第24話 木星圏に、ありえない朝が来た
木星圏で朝が焼けた。
そう報告したのは、国連宇宙軍木星前哨基地の観測班だった。
もちろん、木星に朝はない。
少なくとも地球人が「朝」と呼ぶものは、あそこにはない。木星は巨大で、速く回り、縞模様をうねらせ、何百年も続く嵐を顔のようにこちらへ向けている。朝だの夜だのという言葉は、木星の前では少しだけ人間くさい。
だが報告書には、確かにそう書かれていた。
木星圏標準時、〇四三二。
木星夜側外縁にて、局所ガンマ線バーストを観測。
推定発生源、木星磁気圏内。
推定距離、〇・〇〇四天文単位。
継続時間、〇・八二秒。
人体被曝、軽微。
船体被害、限定的。
基地施設被害、中等度。
観測履歴被害、致命的。
最後の一行だけ、明らかにおかしかった。
観測履歴被害。
普通、被害を受けるのは人か、機械か、建物か、財布だ。履歴はあとから消えたり改竄されたりすることはあっても、ガンマ線で焼けるものではない。少なくとも、僕が高校生だったころの物理ではそうだった。
高校生だったころの物理は、最近あまり信用されていない。
「先輩、起きていますか」
耳元で高梨さんの声がした。
「起きています」
「三秒前まで反応ありませんでした」
「思考の起動に失敗していた」
「人間はそれを寝ていたと言います」
「僕は現行分類上、人間かどうか怪しいので」
「そこを盾にしないでください」
通信窓の向こうで、高梨琴音がこちらを見ていた。
顔色は悪くない。
けれど目の下に少し疲れがある。火星軌道の試験航行から戻って、まだ二日しか経っていない。放課後号も高梨さんも、ちゃんと整備期間を取るべきだった。
宇宙は、こちらの勤務体系に興味がない。
「木星圏から正式要請です」
「どこから?」
「国連宇宙軍、ラグランジュ・キッチン、エウロパ研究機構、火星航路管制、小惑星帯保険組合」
「最後の団体だけ急に生活臭い」
「木星圏の保険料率が三分で八倍になったそうです」
「それは正式要請する」
高梨さんは端末を操作した。
画面に、木星圏の簡略図が展開される。
中央に木星。
その周囲に、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト。
さらに外側に、国連宇宙軍木星前哨基地。
ラグランジュ・キッチン木星支店。
エウロパ氷殻下海洋研究ステーション。
航路管制ブイ群。
燃料補給リング。
民間船団の待避区域。
その全体に、細い赤い傷のような線が走っていた。
「これがガンマ線バーストの推定波面です」
「近すぎる」
「はい」
「近すぎるどころじゃない。木星圏でこれが出たなら、前哨基地は蒸発しているはずだ」
「蒸発していません」
「ラグランジュ・キッチンは?」
「厨房区画は無事です。ただし、朝定食の販売履歴が全損」
「なぜ朝定食だけ」
「そこは調査中です」
「宇宙は朝ごはんに恨みがあるのかな」
「冗談を言っている場合ではありません」
「冗談を言っていないと、だいたい壊れる」
僕は表示されたデータを拡大した。
局所ガンマ線バースト。
そんなものは普通、木星のそばで起きない。
ガンマ線バーストは宇宙の遠くで起きる。巨大な恒星の死、中性子星の合体、ブラックホール周辺の凶暴な現象。距離があるから観測できる。近ければ、観測する前に文明が焦げる。
でも、木星圏はまだあった。
前哨基地もある。
人も生きている。
船も残っている。
朝定食だけが死んだ。
「宇宙OSのログは?」
「出ています」
高梨さんが一瞬だけためらった。
「ただ、いつもより変です」
「いつも変じゃない宇宙OSを見たことがない」
「今回は、変さの種類が違います」
画面が切り替わる。
黒い背景に、白い文字が並んだ。
PHYSICAL LAW INCIDENT DETECTED.
