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重力はラグでした。物理準備室で宇宙を処理落ちさせたら、国立研究所と黒服が来た件  作者: みんとす
第四章 木星圏争奪戦、即席銀河連合軍 ——または、整いすぎると読まれることについて
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第28話 第三波、衛星を削る

 第三波は、警報より先に来た。


 最初に消えたのは、木星の小衛星だった。


 名前のない石ころではない。


 番号があり、軌道があり、発見者がいて、観測ログがあり、誰かが論文の謝辞に入れたことのある天体だった。


 その群れが、木星の夜側で、一斉に白くなった。


 爆発ではなかった。


 燃えた、というより、宇宙がそれらを一瞬だけ強く思い出し、その直後に忘れた。


 外部モニターの端で、小衛星群の軌道線がぷつぷつと切れた。

 点が消え、名前が消え、推定質量が空欄になり、発見年が砂のように崩れた。


 放課後号の観測系が叫んだ。


 Botちゃんが、その値を読み上げた。


『第三波ガンマ線事象を検出。発生源、大赤斑付近。継続、一・九一秒。総エネルギー、算定不能』


 PHYSICAL DAMAGE: IN PROGRESS

 HISTORY DAMAGE: IN PROGRESS


『物理被害、進行中。履歴被害、進行中。分類、未定義です』


 直後、船体が横へ弾かれた。


 衝撃ではない。

 空間そのものが、雑にページをめくられたような揺れだった。


 高梨さんが操縦席で姿勢を崩した。


「慣性制御、遅延!」


「こっちも遅延してる!」


「先輩は遅延しないでください!」


「生まれつき遅延気味です!」


「自慢しない!」


 船内の照明が落ちた。


 非常灯が赤く回る。


 外では、アマルテアが砕けていた。


 木星のいちばん内側を回る、赤い不規則な小衛星。岩の塊のような、いびつな衛星だった。


 いまは、いびつですらない。


 第三波と、狂った潮汐が、同時にその衛星を掴んでいた。表面が裂け、内側が引き出され、赤い破片が帯になって木星磁気圏へ流れた。


 砕けながら、まだ回ろうとしている。

 軌道を覚えている破片が、軌道を忘れた破片を追い越して、ぶつかって、また砕けた。


 アマルテアが、衛星であることをやめて、ただの赤い飛沫になっていく。


 次にエウロパ。


 白い氷殻に、黒い亀裂が走った。


 線ではない。

 文字のようだった。

 誰かが氷の下から、宇宙へ向けて署名しているように見えた。


 エウロパ海洋研究ステーションから通信が入る。


『こちらエウロパ外縁研究群、氷殻下センサーが——』


 声が途中で切れた。


 映像だけが残る。


 白い廊下。

 壁面に貼られた海洋生物の模式図。

 無重力用の手すり。

 逃げる研究員たち。


 床が黒く割れた。


 割れ目から水が出たのではない。

 履歴が出た。


 建設中の映像。

 完成式典。

 最初のサンプル採取。

 誰かがカップ麺をこぼした記録。

 研究員の誕生日。

 失敗したプロポーズ。

 無数の出来事が、黒い煙のように吹き出して、次の瞬間、ガンマ線の白さに焼かれた。


 人が三人、そこで消えた。


 叫びは遅れて届いた。


 映像は残った。

 名前は一人分しか残らなかった。


 高梨さんが息を止めた。


 僕も、一瞬だけ何も言えなかった。


 クァルゼイが低く言った。


「観測を切ってはいけません」


「人が死んでるんですよ」


「だからです」


 その声に、冷たさはなかった。


 ただ、ひどく固かった。


「観測を切れば、残りも消えます」


 高梨さんは歯を食いしばった。


「エウロパ外縁研究群、こちら放課後号。聞こえる人は返答してください。名前を言って。役職じゃなくて、名前を」


 ノイズ。


 白い光。


 誰かの泣き声。


『……ナディア。ナディア・クライン。水圏化学班』


「ナディアさん、聞こえています。そこにいてください」


『三人、いま、目の前で——』


「見ています」


『見てるなら、消えませんか』


 高梨さんは、短く黙った。


「消させません」


 その返答は、約束ではなかった。

 祈りでもなかった。


 命令だった。


 ガニメデが悲鳴を上げた。


 音ではない。

 電磁波だった。


 ガニメデ固有磁場が、ありえない周波数で震えた。

 放課後号の通信系が過負荷を起こし、船内スピーカーから、金属を引き裂くような音が出た。


「ガニメデ磁場、振幅が跳ねています!」


