第27話 仮停戦、三万六千宇宙で
木星の夜側で、黒い鉤が次の一画にかかった。
その一画は、線ではなかった。
鉤の先が触れた高度で、木星の縞が一段、繰り上がった。褐色のベルトが一本消え、その下にあったはずのベルトが、もともとそこにあった顔をして上へ詰める。抜けた跡が、ない。木星は、最初から縞が一本少なかったことになった。
「先輩」
高梨さんが、自分の端末を見たまま言った。
「木星の縞、何本でした」
「数えたことない」
「私もです。だから、減ったって言い切れないんです。それが、いちばん気持ち悪い」
クァルゼイが、空中の波形に指を置いた。
「破壊ではありません」
彼が言った。声は低いまま、平らだった。
「破壊なら、破片が残る。これは、項目を一つ抜いて、前後を詰めただけです。襲撃ではなく——」
彼は、言葉を選んだ。選んで、規格にある語に落とした。
「目録の、整理です」
「掃除ですか」
「片付け、に近い。誰かが我々の側を一冊の本として開き、要らない行を抜いて、綴じ直している」
誰かが、という主語を、彼は使った。
外部会計層、とは言わなかった。
◇
警報が、短く鋭く鳴った。被害一覧ではない。前哨基地からの直通だった。
『こちら国連宇宙軍木星前哨基地。放課後号、応答願います』
映像が開く。管制室。壁の一部が焼け、非常灯だけが赤く回っている。何人かの肩から、階級章が消えていた。
『こちら前哨基地代理指揮官、ミラー中佐……だったはずです』
「だったはず」
『階級記録が焼けました。部下は私を中佐と呼んでいます。私はそれを、信じることにしています』
笑えなかった。けれど、その人はまだ、その人だった。
「こちら放課後号、高梨です。状況を」
『外郭二番区画が消えました。爆発でも、火災でもない。建設履歴ごと抜かれています。図面に、最初から二番区画がない』
「人は」
『何人かは、隣の三番区画へ押し出されました。区画がなかったことにされて、こぼれた。骨折多数。——ですが、全員ではありません』
「全員じゃない、とは」
『間に合わなかった者は、区画ごと閉じられました。死んでいます。ですが、何人だったかは、わかりません。勤務記録ごと抜かれて、二番区画に誰がいたのか、名簿にもう残っていない。私は、顔を何人か覚えています。名前の出てこない顔を。記録は、最初から二番区画に人はいなかったと言っています』
高梨さんが息を呑んだ。
誰も看取れなかった。
看取ったという記憶だけが、これから、ゆっくり削られていく。
クァルゼイが、画面を見たまま低く言った。
「殺意では、ありません」
「人が死んでるのに」
「要らない行を抜いて、前後を詰める。その行に、人が挟まっていただけです。殺すためではない。整理の巻き添えで、人が死んでいる」
その言い方に、温度がなかった。彼は感心していたのではない。気味悪がっていた。
『それと——変なものがあります』
ミラー中佐だったはずの人が、画面の外へ合図した。表示が切り替わる。
ラグランジュ・キッチン木星支店の、予約台帳だった。食堂の、実物の。
予約が、増えていた。
予約名:未登録欠席席
人数:一宇宙
予約名:未登録欠席席
人数:二宇宙
「先輩。人数欄に、宇宙って入ります?」
「入らない」
数字が跳ねた。
十宇宙。
百宇宙。
千宇宙。
一万宇宙。
そして、止まった。
予約人数:三万六千宇宙
来店状態:未到着
席状態:要求中
船内が静かになった。木星の縞だけが、窓の外を流れていた。
クァルゼイが、その表示から目を離さなかった。震えが、紙コップを置いた手から、指へ移っていた。
「三万六千」
「心当たりが」
「……あります」
彼が言った。即答ではなかった。
「旧脚注接続網です」
「脚注」
「別宇宙との連絡方式です。扉ではない。船でもない。相手の宇宙の、未確定の行に、参照だけを一つ置く。来ない。来ないまま、こちらを数える」
「その数が、三万六千」
「旧網の参照先の総数が、三万六千でした。とうに畳んだ網です。私が、畳ませた」
高梨さんが、ゆっくり言った。
「畳んだ網の番号で、誰かが食堂に席を取ってる」
「中にいる相手ではありません」
クァルゼイが、初めてそこで顔を上げた。
「我々の宇宙の中にいる者は、宇宙を人数欄に書けない。宇宙を一人と数えられるのは、宇宙の外に立っている者だけです。これは、宇宙をまたいでいる」
その一言が、船内に落ちた。
「三万六千宇宙のうちの、一つ」
僕は言った。
「うちの宇宙が、その一つに数えられてる、ってことですか」
クァルゼイは、答えなかった。答えないことが、答えだった。
◇
「照会します」
クァルゼイが言った。彼は空中に、こちらには読めない文字列を組み始めた。
「私は、貴文明を疑って来ました。木星圏の異常に、地球由来の未承認状態の指紋が混じっていた。会議は、それが原因だと考えている。私も、そう考えて来た」
「考えて来た、というのは」
「照合します。この処理が、貴文明の未承認状態と一致するか。一致すれば、原因は貴文明です。会議の懸念どおり、規格内の問題で、私の手で片付く」
彼は、送信した。
宇宙OSが、その往復を傍受して、和訳だけ落とした。
INQUIRY: MATCH TO TRACKED UNAUTHORIZED STATES OF THE LOCAL CIVILIZATION?
