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重力はラグでした。物理準備室で宇宙を処理落ちさせたら、国立研究所と黒服が来た件  作者: みんとす
第四章 木星圏争奪戦、即席銀河連合軍 ——または、整いすぎると読まれることについて
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第25話 焼けたのは、履歴だった

 木星は、近くで見ると馬鹿みたいに大きい。


 知っていた。

 数字では知っていた。

 地球の十一倍の直径。三百倍以上の質量。太陽系最大の惑星。水素とヘリウムの巨大な球。縞模様。大赤斑。強烈な磁場。放射線帯。


 全部知っていた。


 でも、知識は窓の外で役に立たない。


 放課後号が木星圏に復帰した瞬間、視界の半分が縞模様で埋まった。茶色、白、橙、灰色。雲の帯が地平線ではなく空そのものとして流れている。大赤斑は、もはや斑点ではない。惑星の皮膚に開いた巨大な目だった。


「到着しました」


 高梨さんの声が少し硬い。


「木星圏、エウロパ外縁待機軌道。ラグ・リング、出力低下。船体異常なし。観測系、一部不安定」


「周辺状況は」


「前哨基地から救難信号。ラグランジュ・キッチン木星支店から営業継続宣言。エウロパ研究ステーションから避難要請。木星航路管制から、航路そのものを見失ったという報告」


「最後が一番まずい」


「はい」


 画面に周辺映像が出た。


 国連宇宙軍木星前哨基地は、木星の外縁軌道上に浮かぶ灰色の塊だった。装甲板の一部が黒く焦げ、通信アンテナが折れている。だが、基地本体は残っている。空気も残っている。人員の生命反応もある。


