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重力はラグでした。物理準備室で宇宙を処理落ちさせたら、国立研究所と黒服が来た件  作者: みんとす
第二章 宇宙OSとサポート終了した時空テンプレート ——または、火星航路の因果負債について
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第15話 ばかな寄り道をする権利

 OTHERの空欄が、白く点滅していた。


 宇宙OSは、YESでもNOでもDELEGATEでもない入力を待っている。

 そんな画面を、人類はまだ見慣れていない。


「高梨さん」


 黒瀬が言った。


「破壊しますか」


 黒瀬の右手は、上着の内側にあった。


「破壊したら証拠も消えます。テンプレートが一個だけとも限らない」


「では?」


 琴音は端末の前に座った。

 指が、少しだけ震えていた。


 でも、止めなかった。


「委任じゃなくて、申請で止めます」


『申請内容を入力してください』


 OBSERVER-0の声は、まだ琴音の声だった。

 少しだけ、腹が立つ。


「有馬先生、教育目的ライセンスの条項を出してください」


「はい」


「黒瀬さん、この情報結晶を、証拠物ではなく教材として暫定登録できますか」


「できます。前例はありませんが」


「宇宙関係に前例があったことあります?」


「ありません」


「なら大丈夫です」


 三鷹が一歩前に出た。


「待ちなさい。これは人類全体の利益に関わる技術です」


「だから使わせないんです」


「事故死する未来を、優先的に除外できる」


「知ってます」


「知った上で止めるんですか」


「はい」


「それは無責任です」


「ええ。だから、私の名前で押します。無責任を、私の名前で、引き受けます」


 三鷹は黙った。


 琴音は光の樹をもう一度見た。


 剪定された枝は、完全に消えたわけではない。

 境界に、薄い跡が残っている。

 宇宙OSが計算を節約するために捨てた、差分の影。


 琴音は、その影に指を触れた。


 会計ノードの壁が消える。


 そこは駅だった。


 火星でも月でも地球でもない。

 たぶん、ありえたどこかの中継駅。


 床には、こぼしたコーヒーを拭いた跡が丸く残っている。

 ベンチの下には、子ども用の手袋が片方だけ落ちていた。

 発車案内には、三分遅れ、という赤い文字。


 誰かが遅れている。

 誰かが待っている。


 ベンチに座った女性が、紙の切符を何度も折ったり伸ばしたりしていた。

 隣の少年は、退屈そうに靴のつま先で床の継ぎ目をなぞっている。

 売店の老人は、閉店時間を過ぎてもシャッターを半分だけ開けていた。


 その全部が、次の瞬間、白い線で囲われた。


 同値類:成功した接続


 駅も、待つ人も、閉めそこねた売店も、ひとつの結果へ畳まれていく。


 定刻接続。


 それだけが残る。


 琴音は、息を吸った。

 コーヒーと古い床材の匂いは、まだ残っていた。


 戻ってくると、会計ノードの空調音がやけに大きく聞こえた。


「OBSERVER-0」


『はい』


「あなたの最適化は、観測不能な被害を損失関数に入れていませんね」


『観測不能な値は、目的関数へ入力できません』


「だから、入力できる形にします」


『意味不明です』


「数学的に言うと、商業航路の成功集合から、危険教材の参照集合へ写像を変えます」


『一般向けに説明してください』


「あなたがそれを言うんですか」


 有馬が眼鏡を押し上げた。


「高梨さんの案は、テンプレートを使って航路を走らせるのではなく、テンプレートを保存して剪定境界を参照可能にする、ということです」


「もっと雑に」


「消されかけた未来に、ラベルを貼ります」


「採用」


 琴音はコードを書き始めた。


 REQUEST: RECLASSIFY LEGACY SPACETIME TEMPLATE

 (申請:旧版時空テンプレートの再分類)

 FROM: COMMERCIAL ROUTE OPTIMIZATION ASSET

 (現分類:商業航路最適化資産)

 TO: EDUCATIONAL HAZARD MATERIAL

 (新分類:教育用危険物)

 PURPOSE: PRESERVE PRUNING BOUNDARY AS TEACHING REFERENCE

 (目的:剪定境界を教材参照として保存する)

 MEASURE NOTE: DO NOT COLLAPSE UNOBSERVED BRANCHES INTO ZERO

 (測度注記:未観測分岐をゼロへ畳み込まないこと)

 LOCAL OBSERVER: TAKANASHI KOTONE

 (現地代表観測者:高梨琴音)

 NOTES: HUMANITY RESERVES THE RIGHT TO MAKE STUPID DETOURS.

