第16話 忘れ物:地球
画面が白く光る。
EDUCATIONAL USE LICENSE: ACCEPTED.
(教育目的ライセンス:承認)
LEGACY TEMPLATE RECLASSIFIED AS HAZARD MATERIAL.
(旧版テンプレート:危険物に再分類)
COMMERCIAL APPLICATION: PROHIBITED.
(商業利用:禁止)
LOCAL OBSERVER COMMENT RECORDED: HUMANITY RESERVES THE RIGHT TO MAKE STUPID DETOURS.
(現地観測者の発言を記録:人類は、ばかな寄り道をする権利を留保する)
「最後の一文、記録されましたよ」
有馬が言った。
「消してください」
「無理です。宇宙の正式議事録です」
情報結晶の光が収まっていく。
観測窓の外で、点検ドローンが少しだけ軌道を外した。
次の噴射光は、さっきまでと違う角度だった。
味噌汁の袋を口元で止めていた作業員が、むせた。
近くの職員が慌てて吸水シートを投げる。
廊下の音が戻る。
空調が唸る。
誰かが咳をする。
航路会計ノードの片隅で、待機中だった乱数検査端末が、百一回目に六を出した。
担当者が泣いた。
黒瀬は通信を切り、三鷹理事を見た。
「未承認テンプレートの商用適用未遂として、事情を聞かせていただきます」
三鷹は一度だけ、目を閉じた。
「逃げません」
「助かります。逃げられると書類が増えます」
「私は、人類の利益という言葉を使いました」
「はい」
「たぶん、二度と雑には使えません」
黒瀬はサングラスをかけ直した。
「その方がいいです。あの言葉は、よく汚れます」
その日の最終便で、琴音たちは地球へ戻った。
大気圏再突入の窓際席で、有馬は最後まで目を閉じていた。
黒瀬は到着後の事情聴取予定を確認し、琴音は足元の紙袋に残った昆布のおにぎりを見て、今さら食べ時を失ったことに気づいた。
地上に降りると、日常は何事もなかったような顔をして待っていた。
琴音は、乾燥まで回し忘れた洗濯物を洗い直し、L4便の薄いコーヒーの味を忘れようとして、大学の端末室で二回ほど何も届いていない受信箱を確認した。
火星航路は暫定ダイヤで動いていた。
月面港では遅延証明書の書式がまた変わり、航路会計ノードからは「教育用危険物の保管棚卸し」という、人生で二度と見たくない件名のメールが来た。
三日目の夕方、黒瀬から短い連絡が入った。
瀬尾の返送座標が確定しました。
場所:旧物理準備室。
予定時刻:明日、放課後。
琴音は、その表示をしばらく見つめた。
旧、が付いている。
自分が通っていたころは、ただの物理準備室だった。
放課後にメトロノームが鳴り、埃っぽい棚に実験器具が詰まり、瀬尾先輩のせいで宇宙が少し遅れた場所。
翌日の放課後、琴音は母校の校門をくぐった。
校舎の外壁は塗り直されていたが、昇降口の床の傷はあまり変わっていなかった。
来客用スリッパは相変わらず少し小さい。
廊下には、知らない後輩たちの部活勧誘ポスターが貼られている。
琴音は受付で名前を書き、用件欄に少し迷ってから、瀬尾先輩の受け取り、と書いた。
受付の事務員は、何も聞かなかった。
もう慣れているのかもしれない。
瀬尾先輩の返送場所は、かつて琴音が通っていた高校の物理準備室だった。
なぜそこなのかは、結局、誰にもわからなかった。
宇宙外部ネットワーク側の転送座標が、最初に例外処理を起こした地点に紐づいていたらしい。
物理準備室には、六年前と同じメトロノームが置かれていた。
新しいサーバーラックはない。さすがに撤去された。
跡地には「ここに勝手に計算機を置かないこと」と書かれた張り紙があった。
その下に小さく、「特に瀬尾」と手書きで追記されていた。
琴音、有馬、黒瀬、そして数名の監査室職員が見守るなか、部屋の中央が淡く光った。
光の中から、ひとりの青年が落ちてきた。
「痛っ」
瀬尾は床に尻もちをついた。
灰色の作業服のまま。
手には、宇宙の業務用らしき端末を抱えている。
端末には付箋が貼ってあった。「忘れ物:地球」と書いてあった。
琴音は、何を言えばいいのかわからなかった。
直接の思い出があるわけではない。
すれ違ったことすら、たぶん、ない。
けれど、この人が残した装置のせいで、自分の人生は六年前からずっと宇宙の苦情係になっている。
そしてこの人はこの人で、六年間、地球に帰れなかった。
決められないので、両方やることにした。
「……瀬尾先輩」
「はい」
「まず、謝ってください」
瀬尾は床に座ったまま、深く頭を下げた。
「すみませんでした」
「よし」
「その上で」
「はい」
「おかえりなさい」
瀬尾は、困ったように笑った。
「……ただいま、でいいのかな」
「たぶん。宇宙の規約上は知りませんけど」
「じゃあ、ただいま」
メトロノームが、カチ、と鳴った。
今度はズレていなかった。
琴音は少し、肩の力を抜いた。
そのとき、物理準備室の古いモニターが勝手についた。
全員が黙る。
画面には、白い文字が表示されていた。
NOTICE
火星航路に関する因果負債精算は暫定延期されました。
ただし、以下の議題について追加協議が必要です。
議題一:教育目的ライセンスの範囲
議題二:外部契約労働者の処遇
議題三:近傍宇宙相見積もりの開示手続
議題四:たぶん瀬尾のせいなので
琴音は瀬尾を見た。
瀬尾は天井を見た。
「瀬尾先輩」
「はい」
「またですか」
「今回は、たぶん、半分くらい」
「半分もあるんですか」
「概算で」
「宇宙の概算、信用できないんですよ」
窓の外では、夕方の光が校庭に落ちていた。
六年前と同じ場所。
六年前とは違う時間。
人類は、火星まで行けるようになった。
月を通勤圏にし、重力を建築し、時空テンプレートを教材に変えた。
それでも、メトロノームの音を聞きながら、誰かに謝らせるために放課後の準備室へ集まっている。
進歩とは、たぶん、そういうものだ。
完璧な未来ではない。
定刻通りでもない。
寄り道ばかりで、請求書も来る。
でも、まだ枝は残っている。
琴音はモニターに向き直り、椅子を引いた。
「議題四からやりましょう」
「僕のせいかどうかから?」
「はい」
琴音は端末を起動する。
「まず事実認定です。宇宙相手でも、そこは省略しません」
画面の隅で、宇宙OSのカーソルが点滅していた。
まるで返事を待っているようだった。
琴音はキーボードに手を置いた。
その指が最初のキーを押す前に、物理準備室の入口から、誰でもない誰かの影が差した。




