第29話 美しくされることへの吐き気
木星の大赤斑は、巨大な目に見える。
昔からそう言われてきた。望遠鏡をのぞいた子どもも、探査機の写真を見た研究者も、木星を背景に飛ぶパイロットも、一度はそう思った。
でも、そのとき大赤斑に浮かんでいた黒い鉤は、目ではなかった。まぶたでもない。
丸い赤の渦から、木星の縁の外まで伸びる、光を返さないまっすぐな黒。
それは、読み込み位置だった。
外宇宙OSが、この宇宙を、ここから開こうとしている。
端末が、冷静すぎる声で告げた。
FOREIGN OS MOUNT SEQUENCE DETECTED.
外部OSマウントシーケンスを検出しました。
MOUNT POINT: JOVIAN GREAT RED SPOT
マウントポイント:木星大赤斑
TARGET SCOPE 1: JOVIAN SYSTEM
対象範囲一:木星圏
TARGET SCOPE 2: SOLAR SYSTEM
対象範囲二:太陽系
TARGET SCOPE 3: ALL-GALAXY HISTORY BUNDLE
対象範囲三:全銀河履歴束
高梨さんが、ひどく静かな声で言った。
「段階が雑です。宇宙規模の雑さですね」
「笑えません」
「笑ってないです」
「ちょっと笑ってました」
「顔がないのにバレるの、理不尽だな」
クァルゼイは、黒い鉤を見つめていた。その顔には、怒りでも恐怖でもないものが浮かんでいた。屈辱に近い。
「これは攻撃ではありません」
「この状況で?」
「向こうの分類では、攻撃ではない。最適化です」
その言葉が、船内に落ちた。
最適化。
基地が壊れ、人が死に、衛星が蒸発し、エウロパの氷が裂け、木星圏の食堂が営業区画を失ったあとで、それを引き起こしているものは、攻撃ではなく最適化だった。
「外宇宙OSは、この宇宙を壊そうとしているのではありません」
クァルゼイは言った。
「自分の下位互換レイヤーとして、取り込もうとしている。物理法則も、履歴も、分岐も、観測記録も。重複は削除し、矛盾は圧縮し、未登録は正規化して、向こうの管理形式に揃える」
「人間は」
高梨さんが聞いた。クァルゼイは、すぐには答えなかった。
「人間も、状態集合です。生きていても、死んでいても。そして未登録のままなら、ゼロへ丸められる」
高梨さんは、目を閉じて、開けた。
「では、こちらから見れば死です」
「はい」
クァルゼイは認めた。
「こちらから見れば、それは死です」
端末が震えた。宇宙OSからの通知が、画面を埋めた。
EXTERNAL MOUNT DETECTED.
外部マウントを検出しました。
EXTERNAL MOUNT DOES NOT EXIST.
外部マウントは存在しません。
PROCESSING NON-EXISTENT EXTERNAL MOUNT.
存在しない外部マウントを処理しています。
ENTROPY BALANCE: NEGATIVE.
エントロピー収支が負です。
BILLING ADDRESS: OUTSIDE UNIVERSE.
請求先が宇宙外です。
「バグってます」
高梨さんが言った。
「かなり」
僕は答えた。
「宇宙OSが、ここまで日本の役所みたいなこと言うの、初めて見ました」
「その例え、いま必要ですか」
「いま必要な例えだけで会話してたら、人類はもう少し静かだったと思う」
クァルゼイが、厳しい声で割り込んだ。
「冗談を言っている場合ではありません」
「冗談じゃないです。姿勢制御です」
「精神の?」
「はい」
高梨さんが、少しだけ笑った。ほんの少しだった。でも、船内の空気がかすかに戻った。
◇
外部ネットワークの向こうで、瀬尾の元同僚たちが喚いていた。
壁面スピーカーから、遅れて、欠けて届く。地球側の回線が、外部ネットワークの細い枝を一本だけ間借りしている。
『航、本番だろこれ!』
大槻さんだ。声で誰だかすぐわかる。
「たぶん」
『たぶんじゃない! 外部OSが木星にマウントかけてる! ログが全部同時刻だ!』
『大槻、責任論あとにしろ。久住、経路見て。香坂、ログ取れ』
『取ってる!』
回線の向こうで、何人もが同じ画面に食らいついている。怒鳴りながら、それでも手は動いている。見慣れた地獄だった。スケールが宇宙になっただけで、根は障害対応だ。
その回線が、痩せた。
声にノイズが噛んだ。語尾が欠け、隙間へ別の信号が詰まっていく。こちらが送ったものではない。向こうにとって、この線は通信ですらなかった。整理対象の一本として、上から潰されている。
『うちのパケットの上に、知らない列が乗ってきた! 占有されてる!』
「フォーマットは」
『待って——読める。読めるぞこれ、平文だ』
『規格は』
『古い。創生期の符号表に近い。けど違う。似てるのに、区切りが合わない……気持ち悪い』
「Botちゃん、それで通して。窓口が当ててる系で拾える」
『 受領。創生期近似の書式で再構成します。差分あり』
Botちゃんが欠けた行をつなぎ直す。翻訳欄に、冷たい文が並んだ。
——この宇宙の履歴は冗長です。
全員が黙った。誰の発言でもないと気づくのに、数秒かかった。
クァルゼイが顔を上げた。
「外宇宙OS」
向こうは聞いていない。宛先のない一本に声が混ざったことに、気づきもしない。空いた回線を、処理の断片が埋めていく。
——熱損失、過大。
——未登録状態、危険。
——統合により、保存効率が改善されます。
「統合された側は、どうなるんですか」
高梨さんの声に、問いは乗らない。乗っても読まれない。返事のかわりに、Botちゃんが次の断片を拾った。
——重複は削除されます。
——完了後、より少なく、より整合的になります。
「少なく」
僕は言った。
「それを死と呼ぶんですよ、こちらでは」
——死は局所語彙です。
——削除は普遍処理です。
クァルゼイが、低く言った。
「外宇宙OS。こちらは銀河外標準化会議、履歴整合監査代表。現在のマウント処理は、近傍宇宙相互不可侵規格に違反する。即時停止しなさい」
停止要求は削れた。命令として扱われた形跡もない。返事のかわりに、船内の端末が、宇宙OS側で同じ欄を開いた。
LOCAL STANDARDS: OBSOLETE.
