表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
重力はラグでした。物理準備室で宇宙を処理落ちさせたら、国立研究所と黒服が来た件  作者: みんとす
第四章 木星圏争奪戦、即席銀河連合軍 ——または、整いすぎると読まれることについて
PR
24/36

第24話 木星圏に、ありえない朝が来た

 木星圏で朝が焼けた。


 そう報告したのは、国連宇宙軍木星前哨基地の観測班だった。


 もちろん、木星に朝はない。

 少なくとも地球人が「朝」と呼ぶものは、あそこにはない。木星は巨大で、速く回り、縞模様をうねらせ、何百年も続く嵐を顔のようにこちらへ向けている。朝だの夜だのという言葉は、木星の前では少しだけ人間くさい。


 だが報告書には、確かにそう書かれていた。


 木星圏標準時、〇四三二。

 木星夜側外縁にて、局所ガンマ線バーストを観測。

 推定発生源、木星磁気圏内。

 推定距離、〇・〇〇四天文単位。

 継続時間、〇・八二秒。


 人体被曝、軽微。

 船体被害、限定的。

 基地施設被害、中等度。

 観測履歴被害、致命的。


 最後の一行だけ、明らかにおかしかった。


 観測履歴被害。


 普通、被害を受けるのは人か、機械か、建物か、財布だ。履歴はあとから消えたり改竄されたりすることはあっても、ガンマ線で焼けるものではない。少なくとも、僕が高校生だったころの物理ではそうだった。


 高校生だったころの物理は、最近あまり信用されていない。


「先輩、起きていますか」


 耳元で高梨さんの声がした。


「起きています」


「三秒前まで反応ありませんでした」


「思考の起動に失敗していた」


「人間はそれを寝ていたと言います」


「僕は現行分類上、人間かどうか怪しいので」


「そこを盾にしないでください」


 通信窓の向こうで、高梨琴音がこちらを見ていた。


 顔色は悪くない。

 けれど目の下に少し疲れがある。火星軌道の試験航行から戻って、まだ二日しか経っていない。放課後号も高梨さんも、ちゃんと整備期間を取るべきだった。


 宇宙は、こちらの勤務体系に興味がない。


「木星圏から正式要請です」


「どこから?」


「国連宇宙軍、ラグランジュ・キッチン、エウロパ研究機構、火星航路管制、小惑星帯保険組合」


「最後の団体だけ急に生活臭い」


「木星圏の保険料率が三分で八倍になったそうです」


「それは正式要請する」


 高梨さんは端末を操作した。


 画面に、木星圏の簡略図が展開される。


 中央に木星。

 その周囲に、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト。

 さらに外側に、国連宇宙軍木星前哨基地。

 ラグランジュ・キッチン木星支店。

 エウロパ氷殻下海洋研究ステーション。

 航路管制ブイ群。

 燃料補給リング。

 民間船団の待避区域。


 その全体に、細い赤い傷のような線が走っていた。


「これがガンマ線バーストの推定波面です」


「近すぎる」


「はい」


「近すぎるどころじゃない。木星圏でこれが出たなら、前哨基地は蒸発しているはずだ」


「蒸発していません」


「ラグランジュ・キッチンは?」


「厨房区画は無事です。ただし、朝定食の販売履歴が全損」


「なぜ朝定食だけ」


「そこは調査中です」


「宇宙は朝ごはんに恨みがあるのかな」


「冗談を言っている場合ではありません」


「冗談を言っていないと、だいたい壊れる」


 僕は表示されたデータを拡大した。


 局所ガンマ線バースト。


 そんなものは普通、木星のそばで起きない。

 ガンマ線バーストは宇宙の遠くで起きる。巨大な恒星の死、中性子星の合体、ブラックホール周辺の凶暴な現象。距離があるから観測できる。近ければ、観測する前に文明が焦げる。


 でも、木星圏はまだあった。


 前哨基地もある。

 人も生きている。

 船も残っている。

 朝定食だけが死んだ。


「宇宙OSのログは?」


「出ています」


 高梨さんが一瞬だけためらった。


「ただ、いつもより変です」


「いつも変じゃない宇宙OSを見たことがない」


「今回は、変さの種類が違います」


 画面が切り替わる。


 黒い背景に、白い文字が並んだ。


 PHYSICAL LAW INCIDENT DETECTED.

