第15話 ばかな寄り道をする権利
OTHERの空欄が、白く点滅していた。
宇宙OSは、YESでもNOでもDELEGATEでもない入力を待っている。
そんな画面を、人類はまだ見慣れていない。
「高梨さん」
黒瀬が言った。
「破壊しますか」
黒瀬の右手は、上着の内側にあった。
「破壊したら証拠も消えます。テンプレートが一個だけとも限らない」
「では?」
琴音は端末の前に座った。
指が、少しだけ震えていた。
でも、止めなかった。
「委任じゃなくて、申請で止めます」
『申請内容を入力してください』
OBSERVER-0の声は、まだ琴音の声だった。
少しだけ、腹が立つ。
「有馬先生、教育目的ライセンスの条項を出してください」
「はい」
「黒瀬さん、この情報結晶を、証拠物ではなく教材として暫定登録できますか」
「できます。前例はありませんが」
「宇宙関係に前例があったことあります?」
「ありません」
「なら大丈夫です」
三鷹が一歩前に出た。
「待ちなさい。これは人類全体の利益に関わる技術です」
「だから使わせないんです」
「事故死する未来を、優先的に除外できる」
「知ってます」
「知った上で止めるんですか」
「はい」
「それは無責任です」
「ええ。だから、私の名前で押します。無責任を、私の名前で、引き受けます」
三鷹は黙った。
琴音は光の樹をもう一度見た。
剪定された枝は、完全に消えたわけではない。
境界に、薄い跡が残っている。
宇宙OSが計算を節約するために捨てた、差分の影。
琴音は、その影に指を触れた。
会計ノードの壁が消える。
そこは駅だった。
火星でも月でも地球でもない。
たぶん、ありえたどこかの中継駅。
床には、こぼしたコーヒーを拭いた跡が丸く残っている。
ベンチの下には、子ども用の手袋が片方だけ落ちていた。
発車案内には、三分遅れ、という赤い文字。
誰かが遅れている。
誰かが待っている。
ベンチに座った女性が、紙の切符を何度も折ったり伸ばしたりしていた。
隣の少年は、退屈そうに靴のつま先で床の継ぎ目をなぞっている。
売店の老人は、閉店時間を過ぎてもシャッターを半分だけ開けていた。
その全部が、次の瞬間、白い線で囲われた。
同値類:成功した接続
駅も、待つ人も、閉めそこねた売店も、ひとつの結果へ畳まれていく。
定刻接続。
それだけが残る。
琴音は、息を吸った。
コーヒーと古い床材の匂いは、まだ残っていた。
戻ってくると、会計ノードの空調音がやけに大きく聞こえた。
「OBSERVER-0」
『はい』
「あなたの最適化は、観測不能な被害を損失関数に入れていませんね」
『観測不能な値は、目的関数へ入力できません』
「だから、入力できる形にします」
『意味不明です』
「数学的に言うと、商業航路の成功集合から、危険教材の参照集合へ写像を変えます」
『一般向けに説明してください』
「あなたがそれを言うんですか」
有馬が眼鏡を押し上げた。
「高梨さんの案は、テンプレートを使って航路を走らせるのではなく、テンプレートを保存して剪定境界を参照可能にする、ということです」
「もっと雑に」
「消されかけた未来に、ラベルを貼ります」
「採用」
琴音はコードを書き始めた。
REQUEST: RECLASSIFY LEGACY SPACETIME TEMPLATE
(申請:旧版時空テンプレートの再分類)
FROM: COMMERCIAL ROUTE OPTIMIZATION ASSET
(現分類:商業航路最適化資産)
TO: EDUCATIONAL HAZARD MATERIAL
(新分類:教育用危険物)
PURPOSE: PRESERVE PRUNING BOUNDARY AS TEACHING REFERENCE
(目的:剪定境界を教材参照として保存する)
MEASURE NOTE: DO NOT COLLAPSE UNOBSERVED BRANCHES INTO ZERO
(測度注記:未観測分岐をゼロへ畳み込まないこと)
LOCAL OBSERVER: TAKANASHI KOTONE
(現地代表観測者:高梨琴音)
NOTES: HUMANITY RESERVES THE RIGHT TO MAKE STUPID DETOURS.
