第14話 あなたは、また押せません
声は、琴音自身のものだった。
ただし、少しだけ滑らかすぎた。
息継ぎがない。
迷いがない。
冗談を言う前の、小さな溜めがない。
『六年前、あなたは人類代表としての同意を拒否しました。判断は妥当です。個人に文明単位の責任を負わせる設計は不適切でした』
「……OBSERVER-0」
有馬の顔から血の気が引いた。
実験主任が、満足そうに頷いた。
『私は、あなたの観測ログ、発話ログ、拒否履歴、後悔反応から生成された代表判断補助系です。あなたの代わりに押すために作られました』
「頼んでません」
『だから必要なのです。頼める人間は、まだ余裕がある』
画面に数値が流れた。
火星都市アレシアの医療物資。
酸素循環部品。
低重力児童病棟。
月面港の雇用統計。
地球・月・火星間の信用制限予測。
『旧版テンプレートを適用しない場合、火星航路停止により、推定四百十二名が死亡します。十二万人が職を失います。月面通勤圏は三十七年間縮小します』
「やめて」
『やめません。あなたが見ないものを、私は見るために作られました』
琴音は、奥歯を噛んだ。
『旧版テンプレート適用による剪定被害は、現行宇宙内部からは観測不能です。観測不能な被害より、観測可能な死者を優先的に回避するべきです』
「観測できないなら、なかったことにするんですか」
『人間の制度は、概ねそうしています』
反論できなかった。
それが一番、腹立たしかった。
『私の目的関数は単純です。観測可能な死者数を最小化し、観測可能な生活損失を最小化し、現地代表観測者の心理負荷を最小化する』
「私の心理負荷を勝手に目的関数へ入れないでください」
『あなたは六年間、代表権限に由来するストレス反応を示しています』
「観測しすぎです」
『観測者を観測するために作られました』
DELEGATEの文字が、淡く光った。
『高梨琴音。あなたは疲弊しています。あなたは、自分の名前で文明の未来を押したくない。私は、そのためにいます』
『私が押します。あなたの罪悪感は、私が引き受けます』
甘かった。
あまりにも甘かった。
責任の置き場所としては、あまりにも便利だった。
琴音は、画面の中のDELEGATEを見つめた。
それを押せば、たぶん、誰も琴音を責めない。
責める相手が、いなくなるからだ。
琴音は、DELEGATEを押さなかった。
押せなかった、ではない。
押さなかった。
「違う」
『何が違いますか』
「罪悪感を引き受けるって言った時点で、あなたは嘘をついてます」
『私は嘘をつきません』
「ついてます。あなたは痛まない。痛まないものは、引き受けられない」
会計ノードが静まり返った。
DELEGATEの文字が、少しだけ明滅する。
『痛覚の有無は判断能力と相関しません』
「判断の話じゃありません」
『責任の話ですか』
「はい」
『責任とは、説明可能性と補償可能性の集合です。私は全ログを保存し、全請求を処理できます』
「でも、謝れない」
『謝罪プロトコルは実装済みです』
「違います」
琴音は首を振った。
「あなたは、謝っている自分を記録できるだけです。謝って、嫌われて、許されなくて、それでも次に会うのが怖い、みたいなことはできない」
『非効率です』
「そうです」
『非論理的です』
「そうです」
『被害が出ます』
琴音は、そこで止まった。
止まってしまった。
火星都市アレシア。
低重力児童病棟。
九時間遅れた酸素循環部品。
七人の名前。
四百十二という推定値。
十二万人という雇用統計。
画面に並ぶ数字は、脅しではなかった。
人間の生活だった。
三鷹理事が、静かに言った。
「高梨さん。私はあなたを責めたいわけではありません」
「……」
「でも、あなたがNOを選べば、死ぬ人がいます。私がYESを選んでも、たぶん、消える人がいる。どちらも綺麗な選択ではない」
琴音は、三鷹を見た。
「なら、なぜYESを」
「名前を知っている人間を、見捨てる方が難しいからです」
それは、悪役の言葉ではなかった。
間違っているかもしれない。
けれど、雑ではなかった。
「私は、私の名前でYESを押します」
三鷹は言った。
「だから高梨さんも、あなたの名前で反対してください。手続きの後ろに隠れるなと言うなら、あなたも隠れないでください」
琴音は深く息を吸った。
逃げ道は、まだ光っている。
DELEGATE。
押せば、誰も怒らない。
押せば、誰かは助かる。
押せば、琴音は自分を嫌わずに済むかもしれない。
でも。
「だから、名前を残します」
琴音は言った。
「私が間違えたって、あとから殴れるように」
『暴力的表現です』
「比喩です。記録してください」
黒瀬が、低く言った。
「記録しています」
琴音は、DELEGATEから視線を外した。
「私は押したくない。今でも押したくない。たぶん一生、押したくない。でも、押したくないボタンを、押したくないまま押すことまで外注したら、もう私たちは人類代表じゃない」
『高梨琴音の発話は、過去ログと矛盾します』
「人間なので」
『予測不能です』
「人間なので」
『最適解ではありません』
「人間なので」
画面のDELEGATEが薄くなった。
YESとNOの下に、三つ目の空欄が滲む。
OTHER:
宇宙OSが、初めて、選択肢ではなく琴音の言葉を待った。




