第30話 鉤は増える
クァルゼイの要請は、放課後号の細いアンテナから派遣軍へ出ていた。
『了解。即応する』
返事は短かった。救援というより、点呼に近かった。
僕の左の補助席で、クァルゼイは茶の紙カップを両手で包んでいた。僕の膝にも同じ紙カップがある。高梨さんの分は、操縦席の脇に輪ゴムで留められていた。
「救援って、どこから来るんですか」
「近傍待機域からだ」
「太陽系の内側じゃないんですね」
「君たちの距離ではない」
紙カップの縁が、彼の指で少しへこんだ。
「呼んだのは私だ。だが、来るかどうか、来て何をするかは、彼らが決める」
高梨さんは操縦席で前を向いたまま、操縦桿を押さえ直した。
「来るまで、こっちが生きていればいいんですね」
「来たあとも、生きていなければならない」
放課後号は止まっていなかった。黒い鉤は大赤斑の底に刺さったまま、木星の縞を内側から折っている。真っ直ぐ行けば、鉤の濡れた面に船体名を拾われる。
高梨さんは船首を外し、戻しきる前にまた外した。僕はラグ場の出力を細くして、鉤の面へ寄せられる分だけ削った。
『右舷デバイス群、温度上昇。客席照明、出力低下』
「冷却は余ってるところへ。照明は落として」
『食器保温ユニットを停止。客席照明を停止。操縦席計器、維持』
「ごめん、御厨さん」
返事のない相手へ謝って、高梨さんはまた船を傾けた。
時間は、船体の傷でしか数えられなかった。隔壁の継ぎ目に白い粉が噴き、計器盤の角が裂ける。僕は左手で端末を押さえ、右手でサポート窓口の回線を開いた。
大槻さんの顔が、ノイズの向こうに出た。
『航、まだ生きてるな』
「今のところ。こっちは黒い鉤へ接近中」
『見えるものだけ送れ。推測はこっちで捨てる』
「了解」
大槻さんの後ろには、退職したはずの顔まで混じっていた。久住さんが古い仕様書をめくり、香坂さんがログの行を拡大している。誰も椅子に深く座っていなかった。
クァルゼイは外を見ていた。来るものを、待つ顔だった。
「来る」
◇
最初に変わったのは、木星の夜側だった。
暗い縁に、黒点がひとつ置かれた。背後の星が欠けたのに、星食の輪郭光が出ない。星を隠す黒ではなく、星の手前に来た別の暗さだった。
黒点は増えた。画面更新のたびに、横へ、奥へ、木星の丸みに沿って増えた。やがて夜側の肩に、細い艦影が何層も並んだ。
『航跡なし。噴射光なし。推進方式、照合不能』
Botちゃんは、計器に出た事実だけを読んだ。
『前方、多数の艦影。輪郭は数えきれません』
画面の右上から左下まで艦影が走り、その奥にもまだ艦影があった。木星の雲は背景ではなかった。艦隊の厚みを測る、巨大な目盛りになっていた。
音がなかった。これだけの数が現れたのに、警報も、推進音も、噴射の閃きもない。木星の夜が、ただ静かに固くなる。
先頭群は細かった。槍というより、刃を持たない針だった。船体の前面に光る窓はない。ただ一枚、黒く濡れた面がある。そこへ木星の白い帯が映ると、反射せずに沈んだ。
「飛んでこない」操縦桿を握ったまま、高梨さんの声が硬くなった。「ラグ場じゃないですよ、これ。どうやって来てるんですか」
「ラグ場は隙間を滑る。あれは、動いてすらいない。座標に、返されてる」
「返されてる、って」
「僕がされたのと、同じだ」
クァルゼイの肩から、入っていた力が少し抜けた。
「四十二の群が来た。一群に百隻。木星の弧に沿って、内側から外へ層を成す」
彼は配置を、自分の目でなぞった。呼んだのは彼だ。
「頼れる数ですね」
「頼るには、遠すぎる数だ」
派遣軍の回線が開いた。
『第一対応群、到着。対象、黒い鉤。小型船一隻を確認』
乾いた声だった。命令を待つ声ではない。到着した者が、現場を読んでいる声だった。
「小型船は放課後号。根元へ入る」
『把握。第一対応群、前面で対鉤遮蔽を隊判断で開始する』
「頼む」
『受領』
そこで通信は切れた。短さの底に、死ぬ場所まで測った職業の手触りがあった。
高梨さんが、口の端だけを動かした。
「隠れるには、派手すぎるカーテンですね」
◇
木星圏の避難網から、公開映像が流れ込んだ。
ガニメデ軌道の連絡艇で、窓際の子どもが上を指した。補給ステーションの透明通路では、負傷者を担いだ作業員が足を止めた。エウロパ行きの仮設桟橋では、誘導員が番号札を握ったまま空を見た。
空が、艦で埋まっていた。
地球でも火星でも、小惑星帯の軍でもない。形が違う。並び方が違う。船体の黒が、こちらの夜と混ざらない。
