第21話 床が、迎えに行った
到着ロビーは、青く光っていた。
床の一部が、待合席の足元から淡い線を伸ばしている。
光はロビー中央で折れ、三〇二便の到着ゲートへ向かって集まっていた。
待っている人の足元だけが、重い。
物理的な意味で。
ベンチの脚が床に沈み込み、荷物カートがゆっくり傾く。
案内表示が警告を出す。
局所重力異常:+0.04G
局所重力異常:+0.07G
局所重力異常:+0.12G
「じわじわ死ぬ数字だ」
ラフマニが言った。
「笑えないな」
「笑える単位に換算しようか」
「するな」
ミナトはロビーの中央に立った。
足が重い。
床が、こちらを引いている。
いや、正確には、床の向こうで待たれている何かが、到着するための経路を探している。
少女が、青い床を見下ろした。
「これは、私たちの待機です」
「九千六百人分?」
「もう、違います」
端末が更新された。
待機中:38400
「増え方が嫌すぎる」
次の瞬間、ロビー全体が斜めになった。
実際に床が曲がったわけではない。
重力の下が、到着ゲート側へずれた。
ミナトの靴底が、ばち、と鳴った。
清掃班の作業靴は、磁着ブーツを兼ねている。
濡れた床でも、低重力でも、突然の無重量でも、まず作業員が転ばないための装備だ。
そのおかげで、ミナトは膝を折るだけで済んだ。
人が倒れる。
荷物カートが一斉に走り出す。
ベルトパーティションの支柱が、青い床の上を滑っていく。
子どもが泣き、誰かがスーツケースを押さえようとして膝をついた。
年配の男性がベンチの脚に肩をぶつけ、うずくまった。
少女の体が、ふわりと横へ流れた。
まだ港の床に慣れていない足が、青い線に取られる。
ミナトは反射で腕を伸ばした。
少女はその腕にしがみついた。
「離すな」
「予定にありません」
「今、予定を増やせ」
少女は両手でミナトの作業着をつかんだ。
ミナトの磁着ブーツが、床にもう一度、ばち、と貼りついた。
天井の案内板が、重力方向を取り違えたように斜めに揺れた。
局所重力異常:+0.18G
床面勾配換算:6.4度
待機質量集中:危険
「六度って、坂じゃん」
「ロビーで坂をやるな」
港湾災害モードが起動した。
黄色い誘導灯が床を走り、透明な隔壁がゆっくり降り始める。
だが隔壁は途中で止まった。
青い線が、その下をくぐってゲートへ向かっている。
壁の非常収納が、一斉に開いた。
救助ライン。
伸縮ロープ。
床面アンカー。
磁着ブーツ。
無重量時用の手首ハーネス。
地球低軌道港の待合ロビーは、見た目こそ駅ビルに似ているが、法律上は半分、船の中だった。
床が上でも下でもなくなる事故は、想定されている。
自動音声が割れた。
『港湾災害モード。重力偏差を検出。待機者は、低重力避難帯へ移動してください。なお、低重力避難帯は現在、待機者によって重くなっています』
「案内が詰んでる」
ラフマニが端末を叩いた。
「重力制御、補正入れるぞ。清掃班権限で床面軽減」
「清掃班にそんな権限あるのか」
「床を濡らした時に使う」
「用途が違いすぎる」
「床が危ない点では同じだ」
ミナトは壁の収納から救助ラインを引き抜いた。
黄色いロープの先には、平たいアンカーが付いている。
床に叩きつけると、アンカーは青い光を避けるように少し滑り、それから白い火花を散らして固定された。
「固定、弱い」
「待機質量に引かれてる。二点で取れ」
ラフマニが叫んだ。
ミナトは二本目のアンカーを柱に打ち込み、ロープを腰のハーネスへ通した。
「清掃班って、何でもするな」
「床が関係すればだいたいうちだ」
保安員が転倒した男性へ滑り寄った。
保安員の磁着ブーツの靴底も、床に貼りつくたびに、ばち、ばち、と短く鳴る。
「肩、動かせますか」
「重い、立てない」
「立たないでください。ロープ渡します」
ミナトは救助ラインを投げた。
ロープは重力の傾きに引かれ、途中でぐにゃりと曲がった。
「ロープまで曲がるのかよ」
「文句を言うな。宇宙も必死だ」
「こっちも必死だ」
