞く前でした」
誰も、何も言わなかった。回線は繋がったままで、誰も何も言わないことだけが、返事だった。
「次」
◇
酸素の残量計が、三分の二を切った。索の届く範囲に、もう灯はなかった。
最後の一人が、遠かった。六十メートルを全部出して、まだ十メートル足りない。灯はゆっくり遠ざかっていて、待てば、足りない分は増える一方だった。
「先輩、届きません。船を回せば——」
「船は係留中。中は、固定の途中です」
言い返せない答えの背中で、金具の外れる音がした。
音は通信ではなく、船体を伝って腰の環から来た。
『エアロック、内扉閉鎖。非常排気、実行。使用者の減圧手順が、省略されています』
振り向くと、外扉が開いていて、その枠に、クァルゼイが立っていた。
補助席に現れた日から、彼は一度も自分の足で立たなかった。その足が、いま、扉の枠を踏んでいる。
「服は」
「要りません」
素の顔が、真空の中にあった。私のヘルメットは、吐く息でバイザーの端が曇る。彼の顔には、曇らせるための息がなかった。
排気の名残が、彼の体の周りで細かい氷になって散った。氷の一部が、肘と膝の合わせ目に白く残る。
彼は外板を歩いた。磁着ブーツではない。踏んでいる側の靴底は、外板と一枚の板みたいに動かない。浮かせた側の足が、次を踏む。剥がれる衝撃は、手すり越しに一度も伝わってこなかった。歩幅だけが人間のままで、索の繰り出しドラムまで来た。
素手で予備索を引き出し、輪に束ねた。束ねた輪を、遠ざかる灯へ投げる。
投げられた輪は、ほどけながら、うねりもせずに伸びた。私の索は蛇行したのに、彼の索は最初から着く場所を知っているように真っ直ぐだった。いや——見ていて分かった。ほどける一巻きごとに、指で回転を消してから放している。それだけのことを、それだけの速さでやっている。
索の先が灯に届いた。灯が、掴んだ。
「引きます」
私が手前を引き、彼が根元を素手で受けて、張力の跳ねを殺した。跳ねは彼の腕の中で消えて、索は一定の速さで戻ってきた。
引かれてきた人のバイザー越しに、目が見えた。クァルゼイはその目を見た。見たまま、最後まで手を止めなかった。
エアロックへ渡す。索を足して届いた、最後の一人だった。
『エアロック、受け入れ。収容、八名』
戻ろうとして、彼がまだ外板に立っているのに気づいた。
作業は終わっている。それなのに、顔だけが作業と別の方を向いていた。木星の夜側。隊列図の線が減っていく、その実物のある方角だった。
『クァルゼイ端末、送信文を作成中。宛先、残存群』
Botちゃんが、頼まれない注記を読んだ。
『下書き、四件。送信は、行われていません』
彼の口が動いた。音のない口が、名前の形になった。最初の音の手前で、唇が閉じた。
名前を、呼ぶな。手続きに、拾われる。——彼の軍の声を、私も覚えていた。
「クァルゼイさん」
「作業を、続けます」
声は計器のように平らだった。外板を踏んで戻る足も、平らだった。合わせ目の霜だけが、出てきたときより厚くなっていた。
◇
船内に戻って、内扉が閉じて、音が体の外から戻ってきた。ヘルメットを外すと、汗が耳の裏を伝って落ちた。手袋を脱ぐ。右手の親指の爪が、端から割れていた。いつ割れたのか、覚えがない。
息を整える時間は、なかった。
『ガニメデ仮設港より、全船。医療棟の支えが消えた。天幕ごと浮いて、中に十四名。繰り返す、十四名』
『エウロパ、透明通路の区画六。支柱が、なくなっています。通路が折れて、中に人が——応答、切れ切れです』
前哨基地の縁にも、索の届かなかった灯が、まだ四つ残っている。
呼ばれている場所は、三つあった。放課後号は、一隻しかない。
『放課後号、ミラーだ。縁の四名はこちらで拾う。第十区画を切り離して、自走させる。だが、ガニメデとエウロパには、うちの何も届かん』
公開の誘導回線の底では、御厨さんの声が流れ続けていた。
『数えません、積めるだけ。動ける人は、隣の人を運んでください。列は、止めないでください』