列の速度が落ちた。泣いていた子が黙った。誰かが端末を掲げて家族へ送ろうとして、避難誘導員に肩を押された。
桟橋の誘導員が、番号札から目を戻した。空を見ている場合ではない、と自分に言い聞かせる顔だった。彼は隣の列の老人の肘を取り、次の連絡艇へ押し込んだ。
さっきまで担架で運ばれてきた女が、起き上がって子どもの手を引いた。運ばれた側が、運ぶ側に回っていた。
その画面の下を、点が一つ進んでいた。放課後号だった。黒い鉤へ向かうには小さすぎて、映像の傷に見えた。
連絡通路の端で、給水袋を抱えた男が目を細めた。
「……あれ、ラグランジュ・キッチンの船じゃないか」
隣の女は聞き返さなかった。上の艦隊が大きすぎた。男も、次の避難指示で前へ押された。
公開映像の音声に、子どもの声だけが拾われた。
「空が、艦で埋まってる」
◇
前哨基地の回線も、僕の端末の隅に入った。
国連宇宙軍木星前哨基地では、割れた天井パネルをテープで留めていた。ミラー中佐は司令卓の脇に立っている。座る椅子は、担架の台に回されたらしい。額の傷は止血材で塞がれていた。
「艦隊識別」
「地球圏登録に一致しません。火星連合艦でも、小惑星帯の民間武装船とも一致しません」
「救難ビーコンへの応答は」
「ありません」
「敵か」
「敵でない証拠は、まだありません」
司令区画の空気が締まったのが、圧縮映像でも見えた。外部画面の艦隊は味方の色ではない。古い合図も出していない。
だが、黒い鉤へ艦首を向けている。
「識別不能のまま、味方と呼ぶ。黒い鉤を撃つなら、今はあれだ」
「謎の艦隊と、ですか」
「負傷者の搬出を続けろ。あの艦隊を眺めるために助かったわけじゃない」
通信士が復唱しかけて、画面の隅で手を止めた。
「中佐。黒い鉤の根元に、小さな反応が一つ。味方の登録にありません」
ミラー中佐は画面へ寄った。粒の荒れた雲とノイズの中で、その点は消えそうで消えず、鉤へ近づいていく。
「両方だ。見失うな。あの艦隊も、あの小さい一隻も」
◇
第一射は、発射光を持たなかった。
四十二群の濡れた面が、いっせいに薄く傾いた。爆音もなく、閃光もない。木星の夜側に並んだ針の壁が、ただ角度を変えた。
計器に出たのは、欠落だった。鉤の根元から放課後号へ届いていた光のショットノイズが、一筋だけ、ふっと来なかった。
『鉤の根元、受信欄に空白。継続、〇・一秒未満。再取得中』
木星の縞が、その一筋だけ波打った。白い帯と赤い帯の境目に長い皺が走り、皺は黒い鉤の根元へ届いて、そこで止まった。
黒い鉤が曲がった。見間違いではなかった。大赤斑の雲が、その周囲だけ遅れて流れる。
鉤の先で捕まっていた岩片がほどけ、回転を失って嵐へ散った。
四千二百隻が沈黙のまま、根元のひとところを撃ち抜いた。
黒い鉤の根元で、古いOSの受信欄が表示を吐いた。鉤がいま何をしていたかが、欠けたまま行になって落ちてくる。
MOUNT_TARGET_BIND
TARGET_NAME: REGISTERED
STEP: CONSISTENCY_CHECK
EVAL: REQUIRED
照合段。値を評価しなければ、次へ進めない。
僕は表示を大槻さんへ送った。対象名は、もう鉤に拾われている。止まっているのは、その先――値を評価して照合を終える段だった。
『MOUNT_TARGET_BIND、見えてる。撃たれて、照合段で固まったな』
「どう止め続ける」
『こっちに止める手は無い。鉤の段を読んで送る。隙があれば、そっちで打て』
派遣軍の回線が、短く鳴った。
『第一射、照合段で停滞。対象反応あり』
クァルゼイは唇を結んだ。うなずいただけで、命じなかった。
木星圏の避難列に、それは伝わった。ガニメデの仮設港で、赤い閉鎖表示が一つ消えた。御厨さんの店の管制画面では、救助待ちの列が一本だけ緑へ戻った。
御厨さんの声が、避難管制の公開誘導回線に乗って届いた。大槻さんの卓が中継していた。
『通れる列から流せ。温かいカレーは後だ。先に人だ』
放課後号の中でも、船体を叩く衝撃が細くなった。
「先輩、止まってます。今のうちです」
「止まってる。一射目は」
船が跳ねた。僕は端末の縁を握り直し、手のひらの汗で指が滑った。
『触れる距離まで寄れ』
◇
第二射が出た。今度も発射光はなかった。
けれど、黒い鉤は撓まなかった。根元へ届く前に、鉤の縁に小さなにじみが浮いた。
古いOSの受信欄が表示を変えた。
UNKNOWN ATTACK PATTERN DETECTED.