照会:当該文明の、追跡中の未承認状態との一致。
REPLY: NO MATCH. THE PROCESS IS NOT OF THAT CIVILIZATION.
返信:一致なし。当該文明由来の処理ではありません。
クァルゼイの指が、止まった。
「……違う」
彼は、もう一行、打ち足した。今度は和訳が、少し遅れて出た。
INQUIRY: MATCHING STANDARD FOR OBSERVED PROCESS.
照会:観測された処理に該当する規格。
REPLY: NO MATCHING STANDARD. NO PRECEDENT ON FILE.
返信:該当規格なし。前例の記録なし。
「貴文明でもない。私たちの規格でもない。前例もない」
彼は、低く言った。
「私は、確かめに来ました。貴文明が宇宙OSを壊しているかどうかを。確かめた。壊しているのは、貴文明ではありません」
最後に、もう一行。
INQUIRY: CROSS-UNIVERSE FOOTNOTE LINK. RE-ASSIGN HANDLING.
照会:別宇宙脚注接続。担当の再割り当てを要請。
REPLY: CROSS-UNIVERSE FOOTNOTE LINK IS UNDER YOUR PROVISIONAL AUTHORITY.
返信:別宇宙脚注接続は貴官の暫定管理権限下にあります。
REPLY: THIS IS YOUR JURISDICTION.
返信:これは貴官の管轄です。
クァルゼイは、その一行を、長く見ていた。
「先輩」
高梨さんが、小声で言った。
「これ、たらい回しですよね」
「たらい回しだ」
「銀河の外でも、たらい回しなんですね」
「規格があるところには、たいてい窓口があって、窓口があるところには、たいていたらい回しがある」
クァルゼイは、空中の文字列を閉じた。
「境界の管理は、私の権限です」
彼が言った。声から、高圧の色が抜けていた。残ったのは、平らな疲れだった。
「別宇宙との境に参照を置く許可も、畳む許可も、私が持っている。だから会議は、境を越えて来るものの説明も、私に差し戻す。私が、境界の管理者だからです」
「管理者なのに」
「越えて来るものを、説明できない。私の索引に、これはありません。会議の索引にも、ない。消去法で残るのは——」
彼は、そこで止まった。
規格にある語を探して、見つからない、という止まり方だった。前にも、一度、同じ止まり方を見ていた。
「外、ですか」
僕は言った。
クァルゼイは、その語を、引き取らなかった。引き取れなかった。彼の規格に、その項目がない。
「私の規格には、その語の置き場所がありません」
彼は、そう言った。それが、肯定だった。
予約台帳は、まだ要求中のまま光っていた。三万六千宇宙。未到着。
「クァルゼイさん」
高梨さんが言った。
「本国は、助けてくれますか」
「いいえ」
「窓口は」
「私です」
「その窓口は、相手の正体を知っていますか」
「いいえ」
彼は、はっきりそう言った。代表権限者が。監査代表が。宇宙OSにパッチを提案できる文明の使者が。食堂の予約台帳を前にして、二度目の「いいえ」を言った。
「じゃあ、誰も来ないんですか」
高梨さんが言った。
「規格に従う軍なら、私の権限で呼べます。ですが、呼ぶには、何が来ているのかを、書かなければならない」
「さっき、書けなかったやつですよね」
「書けません。本当に宇宙の外のものだという確証が、ない。貴星系の中で収まるのか、それを越えるのか、どれだけの脅威かも、測れない。確証のないもの、測れないものに、軍は出せない」
彼は、窓の黒い鉤を見た。
「呼んだところで、すぐには来ません。近いといっても、すぐ隣ではない。そして、呼んだ責任は、私が負う。——貴星系で閉じるなら、いらないものです」
閉じるなら、と彼は言った。
閉じる、とは言わなかった。
高梨さんが、短く息を吸った。
「なら、止めましょう」
「止める?」
「責任の話を、です。どっちが悪いか、後でいい。あれは、あなたの規格にも、うちの常識にも、載ってない。あなたの本国に訊いても、出てこなかった。なら、これは、この宇宙の外側の話です。同じ宇宙の側で——あなたと、うちで、先に見つけましょう」
クァルゼイは、彼女を見た。左右の目が、わずかにずれて、彼女を見ていた。
「私は、貴文明を疑って来ました。確かめて、違った」
「どうぞ、続けて」
「詫びるべきなのでしょう。ですが、詫びの規格を、いまは持ち合わせていません。後にします」
彼は、紙コップを持ち直した。手の震えが、まだ規格から外れていた。
「いまは、こちらの窓口より、規格に従わない貴文明のほうが、まだ役に立つ。これは、停戦です」
「仮停戦、ですね」
「仮で結構です」
僕は、窓の外を見た。大赤斑のへりから伸びた黒い鉤が、繰り上がった木星の縞の、新しい一本目に、静かに先をかけていた。
予約台帳の一行が、点滅をやめて、固まった。
予約人数:三万六千宇宙
来店状態:未到着
席状態:要求中
来ない。来ないまま、こちらを数えている。
その一行が、次に何が来るかを、静かに指していた。