物理法則事案を検出しました。
INCIDENT CLASSIFICATION: LOCAL HIGH-ENERGY EVENT
局所高エネルギー事象
CAUSE: UNDETERMINED
ENTROPY ACCOUNTING: EXTERNAL RECALCULATION DETECTED
エントロピー会計:外部再計算を検出
LOCAL HISTORY LEDGER: PARTIALLY BURNED IN JOVIAN SPHERE
局所履歴台帳:木星圏一部焼損
ADVISORY: DO NOT CONTINUE OBSERVATION.
ADVISORY STATUS: ALREADY OBSERVED.
「遅い」
「はい。宇宙OSの注意喚起は、だいたい事故後に届きます」
「人類の始末書文化と親和性が高い」
僕は、ENTROPY ACCOUNTINGの行を見つめた。
外部再計算。
宇宙のエントロピー収支が、外部から再計算された。
嫌な言葉だった。
意味がわからないのに、わかった気がする。台所の冷蔵庫を勝手に整理されたときに近い。賞味期限は正しくなったが、家の秩序は壊れる。
「高梨さん」
「はい」
「木星圏に、外から何か来ている」
「外、というのは」
「太陽系外じゃないかもしれない」
高梨さんは、しばらく黙った。
「放課後号、出せます」
「整備は?」
「八割」
「残り二割は?」
「気合いです」
「宇宙機の整備に使っていい単語ではない」
「先輩がそれを言いますか」
言い返せなかった。
僕は椅子に深く座った。
正確には、座ったというより、外部ネットワーク上の応答体として、そういう気分になった。肉体はない。戸籍処理はまだ面倒だ。現行の扱いは「外部ネットワーク経由で応答する卒業生」である。
卒業生。
いい言葉だ。
生きているのか死んでいるのか、宇宙OSのサポート窓口に回されていたのか、三年ほど世界の外側で迷子だったのかを、全部ほどよく隠せる。
ついでに、こちらだけが歳をとっていないことも、隠せる。
隠せて、助かっている部分が、たぶん少しある。
「また、失礼なことを考えていますね」
「卒業生という分類の偉大さについて」
「出発しますよ」
「はい」
高梨さんの後ろで、放課後号のラグ・リングが淡く光った。
リングは巨大な金属輪ではない。
正確には、金属だけではない。航行体の周囲に、重力と観測履歴と待機状態を編み合わせた、薄い輪が発生する。僕たちはそれをラグ・リングと呼んでいる。
ラグ場。
宇宙が出来事を履歴として確定する前に生じる、わずかな処理遅延。
重力はその副産物であり、航行はその悪用である。
言葉にすると、ろくでもない。
実際、ろくでもない。
「木星まで、どれくらい」
「通常航路なら数週間。ラグ・ドライブ拡張なら、二十三分」
「いい時代になった」
「その言い方をすると、だいたい悪い時代が来ます」
放課後号が出港準備に入る。
地球低軌道の管制が、慌ただしく回線を開いた。
月面基地が、木星圏の観測を同期する。
火星航路管制が、非常時の中継帯域を解放する。
小惑星帯保険組合が、損害算定用の自動監査AIを送り込もうとして、国連宇宙軍に止められる。
太陽系が、少しだけ一つの部屋になった。
その部屋の奥で、木星だけが白く焼けている。
放課後号の船内照明が落ちた。
ラグ・リングが起動する。
端末から、声がした。
放課後号に積みっぱなしの、古いLLMベースのBotちゃんだった。サポートはとっくに終わっている。それでも、航行系も、センサーも、船じゅうの計器という計器に勝手に相乗りして、片端から読み上げ、頼まれない注記まで律儀に差し込んでくる。許可を取った記録は、どこにもない。
DESTINATION: JOVIAN SPHERE
『目的地、木星圏。航路を引きました』
『注記。到着先は、到着を記録していない可能性があります。留意してください』
「高梨さん」
「はい」
「これ、すごく嫌だ」
「私もです」
「行こう」
「はい」
放課後号は、地球の周回軌道から消えた。
消えたという表現は、正しくない。
まだ出発していない地球と、もう到着しかけている木星の間に、宇宙が少しだけ困った顔をした。
その困った顔のしわを、放課後号は滑り抜けた。
到着先が、到着を覚えていない場所へ。