 高梨さんが叫ぶ。


「木星磁気圏と共鳴してる!」


 クァルゼイが空中に波形を開いた。


「違います。共鳴ではありません。叫んでいる」


「比喩ですか」


「いいえ」


 ガニメデの磁場が、何かを拒絶していた。


 外部からの読み込み。

 索引化。

 整理。

 名前の再割当て。

 そのすべてを、衛星ひとつ分の磁場で押し返そうとしていた。


 押し返せるはずがない。


 それでも、押し返していた。


     ◇


 国連宇宙軍木星前哨基地は、半分になっていた。


 映像が切り替わる。


 基地の外郭は、リング状に木星を向いていたはずだった。

 いまは、その片側がえぐれている。


 爆風で壊れたのなら、破片が飛ぶ。

 熱で焼けたのなら、溶融痕が残る。

 だがそこには、何もなかった。


 区画そのものが、最初から建設されなかったことにされている。


 ただし、人間だけが残っていた。


 残された人間は、支えを失った空間に放り出された。

 通路の途中に押し込まれ、壁にめり込み、非常隔壁に挟まれた。


 ミラー中佐だったはずの人が、血まみれの額で通信に出た。


『こちら木星前哨基地。医療区画消失。負傷者多数。死亡者……確認できていません』


「確認できない?」


『死亡記録が出ません。死体はあります。だが基地の名簿が、該当者を隊員として認めない』


 画面の奥で、誰かが叫んでいた。


『彼はここにいた! 昨日もいた! 食堂でまずいコーヒーを飲んでた!』


 別の声。


『名札がない! 顔認証も通らない!』


『ふざけるな、顔があるだろ!』


 ミラー中佐は振り返った。


 その目が、ほんの少しだけ壊れていた。


『瀬尾さん。高梨さん。これは、どう扱えばいい』


 高梨さんが答えようとした。


 でも、声が出なかった。


 僕が先に言った。


「名前を呼んでください」


『名前?』


「覚えている人が、名前を呼んでください。階級でも認証番号でもなく、名前で」


『それで助かるのか』


「わかりません」


 正直に言った。


「でも、名前のない死体にされたら、さらに負ける」


 ミラー中佐は、一秒だけ目を閉じた。


 それから基地内へ怒鳴った。


『全員、聞け! 認証が死んだ! 名簿も死んだ! なら人間がやる! 倒れている者の名前を呼べ! 知らない顔なら、隣の誰かに聞け! 死者を未登録にするな!』


 基地の中で、名前が飛び始めた。


 エレナ。

 ハミド。

 周。

 ロドリゲス。

 カーン。

 南雲。

 知らない名前。

 知るべき名前。


 宇宙軍基地は半壊していた。

 それでも、そこではまだ軍が機能していた。


 命令があり、返答があり、怒鳴り声があり、泣き声があった。


 人間が、消えていく名簿を、声で押し返していた。


     ◇


 救援は、号令で始まったのではない。


 全員が、ばらばらに、同時に動いた。


 国連宇宙軍は、半壊した前哨基地に、まだ名前を呼ばれている部下がいた。だから救助艇を、最短の直線で投入した。

 火星自治政府は、避難船団に自分たちの市民を乗せていた。だから退避線の余白を、誰の指揮下にも置かなかった。

 ラグランジュ・キッチン木星支店は、ついさっき厨房主任を一人失っていた。だから残った人の腹だけは、温かいもので満たそうとした。

 クァルゼイは、たった今、名前のない死体が生まれるのを見たばかりだった。だから救助より先に、履歴保全を割り込ませた。助けた人間が、助けたあとに消えないように。

 放課後号は、その全部を、一本の救助経路へ束ねようとした。


 全員が、正しかった。

 全員が、必死だった。

 そして、全員が、自分の正しさを、譲れなかった。


『国連救助艇、進入角固定!』


『火星避難タグ、国連救助線と交差します。こちらは指揮下にありません』


『木星支店、配食コンテナを負傷者区画へ送ります。カレーは温かいうちに』


『履歴保全手順を優先します。名前が残らなければ救助後の法的身分が消えます』


 誰も、譲らなかった。


 国連救助艇は、進入角を固定したまま、火星の避難線を突っ切ろうとした。

 火星タグは、市民の船団を引いたまま、退かなかった。

 配食コンテナは、その両方に挟まれて、負傷者区画の手前で止まった。

 履歴保全帯は、人間の通路を、勘定に入れていなかった。


 五つの正しさが、同じ一点で、同時に正しくあろうとした。


 絡まった。


 国連救助艇が、火星タグを避けて跳ねた。跳ねた先に、配食コンテナがいた。コンテナを避けて、今度は履歴保全帯へ滑り込んだ。保全帯は、突っ込んできた救助艇を保全対象として掴み、減速の権利を、人命より先に記録へ回した。