REGISTRATION COMPLETE.
未知攻撃規格を検出。登録、完了。
「二射目、登録された」
「何がです」
「攻撃の形」
クァルゼイの指が止まった。救援を見たときの緩みが、顔から消えた。
「一射目で効いた。二射目は同じ角度で、同じ間でなぞった。なぞれる形を、向こうは写し取った」
第三射では、ショットノイズの一筋はもう途切れなかった。届くものが、欠けない。攻撃は鉤の縁のにじみに受けられ、通った跡だけが前方へ流れた。
外宇宙OSが回線を占有した。
——攻撃規格を受領しました。
——防御逃がし先を統合しました。
第一対応群の外縁艦が一隻、薄くなった。爆発ではない。船体の横で散らしていた面が先に吸われ、本体の輪郭が細い線へ押し畳まれた。畳まれた瞬間に、艦の登録が受信欄から横棒になって落ちた。
『派遣軍回線、外縁艦の応答消失を受信』
Botちゃんは受信した事実だけを告げた。
派遣軍から次の報告が入った。
『外縁一隻喪失。遮蔽維持。小型船前面、わずかに確保』
高梨さんが船をさらに下げた。船首と黒い鉤のあいだが、もう手のひら一枚もなかった。
「こっちは、まだ鼻先です」
「足りさせる」
◇
大槻さんの声が割れた。
『航、黒い鉤が右へ三度振れる。その戻りで触れ』
「見えてる」
肉眼では見えない。端末の受信欄が瞬き、黒い鉤の根元に薄い窪みを出した。左には拾われた船体名、中央は空欄、右は閉じた黒。中央だけが、まだ外から触れた。
『鉤の根元、照合段。評価待ち』
Botちゃんは、それ以上を言わなかった。ここは読みに行くだけの場所ではない。渡したものを、その場で走らせる場所だ。
「ここなら、こっちの計算を噛ませられる。終わりの来ない計算を」
『航、それ、止まらん計算を踏ませる気か』
久住さんだった。紙をめくる手が、止まっている。
『……正気か。いや、やれ』大槻さんの声が、低くなった。
ハイルストーン。偶数なら半分、奇数なら三倍して一を足す。1へ落ちないNを探せ、とだけ渡せば、鉤は答えのない列を噛む。
「高梨さん、中央へ。船首アンテナを当てます」
船首が嵐の壁へ向かって落ちる。落ちる速さを、高梨さんは腕の力で殺した。両肘が操縦席の縁に沈み、白くなった指が操縦桿をねじる。
放課後号の鼻先が、黒い鉤の根元へ差し込まれた。僕はラグ場を細く絞る。指で濡れた膜を握り潰すように、拾われる厚みだけを削った。
『船首アンテナ、接触。信号弱い。客席予備電源を切断、船首アンテナへ配分』
照明が落ちた。端末の文字だけが、指の汗に映る。僕は「見つけたら停止」の手前で指を止め、中央の窪みへ規則と探索を押し込んだ。
規則:偶数はN/2、奇数は3N+1、1で停止
課題:1へ落ちないNを探索。見つけたら停止
窓口で何度も見た揃わない申請のように、ここでも、ひっかかってくれればいい。
数字が走った。
N=27 27 → 82 → 41 → 124 → … → 9232 → … → 1 到達。反例ではない。次へ
N=28、29、30 … いずれも到達。反例ではない。次へ
EST_HALT: UNKNOWN
1へ着くたび、「次へ」が出た。落ちない数が来ないかぎり、それは尽きない。僕の指は、そこから離れない。黒い鉤は、その先へ進めない。
黒い鉤の根元で、岩片を巻き込む速さが鈍った。折られていた白い縞が、次の更新で遅れて折れた。
『鉤、照合段で停滞。対象反応あり』
「止まってます」
高梨さんの声は低かった。端末の中で、探索のNが一つずつ繰り上がる。黒い鉤は、その欄から先へ進まない。
勝った、と僕は思った。