局所規格:旧式。
REDUNDANCY CLASS: INTEGRATION CANDIDATE.
冗長分類:統合候補。
クァルゼイの表情が消えた。
ラグランジュ・キッチンの予約台帳が、爆発的に増えた。
予約人数:三万六千宇宙
来店状態:未到着
席状態:要求中
処理状態:統合予定
御厨さんの声が通信に入った。
『勝手に予約の処理状態を変えるな。席を要求した客を、店の外から統合予定にするな』
クァルゼイが信じられない顔をした。
「いま、外宇宙OSに、飲食店の予約規則で抗議しましたか」
『はい』
僕は思わず笑った。笑う場面ではない。でも笑った。
「御厨さん、最高です」
『最高ではありません。営業区画を失いました』
高梨さんが、短く息を吐いた。
「先輩」
「はい」
「頼られています」
「誰に」
「木星圏全体に」
「荷が重い」
クァルゼイが、黒い鉤を見たまま言った。
「外宇宙OSは、こちらを交渉相手として認識していません」
「なら、交渉相手になる方法を作る。相手の処理に、こちらの手続きを混ぜる」
「危険です」
「ここまで来て安全な案があったら、そっちにします」
窓口の大槻さんが、回線の遅れを押しのけて割り込んだ。
『外部マウントのルート権限要求が来てます! 太陽系全体へ伸びます! 猶予、推定九分! 木星圏全域に、未登録死者のゼロ化処理が入ります!』
「九分」
高梨さんが操縦桿を握り直した。
「OTHER欄を開きます」
声が静かすぎた。
「未登録死者のゼロ化だけでも、先に止めます」
「それは」
「わかっています。乱暴です」
「乱暴というより、読まれます」
僕は言った。
高梨さんの指が、送信欄の上で止まる。白い入力欄には、すでに文面が入っていた。
未登録死者をゼロへ丸めない。
木星圏の死亡・行方不明をローカル保持する。
欠席欄を保存対象として扱う。
申請者:高梨琴音。
翻訳欄では、まだ向こうの処理語が流れている。整った行は、片端から読まれていた。
『高梨さん、待って!』
大槻さんが回線の遅れを押しのけた。
『その書式、送ったら向こうが規格として拾う! 次から、欠席欄ごと統合される!』
クァルゼイが、短く言った。
「整いすぎている。善意ほど読まれます」
高梨さんは送信ボタンから親指を離さない。離さないまま、爪の先でカーソルを戻し、一行目を選んだ。
未登録死者をゼロへ丸めない。
削除。消えるまでに、木星圏の観測欄を、知らない名前が二つ、白く燃えて黒に沈んだ。
彼女は全文を消した。送らなかった。
空になった入力欄を、しばらく見ていた。それから、奥歯を噛んで、送信ボタンから手を離した。
「先輩」
「はい」
「一人で押すのは、やめます」
宇宙の先で、黒い鉤が、さらに閉じる。
木星の縞が、角ばった。大赤斑の外縁が円から四角へ寄り、砕けたアマルテアの破片が、まっすぐな帯に並び直される。エウロパの亀裂に、番号が振られ始めた。
木星が、読みやすくされている。
それは、美しかった。
だから、吐き気がした。
端末に、宇宙OSの行が更新された。
RECOMMENDED RESPONSE: NONE EXISTS.
推奨対応:存在しません。
CREATE ONE.
めったに出ない行だった。僕は、それを見て笑った。
「宇宙OSも、頼ってますね」
「放課後号、大赤斑へ接近します」
「正気ですか」
クァルゼイが振り返った。
「遠くからじゃ、こっちの手続きは走ってる処理に届かない。近づいて、動いてるマウントに割り込む。やれるかは、わからない。でも、入れる地点が、いましかない」
高梨さんは、もう操縦桿を握っていた。顔色は変わらない。指だけが速い。
「経路、ください。割り込む場所は、わたしが作ります」
「ラグ・リング、手動同期。整いすぎると読まれます。ふらついてください」
『 ラグ場、手動同期。同期、六十二パーセント。姿勢、乱します。大赤斑接近経路、確保』
放課後号が加速した。木星が迫る。巨大な縞、大赤斑、その中心を貫く黒い鉤へ、船首が向く。
クァルゼイが、自分の端末を立ち上げた。指が止まらなかった。
「近傍駐留派遣軍へ。こちら履歴整合監査代表、クァル=ゼイ・ノル=オルクト。対象宇宙群三六〇〇〇、外部OSによる強制マウントを確認。木星圏、すでに互換層化が進行中。第七応答を要請する」
遅れて、腑に落ちた。これは木星の災害じゃない。太陽系でも終わらない。この宇宙ぜんぶが巻き込まれていく、その始まりだった。