 誰かの正しさが、別の誰かの猶予を奪った。猶予を失った誰かが、また別の誰かを押し出した。


 誰も間違えていないのに、全員で、少しずつ、誰かを死なせていた。トリアージすべきと、わかっていたはずなのに。


 最後に押し出されたのは、救助員だった。


 半壊した区画の、もう建設されていない通路へ、二名が流れ込んだ。

 一人は壁に叩きつけられた。

 もう一人は、誰の手も届かない側へ流れた。


『誰か、いまの隊員の名前を言え!』


 ミラー中佐が叫んだ。


 返事が、遅れた。


 誰も知らなかったのではない。

 知っていたはずなのに、認証表示から名前が先に消えた。

 名札が白くなり、音声ログが欠け、呼ぼうとした口が、わずかに迷った。


 ほんの短い、ためらいだった。それを、外から来ているものが、ゼロとして処理した。


 UNREGISTERED RESCUER: NORMALIZED.

 未登録救助者:正規化済み。


 高梨さんの手が、操縦桿の上で止まった。


「今の、誰ですか」


 誰も答えられなかった。


 答えられないという事実が、船内に落ちた。


 冗談もない。

 警報音だけが鳴っていた。


 クァルゼイが、白くなった画面を見ていた。


「私が割り込んで、人の通路より、記録を先に通しました」


「違います」


 高梨さんが言った。


「私が束ねました」


 国連宇宙軍の通信が割り込む。


『こちらが直線投入を急がせた』


 火星自治政府が言った。


『こちらが指揮系統を拒んだ』


 ラグランジュ・キッチン木星支店が言った。


『こちらが配食コンテナを通した』


 誰かが、最後に小さく言った。


『全員じゃないですか』


 その一言だけが、正しかった。


 第一次木星救援連携。


 共同失敗。


 端末の端に、宇宙OSが状態を出した。


 JOINT RESCUE ATTEMPT: FAILED.

 共同救助試行:失敗。


 PRESERVE FAILURE RECORD?

 失敗履歴を保存しますか。


 YES

 NO

 DEFER

 OTHER


 高梨さんは、すぐには押さなかった。


 失敗を保存するということは、誰かの名前を消えたままにしないということだった。

 同時に、誰が何を間違えたのかを、全員の前に置くということだった。


 ミラー中佐の声が、かすれて届いた。


『保存しろ』


「中佐」


『なかったことにするな。誰のせいか決めるのは後でいい。だが、失敗したことまで消すな』


 高梨さんが、OTHERを選んだ。


 入力欄に、短く書く。


 失敗を、責任逃れのために保存しない。

 失敗を、次の救助のために保存する。

 未登録救助者をゼロに丸めない。


 送信。


 宇宙OSが返す。


 FIELD NOTE ACCEPTED.

 備考欄を受理しました。


 JOINT FAILURE RECORD: PRESERVED.

