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第2話 宇宙の手抜きについて

 琴音は、その日の下校時刻を無視した。


 校内放送で「生徒は速やかに下校してください」と流れたが、速やかに宇宙が処理落ちしている場合ではない。彼女は物理準備室の鍵を内側から閉め、共有端末に向かった。


 端末は古かったが、有線LANでサーバーラックにつながっていた。

 パスワードは、なぜか付箋に書かれていた。


 ID: physics

 PASS: gravity_is_not_force


「セキュリティ意識、ゼロ」


 ログインすると、デスクトップにフォルダがひとつだけあった。


 SEO_ARCHIVE_DO_NOT_OPEN


「開けるなって言われると開けるよね」


 フォルダの中には、実験ログと、数式メモと、奇妙なテキストファイルが山ほど入っていた。


 琴音は、目についたファイルを開いた。


 gravity_note_17.txt


 中身は短かった。


 > 重力は力ではない。

 > 時空の曲率でもない。

 > それらは観測者側の記述である。

 >

 > 実装層では、重力とは局所更新率の勾配である。

 >

 > 質量は状態数を増やす。

 > 状態数は整合性維持コストを増やす。

 > 整合性維持コストは更新率を下げる。

 > 更新率の差が、固有時間の差として観測される。

 > 固有時間の勾配を、我々は重力と呼ぶ。


 琴音は、画面の前で固まった。


「……やっぱり、そういう方向なの」


 宇宙が巨大な計算機であるという仮説は、珍しくはない。

 シミュレーション宇宙論。デジタル物理学。ホログラフィック原理。情報と重力の関係。ブラックホールのエントロピー。


 琴音も、そういう話は好きだった。好きだったが、それは夜中に布団の中で読むタイプの話であって、放課後の物理準備室で実測するものではない。


 次のファイルを開く。


 local_os_model.md


 > 仮説:

 > 宇宙は連続体ではなく、観測整合性を維持する巨大な状態更新系である。

 >

 > 注意:

 > 「コンピュータでできている」と言うと怒られる。

 > 「OS」と言うともっと怒られる。

 > でもOSと呼ぶのがいちばんわかりやすい。

 >

 > 重力源とは、宇宙OSにとって高負荷なプロセスである。

 > ブラックホールとは、更新要求が外部に返らなくなる領域である。

 > 事象の地平面とは、観測者に返答可能な最終API境界である。

 >

 > 結論:

 > 質量とは、宇宙が嫌がるデータ構造である。


「瀬尾先輩、性格悪そう」


 琴音はそう言いながらも、目が離せなかった。


 瀬尾の仮説は乱暴だった。

 だが、物理を否定していない。


 一般相対性理論では、質量とエネルギーが時空を曲げる。

 物体は、その曲がった時空に沿って運動する。

 だから重力は力ではなく、幾何である。


 瀬尾は、その幾何をさらに一段下から説明しようとしていた。


 なぜ時空が曲がるのか。

 なぜ質量が固有時間を遅らせるのか。

 それは、宇宙がその領域の状態を整合的に更新するために、計算資源を多く割くからではないか。


 局所更新率が下がる。

 時間が遅れる。

 その勾配に沿って、物体は落ちる。


「重力は、ラグ……」


 琴音は呟いた。


 言ってから、背筋がぞくりとした。


 馬鹿げている。

 でも、目の前でメトロノームは遅れている。


 ラックの中の黒い箱は、物理準備室の空間を丸ごとシミュレートしている。さらに、そのシミュレーション内に同じ装置を置いている。再帰的に、何層も、何層も。


 実際の質量は増えていない。

 でも、情報密度は増えている。

 宇宙OSにとって、この一角は「妙に整合性維持コストの高い場所」になっている。


 宇宙は、そこだけ時間のフレームレートを落としている。


 琴音はディスプレイを見た。


 DEPTH: 41

 LOAD: 99.2%

 BOUNDARY STRESS: CRITICAL


 空気が、ゆらりと歪んだ。


 ラックの前に置いたメトロノームが、目に見えて遅くなった。


 カチ。


 長い沈黙。


 カチ。


「やばい」


 止めるしかない。

 ただの機械だ。コンセントを抜けば、それで終わる。


 琴音はそう自分に言い聞かせて、ラックに向かって足を踏み出した。


 一歩目は、普通だった。

 二歩目で、空気が変わった。

 三歩目で、彼女は気づいた。


 近づくほど、自分の時間が、遅れていく。


「――えっ」


 全力で腕を伸ばす。

 指先が、水飴の中に沈むように動かない。

 筋力の問題ではない。空気抵抗でもない。

 自分の体の時間だけが、じわじわと粘度を増していく。


 アキレスと亀。


 近づくほど時間が遅れ、遅れるから近づけない。

 物理的に到達不能な、半径一メートルの地平面。


「この、馬鹿先輩……!」


 琴音は歯を食いしばって、腕を引き戻した。

 引き戻すのにも、時間がかかった。


 ようやく安全圏まで下がったとき、彼女は肩で息をしていた。


 ディスプレイに、赤い文字が出る。


 BOUNDARY BREACH IMMINENT


 物理準備室の床が、低く唸った。

 ガラス戸の向こうで、廊下の蛍光灯が一瞬だけちらついた。

 ホワイトボードに書いた文字が、ほんの少しだけ滲んで見えた。

 机の上のビー玉が、ラックに向かってゆっくり転がり始めた。


 質量はない。

 なのに、落ちている。


 情報に向かって、世界が落ちている。


 琴音は、唇を噛んだ。


 半径一メートル。

 そこから先には、もう、足を踏み入れることができない。

 ただの空間が、世界の終わりみたいに、遠かった。


 物理的に届かないなら。


「――論理で、落とすしかない」

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