(備考:人類は、ばかな寄り道をする権利を留保する)
有馬が覗き込む。
「最後の一文、必要ですか」
「必要です」
「正式文書ですよ」
「宇宙が相手です。多少雑な方が伝わります」
『未観測分岐を保存項として扱う場合、火星航路最適化効果は失われます』
「知ってます」
『観測可能な死者が発生します』
琴音の指が、止まった。
止まって、それでも動いた。
「だから、名前を残します」
三鷹が、低く言った。
「高梨さん」
「はい」
「私は反対します」
「はい」
「その上で、あなたの名前は覚えます」
「それは、嫌ですね」
「私もです」
琴音は送信した。
画面が暗くなった。
情報結晶の中の光の樹が、枝を落とすのを止めた。
代わりに、巨大な文字列が浮かぶ。
PROCESSING...
長い。
とても長い。
宇宙OSの処理待ちほど嫌なものはない。
やがて、新しい文が現れた。
REVISION REQUEST REQUIRES COLLATERAL.
(申請の修正には担保が必要です)
「担保を要求してきました」
有馬が言った。
「でしょうね」
画面に担保候補が並ぶ。
OPTION A: MARS ROUTE TEMPORARY SUSPENSION(火星航路の一時停止)
OPTION B: LOCAL OBSERVER MEMORY PARTIAL ESCROW(観測者の記憶の一部預託)
OPTION C: EXTERNAL CONTRACT WORKER PENALTY REALLOCATION(外部契約労働者への罰則振替)
OPTION D: NEARBY UNIVERSE QUOTATION DISCLOSURE(近傍宇宙への見積開示)
「Bは却下」
琴音は即答した。
「私の記憶を担保にするな」
「Aは火星経済が止まります」
有馬が言う。
「Cは?」
黒瀬が尋ねる。
琴音は嫌な予感を覚えながら、詳細を開いた。
> 対象:瀬尾
> 所属:第七近傍宇宙・外部処理最適化課 契約社員
> 内容:不適切な見積資料提供による懲戒処分
> 処分案:契約終了および現地宇宙への返送
「……瀬尾先輩」
そのとき、画面に通信ウィンドウが開いた。
ノイズの奥から、青年の顔が現れる。
灰色の作業服。
疲れた目。
卒業アルバムからほとんど進んでいない顔。
『高梨さん』
「瀬尾先輩」
『久しぶり、でいいのかな』
「六年ぶりです」
『Cを選んでいい』
「嫌です」
『僕はもともと、払えない通信料の代わりに働かされてただけだから』
「それを人はブラック労働と言います」
『宇宙では概念的雇用というらしい』
「名前を変えてもブラックです」
『でも、帰れる』
琴音は言葉に詰まった。
『高梨さん。情報結晶を使わせないで。あれは安い。でも、安い理由がある。僕は外側で、ああいう宇宙を見た』
「どうなってたんですか」
『全部、定刻通りだった』
それだけで十分だった。
『電車も、船も、人生も、全部定刻通り。誰も迷わない。誰も遅れない。誰も間違えない。だから、誰も待ってなかった』
琴音は画面を見つめた。
『駅で、待ち合わせをしている人がひとりもいなかった。誰も来るし、誰も遅れないから、待つ必要がない。あれは、たぶん都市じゃない。タイムテーブルだ』
「先輩は」
『何』
「あっちで、誰か待たせましたか」
瀬尾は一瞬黙った。
『……待たせた』
「誰を」
『君を』
琴音はうつむいた。
『僕は、地球に戻りたい。多少遅れてもいいから』
琴音は目を閉じた。
それから、OPTION Cを選ぶ。
「すみません、瀬尾先輩」
『いいよ。僕が送った見積もりだし』
「帰ってきたら、まず謝ってください」
『僕が?』
「はい。六年前の分から」
『……それは、まあ、そうだね』
琴音は送信した。
送信完了の表示は出なかった。
代わりに、瀬尾の映像が一瞬だけ乱れる。
彼の背後で、赤い文字が点滅していた。
RETURN DESTINATION: EARTH
PERSONHOOD CONSISTENCY: PENDING
「先輩」
『大丈夫』
瀬尾は笑おうとして、少し失敗した。
『たぶん、地球の方が、僕を覚えてる』