操縦席に座り直して、濡れた手で操縦桿を握った。どこへ倒しても、どこかが間に合わない角度だった。
クァルゼイは、補助席に座らなかった。立ったまま、私の斜め後ろにいた。合わせ目の霜は、船内の温度でも溶けずに残っている。膝の高さの物入れには、潰れた紙カップが挟まったままだった。
「名前、聞く前でした」
彼が言った。さっき私が外で言った言葉を、そのまま持っていた。
「私は、聞いたあとでした」
通信の遅れとは別の遠さが、声にあった。四十分の地球より、まだ遠い場所から届く声だった。
『ガニメデの医療天幕、係留から外れて四キロ。内圧、保持。中の十四名、応答あり』
Botちゃんが、距離の増えていく欄を読んだ。
「届かない点は、いくつ残っていますか」
「ガニメデに十四。透明通路は、まだ数えられていません」
「数えます。——いえ。数えずに、行かせます」
何を、と聞き返す間はなかった。クァルゼイは入力欄に触れず、両手を下げたまま、続けた。
「開示は、登録です。登録されれば、読まれます。それでも、私の側にも、まだ手の届く一点があります」
最初の音は、知っている名前だった。クァル=ゼイ・ノル=オルクト。
名前は、そこで終わらなかった。
続きがあった。翻訳が止まり、Botちゃんの辞書が沈黙して、意味の代わりに長さだけが渡ってくる音列が、船内の空気を低く揺らし続けた。この長さを全部言い終えないと開かない鍵として、その名前は作られていた。
長い名前だった。
音列が、終わった。
しばらく、何も起きなかった。
沈黙を破ったのは、Botちゃんだった。
『掩蔽観測の照合に差分。ガニメデ航路の外、既知の岩の列に、カタログに行のない岩が一つ』
岩が、返事をした。
「先輩」
「拡大してる」
望遠の枠に、暗い岩が入った。表面に細い光の筋が走る。筋が裂け目になり、裂け目の奥から、火の色が漏れた。
殻が、外へ割れて散った。
中から滑り出たのは、白い楔だった。平らな面と稜線だけでできていて、窓が一枚もない。船首から船尾まで、誰かに見せるための場所を持たない形だった。
その船尾で、火が点いた。
この戦場で、火を見せて進む船を、私は初めて見た。派遣軍の四千二百は、座標に返されて動いた。黒い腕は、動きさえしなかった。放課後号は隙間を滑る。あの白い楔だけが、燃やした分だけ進むという、いちばん旧い正直さで加速していた。
ガニメデへ。十四人が浮いている方角へ、まっすぐ。
「クァルゼイさん」
先輩の声が低かった。
「あの中に、あなたの——本体が」
「いました」
立っているクァルゼイは、望遠の枠を見たまま答えた。
「ずっと」
隣に立っているこの人は、端末だ。人間という仕様書を読んで作られた、対話用の窓口。生身は——息をして、いつか終わる方の体は、ずっと、あの岩の殻の中にあった。
カタログに行がない、の意味が、遅れて胸に落ちた。整えることを仕事にして生きてきた人が、自分の命ひとつだけは、載せていなかった。
表示が動いた。
UNKNOWN HULL: REGISTERED.
UNKNOWN DRIVE: REGISTERED.
表示の英語に、外宇宙OSの声が重なった。
——未登録の航行体を、受領しました。
操縦桿の上で、指が白くなった。
白い楔の船首の面が、一枚、消えた。
消えた面の向こうに、星が透けた。次の面が消える。楔は骨組みを晒しながら、まだ加速していた。読まれる速さと、進む速さの競争だった。
腹の面が開いて、暗い箱が四つ、散った。
回収艇一〜三:ガニメデ、十四名。定員四、過積載許可
回収艇四:エウロパ透明通路、区画六
『回収艇、切り離しの速度のまま滑空。ガニメデまで十八分。エウロパまで、四十分』
箱には、灯りがなかった。
NO IDENT. NO HANDSHAKE. NO MANIFEST.
識別子なし。交信手順なし。積荷目録なし。
答える仕組みを持たない箱を、読む側のログは一行も追わなかった。
十八分は、長かった。行きの十二分より、ずっと。
『ガニメデ港湾網、接近体を照会。回収艇、応答なし』
CARGO: PENDING.
