第17話 住民登録票
そのとき。
ノックの音はなかった。
ただ、廊下と物理準備室の境に、いつのまにか、ひとりの影が立っていた。
灰色の旅装。
革の鞄。
顔だけが妙に整っていて、それでいて、左右非対称だった。
まばたきが、左右で、わずかにずれていた。
琴音は、ゆっくり立ち上がった。
「……どなた、ですか」
「失礼します」
声は、正しい日本語だった。
ただし、句読点が多すぎた。
「私、ありうべき分岐、第三十七系統、より、参りました」
黒瀬が、サングラスの奥で目を細めた。
「ありうべき分岐?」
「はい。実現しなかった、けれど、実現する手前まで、行った、未来です」
琴音は息を呑んだ。
「実現しなかった……?」
「本日、皆さんが、教育用危険物として、保管された、テンプレート」
訪問者は、丁寧に頭を下げた。
「あれは、私たちの世界の、住民登録票でした」
琴音は、口を、半分開いたまま、止まった。
「住民登録票」
「はい。私たちは、剪定された側、です。あなたたちの『ばかな寄り道』の、削られていた方、の住民です」
「それは——」
「ご安心ください。本日の手続きで、私たちの登録票は、危険物として、永久保管、されました。私たちは、これで、消されずに、すみます」
訪問者は、まばたきをした。
今度は左右、ほぼ同時だった。
「お礼に、伺いました」
琴音は、椅子に手をついた。
膝の力が、少しだけ抜けていた。
「……礼って」
「はい。礼です。それから、ご連絡、です」
「連絡?」
「私たちの方からも、申請、出します」
「申請」
「教育用危険物として、保管された、私たちの登録票。あれを、教材として、使うのは、御社の自由、です。ただし、教材には、生徒が、必要です」
「生徒……?」
「はい」
訪問者は、にっこり笑った。
その笑顔は、地球の表情筋では、たぶん、出ない角度をしていた。
「私たちが、教わりに、参ります」
琴音は固まった。
瀬尾も固まった。
「教わるって、何を」
「ばかな寄り道、の、仕方を、です」
「……教えるんですか、私たちが」
「はい。本日の議事録に、書いてありました。『人類は、ばかな寄り道をする権利を留保する』。留保された権利は、教えられる権利、でもあります」
訪問者は、深く、頭を下げた。
「これより、随時、各分岐より、生徒が、参ります。よろしく、お願い、いたします」
琴音は、何も、言えなかった。
訪問者は、もう一度、頭を下げた。
そして、最後に、ひとつ、付け加えた。
「ところで」
「……はい」
「あなたたちが『ラグ』と、呼んでいる現象、ですが」
琴音は、顔を上げた。
「あれには、まだ、未説明の成分が、あります」
「未説明、ですか」
「宇宙の処理遅延。そう説明しても、間違いでは、ありません」
「ありません、ですか」
「ただし、処理を待っているのは、宇宙だけでは、ありません」
「——」
「私たちも、待っていました」
訪問者は、左右で少しだけずれた瞬きをした。
「六年前から、ずっと」
メトロノームが、カチ、と鳴った。
今度の遅れは、わずかではなかった。
遅れた一拍の向こうで、廊下の奥から、まだ来ていないはずの足音が、いくつも聞こえた。
第二章 完