 ただし、基地の外壁に書かれた所属番号が消えていた。


 塗装が剥げたのではない。

 最初から何も書かれていなかったように、つるりとした灰色になっている。


「識別情報が消えています」


「データベース上は?」


「存在しません」


「前哨基地が?」


「はい。国連宇宙軍の台帳から、木星前哨基地の登録だけが抜けています」


「でも、そこにある」


「そこにあります」


 次の映像。


 ラグランジュ・キッチン木星支店。


 木星航路の補給・休憩施設として作られた、白い円筒型の食堂ステーション。以前は船団労働者と研究者と軍人と観光客が、同じカウンターで味の濃いスープを飲む場所だった。


 今は、外壁の半分が裂けている。


 それでも入口の電光掲示板は光っていた。


 営業中。


「強いな」


「非常時営業規定だそうです」


「何を売っているんですか」


「朝定食以外」


「朝定食は」


「販売履歴が焼けたため、メニューとして存在した証明ができないそうです」


「厨房は覚えているのに?」


「厨房スタッフは覚えています。会計システムは覚えていません。宇宙OSは『朝定食は未定義です』と言っています」


「宇宙OS、朝定食にだけ厳しい」


 笑いかけて、やめた。


 食堂ステーションの避難区画に、人が集まっている。

 無傷の人間もいる。怪我人もいる。泣いている子どももいる。厨房ロボットが、片腕を失ったまま鍋を押さえている。


 笑いどころではない。


 けれど、笑いどころを残さないと、人はたぶん先に壊れる。


 次の映像。


 エウロパ研究ステーション。


 氷殻下海洋を調査するための長い観測塔が、氷の表面に何本も突き刺さっている。そのうち三本が折れていた。白い氷の上に、黒い亀裂が蜘蛛の巣のように広がっている。


 研究員の生命反応は、七割が確認済み。


 ただし勤務記録は、四割が未確認。


「人はいるのに、勤務履歴がない」


「はい」


「その人たちは、どういう扱いになっている」


「現地システム上は、来ていません」


「来ていない人が、避難シェルターにいる」


「そうです」


 高梨さんの声が、少し低くなった。


「先輩。これ、前の欠席欄に似ています」


「似ている」


「でも、違いますよね」


「違う。あれは『待たれているから欠席として保持する』だった」


 僕は、エウロパの映像を拡大した。


 避難シェルターの中で、研究員の一人が自分のIDを端末にかざしている。端末は赤く光る。


 該当者なし。


 その人はそこにいる。

 息をしている。

 怪我をしている。

 誰かに肩を貸されている。


 なのに、システムは言う。


 該当者なし。


「今回は、誰かが『いたこと』を消している」


 僕は言った。


「消している、ですか」


「焼けたというより、エントロピー処理された」


「エントロピー処理?」


「宇宙は、全部を覚えていられない。出来事は確定され、不要な差分は熱として捨てられる。たぶん宇宙OSは、その管理層だ」


 自分で言いながら、嫌になってきた。


 宇宙OSとは、物理法則そのものではない。

 物理法則が出来事を履歴として保存し、何を忘れ、何を熱として捨てるかを管理する層。


 つまり、宇宙のエントロピー会計。


 もしそこを外部から触られたら。


 人は死なない。

 物も残る。

 だが「いたこと」が消える。


 物質ではなく、履歴が燃える。


「放課後号、いまの報告を地図に並べ直します」


 高梨さんが言った。


 画面に、さっきの木星圏の簡略図が戻る。


 高梨さんは、各所から届いた被害を、時刻のずれだけ均して、一つずつ重ねていった。


 報告がまだ普通に通る場所は、白。

 物理的に壊れたと報告された場所は、赤。

 存在の証明だけが抜けた場所は、黒。


 この船にできるのは、それくらいだ。


 木星の夜側を中心に、黒い欠落が浮かんだ。


 前哨基地の登録。

 朝定食の販売履歴。

 研究員の勤務記録。

 管制が見失った航路。


 違う場所で、違うものが消えているのに、欠け方だけが同じだった。


 円ではない。

 波でもない。

 爆発なら放射状になる。磁気嵐なら磁力線に沿う。だが、これは違う。


 まるで、巨大な文字列の一部を黒塗りしたような形だった。


「自然現象ではない」


 高梨さんが言った。


「うん」


「でもラグ場の暴走にも見えません」


「暴走なら、もっと出鱈目に歪む。これは、整いすぎてる」


「これは?」


「事務処理に見える」


 高梨さんが、こちらを見た。


「先輩。それ、知ってる人の言い方です」


「……三年、宇宙OSの窓口で苦情を捌いてたからね」


「じゃあ、これ、宇宙OSのしわざですか。それとも、窓口の」


「わからない」


「何か知ってるなら、いま言ってください」


「知らない。やり方に、見覚えがあるだけだ」


 事務処理。


 削除。

 統合。

 圧縮。

 重複排除。

 未登録状態の正規化。


 窓口で毎日、苦情の山の向こうに見ていた手つきだった。


 木星圏の被害は、そういう冷たさを持っていた。


 誰かが効率化した。


 人間から見れば惨劇でも、誰かから見れば、台帳の整理かもしれない。


 ただ、ひとつ引っかかる。


 これをやれるのは宇宙OSだけのはずなのに、その宇宙OSが、さっきから様子がおかしい。


「宇宙OSログ、追加です」


 高梨さんが言った。


 画面に新しい行が現れる。


 ENTROPY LEDGER CONFLICT.

 エントロピー台帳の競合を検出しました。


 LOCAL COSMIC OS: ACTIVE


 FOREIGN ACCOUNTING LAYER: DETECTED

 外部会計層を検出


 MOUNT POINT: JOVIAN SPHERE

 マウント地点:木星圏


 僕は息を止めた。


 息をする身体はないのに、止めた気がした。


「マウント」


「先輩?」


「外部の何かが、この宇宙を読み込もうとしている」


 その瞬間、木星の夜側が白く裂けた。


 警報が鳴る。


 今度は画面越しではない。

 放課後号の外殻センサーが悲鳴を上げ、観測系が飽和し、船内照明が、何も知らない顔で三回またたいた。


 Botちゃんが、悲鳴の合間に読み上げた。


『ガンマ線バーストを観測。発生源、木星磁気圏内。距離、〇・〇〇三天文単位』


 HULL EXPOSURE: ZERO


『船体被曝、ゼロ。観測履歴被曝、致命的です』


「高梨さん!」


「ラグ・リング、観測前面に展開!」


 放課後号の周囲に、薄い輪が立ち上がった。


 白い閃光が来る。


 窓の外で、木星の縞模様が紙みたいに薄くなった。

 大赤斑の縁が、黒い線でなぞられた。

 エウロパの氷が、まだ来ていない朝を反射した。


 熱は来なかった。

 衝撃も来なかった。


 代わりに、船内のメトロノームが鳴った。


 カチ。


 その周期的な音が、途中で消えた。


 次の瞬間、通信欄が真っ赤になった。


 国連宇宙軍木星前哨基地、第二被害。

 ラグランジュ・キッチン木星支店、外壁区画消失。

 エウロパ研究ステーション、勤務履歴追加焼損。

 木星航路管制、管制官七名の着任記録消失。


「第二波……!」


 高梨さんが歯を食いしばった。


 僕は木星を見た。


 木星の夜側。

 さっき黒い傷があった場所。


 そこに、鉤があった。


 黒い鉤。

 縦の一画だけで、木星の直径を越えていた。

 端が惑星側へ折れ、角ばった棘になっている。

 線の太さは、月ほど。


 放課後号の窓を、それだけが埋めていた。

 木星が、鉤の内側にすっぽり収まっている。


 艶のない、影でもない、光源を持たない黒。

 刃物のような直線の縁だけが、惑星の柔らかい丸みと異質だった。


 縁の触れたところから、縞が真っ直ぐ伸び、深さを失い、黒くなる。

 読まれた端から、木星が平らな跡に変わっていく。


 木星が、その鉤に掛けられようとしていた。

 あるいは、餌にされようとしていた。


「高梨さん」


「はい」


「あれ、入口だ」


「何の」


「この宇宙の外から、こちらをマウントするための」


 そのとき、放課後号の端末が、場違いなほど明るい音を立てた。


 ぴんぽん。


 木星圏で。

 局所ガンマ線バーストの直後に。

 基地が壊れ、履歴が焼け、木星の夜側に黒い鉤が開いている最中に。


 玄関のチャイムが鳴った。


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