ラフマニが非常パネルを開いた。
FLOOR SAFETY OVERRIDE
清掃・避難用ラグ場軽減
有効時間:90秒
注意:待機質量の原因を除去するものではありません
「九十秒だけ軽くできる」
「やれ」
「やってる」
足元が一瞬、ふっと浮いた。
ロビーの重さが抜ける。
倒れかけていた荷物カートが、床から二センチ浮いて止まった。
泣いていた子どもの靴底が青い線から離れ、母親が抱き上げる。
転倒した男性の肩から、ようやくベンチの重さが抜けた。
保安員が手首ハーネスをかけ、救助ラインに固定する。
少女はまだ、ミナトの作業着をつかんでいた。
「もう大丈夫」
「離す予定がありません」
「予定、増やしたり減らしたりしろ」
だが、軽くなったのは床だけだった。
待機質量そのものは、ゲート前へ集まり続けている。
重力異常:+0.10G
重力異常:+0.13G
重力異常:+0.16G
「戻ってる」
「九十秒もたないな」
天井側の収納が破裂するように開いた。
軌道エレベータ規格の牽引ハーネスが、何本も射出された。
太いベルトが空中でほどけ、床面アンカーへ向かって飛ぶ。
だが、待機重力はロビーの床だけを引いているわけではなかった。
ハーネスの半分はゲート側へ吸われ、青い線の上でばたばた暴れた。
非常用エアバッグが、ぱん、ぱん、ぱん、と膨らむ。
壁際には丸い救命気嚢が飛び出し、浮き輪みたいに転がった。
荷物カートがそれにぶつかり、気嚢ごとゲート側へ流される。
「気球でも出せ!」
ラフマニが叫んだ。
「ロビーに気球はない!」
「じゃあ脱出艇!」
「外壁側だ。今、ゲート側が重い」
「全部だめじゃないか」
「だめだな」
非常パネルの外部支援欄が、自動で開いた。
港湾災害救助信号:発信済み
軌道保安艇:最短到着、九分後
周辺商業船:接触事故回避のため退避中
「九分」
「床面軽減は残り何秒だ」
「見たくない」
ミナトは非常パネルを叩いた。
清掃班権限で開けられるものは、もうほとんど開けていた。
床面軽減。
滑走防止泡。
低重力避難帯。
排水溝ロック。
清掃ロボットの緊急停止。
床に白い滑走防止泡が吹き出す。
だが泡は青い線の上だけ薄く伸ばされ、到着ゲートへ向かって流れた。
「待機重力を消せないのか」
ラフマニが言った。
端末が即答した。
待機重力の解除条件:待機の終了
「待つなってことか」
ミナトはロビーを見た。
迎えに来た家族。
遅延に苛立つ乗客。
救助ラインに体を預けた転倒者。
泣いている子どもを抱えた親。
隔壁の手前で立ち往生する清掃ロボット。
誰も、もう落ち着いて待ってなどいなかった。
それでも全員が、どこかでゲートを見ていた。
「無理だ」
「無理でも、床が上がってる」
ラフマニの声が、少しだけ裏返った。
残り、12秒。
壁の表示が赤くなった。
床面軽減、終了準備。
低重力避難帯、過負荷。
待機質量集中、継続。
ミナトは少女を片腕で抱え直した。
磁着ブーツの固定音が、ばち、ばち、ばち、と細かく鳴る。
「離すな」
「予定にありません」
「それは助かる」
残り、5秒。
床が、さらに沈んだ。
残り、4秒。
救命気嚢が一つ、天井へではなく、横へ落ちた。
残り、3秒。
誰かが「もう待てない」と叫んだ。
残り、2秒。
それでも、ゲートを見ていた。
残り、1秒。
その瞬間。
ロビーの傾きが、戻り始めた。
何かが、外側から床の下へ手を差し込んだようだった。
ゲート側へ流れていた荷物カートが止まる。
暴れていた牽引ハーネスが、だらりと床に落ちる。
救命気嚢が、ようやく丸い形のまま静止する。
隔壁の途中停止ランプが黄色から白へ変わる。
ミナトは息を止めた。
「何が起きた」
ラフマニが窓の外を見た。
「……おい」
地球低軌道港の外壁側。
そこに、小さな白い船体がいた。
細長い船。
船体前方の黒い環状構造。
青く光るラグ・リング。
放課後号。
人類が初めて商業ラグ航行に使った船だった。
「なんで、ここにいる」
ラフマニが呟いた。
「木星のエウロパに行ってるはずだろ」