◇
顔を上げた。
大赤斑の底で、黒い鉤の根が膨らんでいた。
さっき、四千二百隻は木星の夜側に黒点として現れた。今度のは、艦ではない。膨らんだ一つの根から、同じ濡れた黒の腕が、放射状に伸びていく。背景の星を隠しても、輪郭光は出ない。
『鉤の根、肥大。放射状に分岐。腕、複数』
腕の先がそれぞれ針になり、針が曲がって、鉤になる。一つの胴から生えた、何本もの、同じ鉤。
僕の差した探索は、いまも止まらない。止めた腕は、根元で固まったまま動かない。だが胴は、その一本に構わなかった。
STALLED_ARMS: 1
ACTIVE_ARMS: 4 → 8 → 16 → 32
外宇宙OSは、僕の欄に触れなかった。解こうともしなかった。止まった一本は、止まったまま放っておかれた。
残りの腕が、めいめいの方向へ降りていく。木星の縞を方々で破り、一つの胴から、四千二百隻のあちこちの層へ、同時に手を伸ばす。止めた一本は、もうどこも傷つけていない。そして、どこも助けていない。
四千二百と、僕の一手で、止めたのは腕一本きり。胴は、腕を倍、また倍に増やしていく。
腕の一本が、艦隊の隙間から放課後号へ、先を向けた。
『小型船前面、遮蔽残り四十秒』
外で、整った斉射がまた読まれた。第一対応群の遮蔽が、崩れていく。
「ノル=アクタ、下がれ」
『……名前を、呼ぶな。手続きに、拾われる』
黒い鉤のひとつが、指揮艦の散らしていた面を巻き込んだ。艦首の線が細くなり、木星の雲へ引かれる。
『第一対応群指揮艦、信号消失』
クァルゼイの手の中で、空の紙カップが鳴って潰れた。茶の匂いが薄く立って、それだけだった。
艦名ではなく、個体の名だった。クァルゼイは、それを呼んでしまった。
彼は潰れた紙カップを膝の脇へ押し込み、通信表示へ顔を戻した。
派遣軍の配置図から、群の形が消えた。四十二の輪がほどけ、黒点の下で短い線になり、次の更新で空欄になる。
『派遣軍、損耗線を越過。遮蔽維持、不能』
クァルゼイは命じなかった。表示を見て、線を越えた事実だけを飲み込んだ。
「放課後号は離脱する」
『残存群、退避に移る。代表、記録を持ち帰れ』
高梨さんが操縦桿を引いた。倒す、というより、腕ごと船体から剥がす動きだった。肩ベルトが胸に食い込み、操縦席のフレームが短く鳴る。
船首アンテナは黒い根元に粘った。放課後号の船殻が軋み、薄い悲鳴のように伸びる。
高梨さんは奥歯を噛み、さらに引いた。船首が抜け、アンテナの先が黒い面から糸を引くように剥がれる。端末の端では、さっきの探索だけが、まだ走っていた。
四千二百が、増殖する腕の下で、木星の夜へ散っていった。
◇
船体が後ろへ跳ねた。黒い腕の先が、剥がれたばかりの空を撫でる。遅れたのは、指一本ぶんだった。端末から指が離れて、割れた爪の血が、遅れて宙へほどけた。剥がれて初めて、爪が割れていたと知った。
『船首アンテナ、外部接触喪失。左舷外板、亀裂拡大。推進、ラグ場で維持』
高梨さんは、鉤から逃げる角度へ船を倒した。視線は計器から外れない。震えているのは、操縦桿ではなく船体だった。
端末の優先表示が、避難網へ戻った。御厨さんの声が、公開誘導回線に乗る。
『先に人だ。カレーはあとだ。動ける人は、隣の人を運べ』
ガニメデの仮設港で、止まっていた列がまた流れた。鉤が止まっていた数秒で、列が一つぶん進んでいた。
計算は負けた。残るのは、誰を運べるかだった。
大赤斑の胴は、まだ腕を増やしている。だが、救助待ちの赤い点も、まだ木星の縁に残っていた。
「拾いに行きます」