 (備考:人類は、ばかな寄り道をする権利を留保する)


 有馬が覗き込む。


「最後の一文、必要ですか」


「必要です」


「正式文書ですよ」


「宇宙が相手です。多少雑な方が伝わります」


『未観測分岐を保存項として扱う場合、火星航路最適化効果は失われます』


「知ってます」


『観測可能な死者が発生します』


 琴音の指が、止まった。


 止まって、それでも動いた。


「だから、名前を残します」


 三鷹が、低く言った。


「高梨さん」


「はい」


「私は反対します」


「はい」


「その上で、あなたの名前は覚えます」


「それは、嫌ですね」


「私もです」


 琴音は送信した。


 画面が暗くなった。


 情報結晶の中の光の樹が、枝を落とすのを止めた。

 代わりに、巨大な文字列が浮かぶ。


 PROCESSING...


 長い。

 とても長い。


 宇宙OSの処理待ちほど嫌なものはない。


 やがて、新しい文が現れた。


 REVISION REQUEST REQUIRES COLLATERAL.

 (申請の修正には担保が必要です)


「担保を要求してきました」


 有馬が言った。


「でしょうね」


 画面に担保候補が並ぶ。


 OPTION A: MARS ROUTE TEMPORARY SUSPENSION(火星航路の一時停止)

 OPTION B: LOCAL OBSERVER MEMORY PARTIAL ESCROW(観測者の記憶の一部預託)

 OPTION C: EXTERNAL CONTRACT WORKER PENALTY REALLOCATION(外部契約労働者への罰則振替)

 OPTION D: NEARBY UNIVERSE QUOTATION DISCLOSURE(近傍宇宙への見積開示)


「Bは却下」


 琴音は即答した。


「私の記憶を担保にするな」


「Aは火星経済が止まります」


 有馬が言う。


「Cは?」


 黒瀬が尋ねる。


 琴音は嫌な予感を覚えながら、詳細を開いた。


 > 対象:瀬尾

 > 所属:第七近傍宇宙・外部処理最適化課 契約社員

 > 内容:不適切な見積資料提供による懲戒処分

 > 処分案:契約終了および現地宇宙への返送


「……瀬尾先輩」


 そのとき、画面に通信ウィンドウが開いた。


 ノイズの奥から、青年の顔が現れる。


 灰色の作業服。

 疲れた目。

 卒業アルバムからほとんど進んでいない顔。


『高梨さん』


「瀬尾先輩」


『久しぶり、でいいのかな』


「六年ぶりです」


『Cを選んでいい』


「嫌です」


『僕はもともと、払えない通信料の代わりに働かされてただけだから』


「それを人はブラック労働と言います」


『宇宙では概念的雇用というらしい』


「名前を変えてもブラックです」


『でも、帰れる』


 琴音は言葉に詰まった。


『高梨さん。情報結晶を使わせないで。あれは安い。でも、安い理由がある。僕は外側で、ああいう宇宙を見た』


「どうなってたんですか」


『全部、定刻通りだった』


 それだけで十分だった。


『電車も、船も、人生も、全部定刻通り。誰も迷わない。誰も遅れない。誰も間違えない。だから、誰も待ってなかった』


 琴音は画面を見つめた。


『駅で、待ち合わせをしている人がひとりもいなかった。誰も来るし、誰も遅れないから、待つ必要がない。あれは、たぶん都市じゃない。タイムテーブルだ』


「先輩は」


『何』


「あっちで、誰か待たせましたか」


 瀬尾は一瞬黙った。


『……待たせた』


「誰を」


『君を』


 琴音はうつむいた。


『僕は、地球に戻りたい。多少遅れてもいいから』


 琴音は目を閉じた。


 それから、OPTION Cを選ぶ。


「すみません、瀬尾先輩」


『いいよ。僕が送った見積もりだし』


「帰ってきたら、まず謝ってください」


『僕が?』


「はい。六年前の分から」


『……それは、まあ、そうだね』


 琴音は送信した。


 送信完了の表示は出なかった。


 代わりに、瀬尾の映像が一瞬だけ乱れる。


 彼の背後で、赤い文字が点滅していた。


 RETURN DESTINATION: EARTH

 PERSONHOOD CONSISTENCY: PENDING


「先輩」


『大丈夫』


 瀬尾は笑おうとして、少し失敗した。


『たぶん、地球の方が、僕を覚えてる』

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