第1話 メトロノームは二度遅れる
放課後の物理準備室で、メトロノームが嘘をついていた。
木製の古い三角錐。銀色の振り子。音楽室から払い下げられた、誰も使わない拍節器。
それが、サーバーラックの前に置いた瞬間だけ、わずかに遅れる。
高梨琴音は、スマートフォンの画面と、机の上のストップウォッチと、メトロノームの針を見比べた。
「……絶対におかしい」
スマホはNTPサーバーに同期している。
ストップウォッチは安物だが、五分で数マイクロ秒もズレるほど雑ではない。
そしてメトロノームは、そもそもネットにつながっていない。ソフトウェア更新もなければ、メーカーの陰謀もない。ただのぜんまいと錘と摩擦の塊だ。
なのに三つとも、同じ場所で同じ方向に狂った。
物理準備室の北東の隅。
ホコリをかぶった黒いサーバーラック。
その半径一メートルだけ、時間が遅い。
「質量なし。高速運動なし。強重力源なし。なのに時間遅延」
琴音はホワイトボードに、青いマーカーで雑な字を書いた。
Δt < 0
その下に、さらに書く。
原因:不明。
ただし宇宙のほうが間違っている可能性あり。
書いてから、自分で笑った。
「いや、さすがに宇宙は間違えないか」
そのときだった。
サーバーラックの奥で、青いLEDがひとつ点滅した。
ピ。
メトロノームが、一拍だけ遅れた。
琴音は笑うのをやめた。
物理準備室は、旧校舎の三階の端にあった。窓の外には、グラウンドと、遠くの国道と、夕方のコンビニの看板が見える。野球部の掛け声が間延びして聞こえる時間帯で、化学室からは誰かが洗い忘れたビーカーのにおいが漂ってくる。
ここは、世界の中心ではない。
少なくとも、世界の中心であってはならなかった。
なのに琴音のスマホには、さっきから奇妙なログが残っている。
サーバーラックの近くにスマホを置く。
五分待つ。
手元のストップウォッチと比較する。
スマホ側が、平均して四・八マイクロ秒遅れる。
場所を変える。
誤差は消える。
もう一度近づける。
遅れる。
温度差ではない。磁場でもない。電波干渉でもない。琴音は念のため、スマホを機内モードにして、別の古いデジタル時計も持ってきた。それでも、ラックの周辺だけ、時間の進みが遅い。
さらに問題なのは、電子機器だけではなかった。
メトロノームの音が、わずかに間延びして聞こえる。
棚の上から落とした消しゴムの落下が、ラックのそばを通ると、ほんの少しだけ遅く見える。
カーテンの揺れ方が、そこだけ水の中みたいに重い。
琴音は椅子に座り、唇を噛んだ。
相対論的な時間遅れ。
普通なら、巨大な質量か、高速運動が必要になる。
地球の重力ですら、日常のスケールではほとんど感じられない。ましてや高校の物理準備室の隅で、スマホの時計に測れるほどの時間遅延が出るなど、ありえない。
ありえない。
だから、面白い。
「……開けるしかないよね」
琴音はサーバーラックの前に立った。
古いラックだった。校内LANの更新で使われなくなった機材、壊れたUPS、どこかの卒業生が置いていった謎の基板類。そういうものが雑に詰め込まれている、物理準備室の魔窟である。
扉には南京錠がかかっていた。
南京錠には、黄色い付箋が貼られていた。
瀬尾へ。卒業までに片付けろ。
物理部顧問 佐伯
琴音は眉をひそめた。
「瀬尾先輩……?」
名前だけは知っていた。三年前に卒業した情報科学部の伝説の先輩。学校のサーバーを勝手に高速化し、電子黒板の起動時間を三分短縮し、文化祭の入場者管理システムを作り、ついでに校内の自販機が売り切れる時刻を予測する謎アプリを残した人物。
ただし、教師たちからは「便利だったが二度と来るな」と言われていたらしい。
琴音はラックの取っ手を引いた。
鍵は、かかっていなかった。
「かかってないんかい」
扉を開けると、冷たい空気が流れ出した。
中には、見慣れない装置があった。
黒い箱。
青いLED。
小型の冷却ファン。
剥き出しの配線。
そして前面の小さなディスプレイに、白い文字が流れている。
LOCAL RECURSIVE GEOMETRY EMULATOR
DEPTH: 37
LOAD: 98.7%
BOUNDARY STRESS: WARNING
琴音は、声を出さずに口を開けた。
「ローカル……再帰……幾何エミュレータ?」
下に、小さな紙が挟まっていた。
手書きのメモだった。
字はひどく汚い。
この物理準備室をシミュレートする。
その中の物理準備室にも同じ装置を置く。
その中にも同じ装置を置く。
宇宙がどこで嫌がるかを見る。
琴音は、ゆっくりとメモを読み返した。
読み返してから、もう一度、ラックの奥で唸る黒い箱を見た。
「バカじゃないの?」
物理準備室の空気が、わずかに揺れた。
まるで宇宙そのものが、同意したみたいだった。