航跡図の上で、港の網が捕捉線を開いた。
医療天幕の救難周波数は、開いたままになっていた。
『何かが、接舷した。繰り返す、何かが接舷した』
天幕の中の、医師の声だった。
『艇型不明、応答なし。……ハッチが開いた。中は空だ。座席と、固定ベルトだけがある』
『乗せろ! 考えるのはあとだ!』
『五人……六人! 過積載表示は無視、詰めろ!』
誰も操縦していない艇が、人で埋まって、扉を閉じた。
『切り離された。港へ向かってる。……勝手に、まっすぐ』
『これ、どこの艇だ』
答える声は、なかった。
白い楔は、もう楔ではなかった。骨組みが一本と、その先に抱えられた槽がひとつ。
保管槽:射出のみ。自力誘導なし。港湾網の捕捉に委ねる
最後に残っていた火が、短く噴いた。裸の槽が押し出され、骨組みは、押し出した反動の中で読み終えられて、消えた。
槽は回転しながら流れていった。誘導はない。港の網へ落ちる軌道だけがあった。中身は、彼の生身だ。
『保管槽、ガニメデ仮設港の網が受け止めました。積荷、応答なし』
CARGO: PENDING.
未確定のまま、受け止められた。
クァルゼイは、表示が流れ終わるまで立っていた。霜の残った手が、補助席の背もたれを掴んでいる。背もたれの縁が、指の形に浅くへこんでいた。
「クァルゼイさん、座ってください。帰りも、揺れます」
彼は座った。掴んでいた背もたれに、今度は体を預けた。
◇
縁の四つの灯が第十区画に拾われていくのを航跡図で見届けた頃、正面の通信にミラー中佐の映像が立った。額の止血材が、乾いた血の色に変わっていた。
『放課後号。縁の四名、拾い切った。数は、合っている』
操縦桿を握る手から、力がすこし抜けた。四つの灯は、灯のまま回収された。
『それでだ。木星前線は保持不能だ。全艦、後退する。集まるのは火星の内縁だ。来た順に入れる』
「基地は」
『基地は置いていく。人間は置いていかない。それとな、第十区画は人で満ちた。医療の手は、あっちにない。重い者から、そっちへ回す』
映像が切れた。次にエアロックが回ったとき、ミラー中佐は司令卓ではなく、担架の足側を持って入ってきた。空いた固定ネットを目で数え、担架を納め、それから操縦席の方を見た。
「世話になる」
それだけだった。
『係留二点、解放。索、巻き取り完了』
「離れます」
放課後号は、第九区画のなかった場所の前を、ゆっくり離れた。
帰り道も、行きと同じ糸の上だった。
「右、狭くなってます」
「操縦桿に出てます。抵抗の軽い側です」
腕の黒い面が右舷の下を流れて、抜けた。操縦桿の抵抗が消え、船体を撫でていた読取の膜が、後ろへ流れていった。
「針路、エウロパ回りで火星の内縁へ。回収艇四は、うちの船腹で拾います」
「了解」
補助席の折りたたみテーブルに、紙コップが一つ、留められたまま残っていた。冷めた緑茶。クァルゼイが最初に来た日に出て、一口だけ減って、それきり誰も片付けなかったものだ。
「淹れ直しますか」
私は聞いた。
クァルゼイは、冷めた茶を見た。
「いま飲み終えると、終わったものになる気がします」
「じゃあ、保留で」
先輩が、端末から目を上げずに言った。
背面モニターに、木星が残っていた。大赤斑の底で、黒い胴はまだ腕を増やしている。その根元に一本だけ、固まったまま動かない腕がある。欄の隅では、コラッツの探索がまだ走っている。そこだけが、まだ読まれていない。
勝っていない。
拾えた分だけを積んで、船は内側の光へ滑っていく。
開けたままの受信機には、まだ木星圏の声が詰まっていた。ガニメデの整理番号、四十分あまり前の地球、誰かが誰かを呼び続ける声。
その全部が、同時に消えた。
混線が晴れたのではない。声という声の上に、厚いノイズが一枚、かぶさった。その底から、外宇宙OSの声が来た。
——太陽系を、受領予定に登録しました。