 共同失敗履歴:保存。


 船内で、誰も勝った顔をしなかった。


 ただ、その失敗だけは、全員のものになった。


     ◇


 ラグランジュ・キッチン木星支店は、営業区画を失っていた。


 客席と厨房とレジと、妙に評判の悪い木星風カレーの鍋があった場所が、丸ごと消えていた。


 しかし、店長は生きていた。


 御厨さんは、非常用ハッチの向こうから通信に出た。


 顔に煤がついている。

 額から血が流れている。

 なのに、声だけはやけに明るかった。


『こちらラグランジュ・キッチン木星支店。営業区画が失われたため、テイクアウト専門に切り替えます』


「御厨さん」


 僕は言った。


「いま営業の話をしています?」


『避難者への配食です』


「それは大事です」


『あと、営業です』


「強いな」


 高梨さんが通信に割り込む。


「被害状況は」


『厨房主任一名、行方不明。いや、違うな。行方はわかってます。さっきまで鍋の前にいた。なのに、鍋ごと営業区画がありません』


 御厨さんの声が、一瞬だけ薄くなった。


『名前は荒川。木星風カレーを改良しようとして、最後まで誰にも褒められなかった人です』


 画面の向こうで、誰かが泣いていた。


 御厨さんはそれを背に、無理やり笑った。


『だから、今日から木星風カレーは荒川カレーに改名します。記録が忘れても、メニューは忘れません』


 僕は、何も言えなかった。


 こういう人たちがいるから、人類はときどき面倒くさい。

 こういう人たちがいるから、人類はたぶん、宇宙OSに変な行を足してしまう。


 クァルゼイが、低くつぶやいた。


「消えるべき履歴を、こんなに残してしまう」


 責める声では、なかった。


 彼は調べてきた。木星圏の異常に地球の指紋を疑い、確かめて、違うと知った。荒川カレーのような人間の雑さが、原因ではないと。


 原因ではないと分かったうえで、その雑さを前にして、彼は戸惑っていた。


 なぜ消えるべきものを、こんなに惜しむのか。

 その問いに、彼の規格は、答えを持っていなかった。


 僕は振り返った。


 怒ろうとして、やめた。


 クァルゼイは、理解しようとして、困っていた。


     ◇


 第三波の解析結果がそろい始めた。


 そろったと言っても、ひどいものだった。


 エネルギー量が合わない。


 爆心に近い小衛星群は蒸発した。

 アマルテアの破片が軌道面まで達した。

 エウロパの氷殻は裂けた。

 ガニメデの磁場は悲鳴を上げた。

 基地は半壊し、支店は営業区画を失った。


 これだけ壊して、ガンマ線の総エネルギーでは足りない。


 足りなさすぎる。


 近傍でこれだけ天体を割るなら、それを起こした熱源の残光が、どこかに灯っていなければならない。降着円盤でも、衝撃波の名残でもいい。けれど木星の夜側には、被害に見合う光が、どこにも残っていなかった。出ていったエネルギーの何割かが、光になり損ねて、消えている。