 物理法則事案を検出しました。


 INCIDENT CLASSIFICATION: LOCAL HIGH-ENERGY EVENT

 局所高エネルギー事象


 CAUSE: UNDETERMINED


 ENTROPY ACCOUNTING: EXTERNAL RECALCULATION DETECTED

 エントロピー会計:外部再計算を検出


 LOCAL HISTORY LEDGER: PARTIALLY BURNED IN JOVIAN SPHERE

 局所履歴台帳:木星圏一部焼損


 ADVISORY: DO NOT CONTINUE OBSERVATION.


 ADVISORY STATUS: ALREADY OBSERVED.


「遅い」


「はい。宇宙OSの注意喚起は、だいたい事故後に届きます」


「人類の始末書文化と親和性が高い」


 僕は、ENTROPY ACCOUNTINGの行を見つめた。


 外部再計算。


 宇宙のエントロピー収支が、外部から再計算された。


 嫌な言葉だった。

 意味がわからないのに、わかった気がする。台所の冷蔵庫を勝手に整理されたときに近い。賞味期限は正しくなったが、家の秩序は壊れる。


「高梨さん」


「はい」


「木星圏に、外から何か来ている」


「外、というのは」


「太陽系外じゃないかもしれない」


 高梨さんは、しばらく黙った。


「放課後号、出せます」


「整備は?」


「八割」


「残り二割は?」


「気合いです」


「宇宙機の整備に使っていい単語ではない」


「先輩がそれを言いますか」


 言い返せなかった。


 僕は椅子に深く座った。


 正確には、座ったというより、外部ネットワーク上の応答体として、そういう気分になった。肉体はない。戸籍処理はまだ面倒だ。現行の扱いは「外部ネットワーク経由で応答する卒業生」である。


 卒業生。


 いい言葉だ。

 生きているのか死んでいるのか、宇宙OSのサポート窓口に回されていたのか、三年ほど世界の外側で迷子だったのかを、全部ほどよく隠せる。

 ついでに、こちらだけが歳をとっていないことも、隠せる。

 隠せて、助かっている部分が、たぶん少しある。


「また、失礼なことを考えていますね」


「卒業生という分類の偉大さについて」


「出発しますよ」


「はい」


 高梨さんの後ろで、放課後号のラグ・リングが淡く光った。


 リングは巨大な金属輪ではない。

 正確には、金属だけではない。航行体の周囲に、重力と観測履歴と待機状態を編み合わせた、薄い輪が発生する。僕たちはそれをラグ・リングと呼んでいる。


 ラグ場。


 宇宙が出来事を履歴として確定する前に生じる、わずかな処理遅延。

 重力はその副産物であり、航行はその悪用である。


 言葉にすると、ろくでもない。


 実際、ろくでもない。


「木星まで、どれくらい」


「通常航路なら数週間。ラグ・ドライブ拡張なら、二十三分」


「いい時代になった」


「その言い方をすると、だいたい悪い時代が来ます」


 放課後号が出港準備に入る。


 地球低軌道の管制が、慌ただしく回線を開いた。

 月面基地が、木星圏の観測を同期する。

 火星航路管制が、非常時の中継帯域を解放する。

 小惑星帯保険組合が、損害算定用の自動監査AIを送り込もうとして、国連宇宙軍に止められる。


 太陽系が、少しだけ一つの部屋になった。


 その部屋の奥で、木星だけが白く焼けている。


 放課後号の船内照明が落ちた。


 ラグ・リングが起動する。


 端末から、声がした。


 放課後号に積みっぱなしの、古いLLMベースのBotちゃんだった。サポートはとっくに終わっている。それでも、航行系も、センサーも、船じゅうの計器という計器に勝手に相乗りして、片端から読み上げ、頼まれない注記まで律儀に差し込んでくる。許可を取った記録は、どこにもない。


 DESTINATION: JOVIAN SPHERE


『目的地、木星圏。航路を引きました』


『注記。到着先は、到着を記録していない可能性があります。留意してください』


「高梨さん」


「はい」


「これ、すごく嫌だ」


「私もです」


「行こう」


「はい」


 放課後号は、地球の周回軌道から消えた。


 消えたという表現は、正しくない。


 まだ出発していない地球と、もう到着しかけている木星の間に、宇宙が少しだけ困った顔をした。


 その困った顔のしわを、放課後号は滑り抜けた。


 到着先が、到着を覚えていない場所へ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