 逆に、遠い場所では多すぎた。


 高梨さんが、消えた天体の推定質量と、各所で観測された光度を、並べて出した。木星圏外の観測ブイだけが、実際の被害に比べて桁の合わない明るさを記録している。


「近くは足りない。遠くは多い。同じ事象なのに、距離で逆の嘘をついてる」


「収支が合わない事象は、たいてい、こちらの見落としか、向こうの細工です」


 クァルゼイが波形を拡大した。


「これは爆発ではありません」


「でもガンマ線バーストです」


「ガンマ線バーストとして観測されているだけです」


「原因じゃなくて、見えてる火花、ですか」


「確かめます」


 彼は、各観測系の生データを、一枚ずつ空中に並べ始めた。被害の話ではなく、計器そのものの話だった。


「まず、スペクトルに芯がありません」


 彼が一枚目に指を置く。連続したガンマ線の山が、空中で長く尾を引いていた。


「爆発で生まれた光なら、輝線が立ちます。何の物質が、どれだけの温度で燃えたか、線の位置と本数で書いてある。プラズマの指紋です」


 彼は、線の並ぶべき位置を、指でなぞった。なぞった先には、何もなかった。


「核線がない。消滅線もない。吸収のへこみもない。燃えた物質の名前が、一つも書かれていない。なのに、連続した熱だけが立っている。燃料のない焚き火です」


「燃やさずに、熱だけ出てる」


 二枚目。光子の到着時刻を、細かく刻んだ帯だった。


「次に、揺らぎが少ない。光は粒で届きます。粒なら、数えるたびにばらつく。秒ごとに、釣り合いの取れない端数が出る。それが自然の手触りです」


「ショットノイズ、ですか」


「それです。自然なら、必ずこのくらい散る」


 彼が、理論上ばらつくはずの幅を、薄い帯で重ねた。実測の点は、その内側に、おとなしく収まっていた。端数が、ない。


「粒で来ているのに、粒の揺らぎがない。統計が、教科書より静かすぎる」


「静かなのは、いいことでは」


「自然界では、起きません」


 クァルゼイの声が、低く沈んだ。


「揺らぎは、ただではゼロにできない。ざらつきを消すには、外から手を入れて、端数を一つずつそろえるしかない。これは、整えられた静けさです」


 三枚目。X線で撮った被害域の、温度の地図。本来なら破壊のあとは、熱がまだらに散る。


 その地図は、まだらではなかった。


 高温と低温が、定規を当てたように区切られて、列をなしていた。


「砕けた直後の現場で、温度がこんなに行儀よく並ぶことは、ありません。乱れて当然の場所が、乱れていない」


 Botちゃんが、淡々と割り込んだ。


『情報量計、報告。観測列の圧縮率、急上昇。ノイズ床、想定下限を下回りました。原因、特定できません』


「圧縮率が、上がる」


 高梨さんが繰り返した。


「データが、よく整っているということです」


 クァルゼイが言った。


「整いすぎたものは、短く畳める。乱れたものは、畳めない。いま木星圏から届くデータは、自然が出すどんな信号より、短く畳めてしまう」


 彼は、三枚を空中で重ねた。芯のない熱。消えた揺らぎ。整列した温度。


「滑らかすぎる。静かすぎる。整いすぎている。乱雑さが、足りないんです」


 声に、確証へ寄っていく重さがあった。


「熱は、乱れる側へしか流れないはずなのに、この一帯では、乱れが減っている。本来なら、まず起きない」


 彼は、木星とその衛星群の上に、二つの層を重ねた。


 一つは、この宇宙の履歴。

 何がいつ起き、何が消え、何が熱として捨てられたか。傷だらけで、雑然として、捨てられた差分が山になっている。


 もう一つは、外側から流入している層。


 その層には、傷がなかった。


 冷たい。

 澄んでいる。

 乱れがない。

 捨てた差分の山が、どこにもない。


 低エントロピー状態だ、と彼は言わなかった。先に、二つの層の境目を指でなぞった。そこだけが、白く焼けていた。なぞった指が、止まった。


「別宇宙から、低エントロピー状態が流入しています」


 クァルゼイが言った。声が、確証の重さで沈んでいた。


「低エントロピー?」


「乱雑さの、少ない状態です。とりうる場合の数が、こちらより桁違いに絞られている。あの整いすぎは、温度が低いからではない。散らかる前のまま、こちらへ入ってきているからです」


 仮停戦のとき、彼が規格の置き場所を持てなかったもの。外、としか言えなかったもの。それが、いま波形の中で、エントロピーの差という、測れる量になっていた。


「整った側が、雑然とした側へ流れ込む。混ざろうとして、こちらの履歴の乱雑さと衝突する。釣り合いを取るために、差分が熱として吐き出される。その一番高い部分が——」


「ガンマ線」


 高梨さんが言った。


「向こうが綺麗すぎるから、こっちの汚れた履歴とぶつかって燃えてる。それがガンマ線バースト」


「表現は雑ですが、理解としては近い」


「汚れた履歴って言い方、嫌ですね」


「私も好みません」


 僕は、消えた小衛星群のリストを見た。


 蒸発。

 履歴焼損。

 観測ログ欠落。

 死亡記録未確定。


「じゃあ、ガンマ線バーストを止めても意味がない」


「火花を消すだけです」


 クァルゼイが言った。


「鉄を打てば、火花が散る。けれど火花を集めても、鉄は打てない。原因は、低エントロピー状態の流入そのものです」


「その流入口は?」


 高梨さんが聞く。


 Botちゃんが、先に答えた。


『発光源を逆探知。ガンマ線の到来方向、収束します。発生源、一点』


 モニターが、その一点へ寄っていく。


「大赤斑近傍」


 クァルゼイが言った。


 モニターが大赤斑を拡大する。


 何世紀も続く巨大嵐。

 地球より大きい赤い目。

 その中心から、黒いものが赤い目の外まで伸びていた。


 鉤だ。


 黒い鉤。


 物体ではない。

 影でもない。

 空間の穴でもない。


 それは、宇宙の文法に置かれた、開始記号だった。


「疑いは、もう消えました」


 クァルゼイが言った。


「地球でも、私の規格でもない。これは、宇宙の外から来ている。外宇宙OSと、呼ぶしかありません」


 彼が、はじめてその名を口にした。


 予感でも、疑いでもなく、確かめ終えた者の声だった。


「流入は、火花じゃない。前置きです」


 僕は聞いた。


「前置きの次は」


 クァルゼイは、黒い鉤を見たまま言った。


「あれが、この宇宙を開きにきます。外宇宙OSの、マウント処理が始まる」


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