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重力はラグでした。物理準備室で宇宙を処理落ちさせたら、国立研究所と黒服が来た件  作者: みんとす
第二章 宇宙OSとサポート終了した時空テンプレート ——または、火星航路の因果負債について
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第13話 焼きそばパン教授、就任

 連絡艇の座席は、相変わらず狭かった。


 琴音は膝の上に端末ケースを抱え、足元に固定された紙袋を見下ろした。

 中には、大学の売店で黒瀬が買ってきたおにぎりが三つ入っている。

 梅、鮭、昆布。

 緊急のL4行きとしては、かなり現実的だった。


「なぜおにぎりを」


「高梨案件対応手順です」


「食事まで手順化しないでください」


「空腹時の代表判断は荒れます」


「反論しづらい」


 窓の外で、地球がゆっくり下へずれていく。

 青と白の巨大な面が、連絡艇の小さな窓に収まりきらない。


 隣の席では、有馬が酔い止めパッチを首筋に貼っていた。

 その向こうで三鷹理事が、機内販売の水を断り、自分の水筒からぬるい茶を飲んでいる。

 財団理事も、宇宙では水筒を使うらしい。


 ラグ連絡艇は、四十六分後。


 連絡艇は、地球・月系L4の航路会計ノードに接続した。


 外壁には、古いロゴが残っていた。


 LAGRANGE KITCHEN

 よい航路は、よい台所から


「御厨さん、何を考えていたんですか」


「創業期の標語です」


 黒瀬が言った。


「現在は、地球・月・火星航路の因果会計を同期する民間基盤ノードです」


「標語を剥がす予算は?」


「毎年、後回しです」


 ドッキング通路には、古い惣菜の匂いが少しだけ残っていた。

 もちろん本物の匂いではない。

 空調フィルタに染みついた、油と出汁の記憶みたいなものだ。


 入域ゲートには、紙の掲示が何枚も貼られていた。


 宇宙港臨時入域規則。

 月軌道作業員安全基準。

 商船員健康証明に準じる申告書。

 海難救助条約の暫定準用について。


「商船員?」


 琴音は足を止めた。


「ここ、海ですか」


「法的には、わりと海です」


 黒瀬が答えた。


「宇宙港なのに」


「この数年で火星航路まで伸びました。行政の法体系は、まだ地上の会議室にいます」


 三鷹が、入域端末に古い形式の署名をしていた。

 署名欄には、船長または施設管理者、と印字されている。


「なので、古いものが生き返ります。海事法、航空法、南極条約、宇宙条約、港湾条例。使える骨は全部使う」


「つぎは何ですか。火星を遠洋漁業扱い?」


「近い議論はありました」


「あったんだ」


 ゲートの職員は、琴音の航路IDと学生証を見て、黒瀬を見て、もう一度琴音を見た。


「大学院生で、優先入域ですか」


「現地代表観測者です」


「そういう欄がありません」


「手書きでお願いします」


 職員はため息をつき、備考欄に小さく「宇宙OS関係」と書いた。


「雑」


「現場はだいたい雑です」


 ノードの職員たちは、紺色の作業服で忙しく歩いていた。

 誰かが透明な袋に入った味噌汁を吸いながら、片手で航路遅延の掲示を更新している。

 壁には「無重量区画でカレーを開封しないこと」と貼り紙があった。


「生活感が嫌ですね」


「生活の上に宇宙航路がありますから」


 黒瀬は、会計ノードの扉を開けた。


 中は、大学の端末室より少しだけ広かった。

 ただし、椅子は少なく、壁一面に航路図が走っている。

 地球、月、火星。

 その間を、細い光の線が結んでいた。


 情報結晶を接続すると、光の線が一斉に震えた。


 申請準備は、止まっていなかった。


 黒瀬が監査室権限を差し込み、進行バーだけを無理やり固定している。

 画面の端では、細い数字が減っていた。


 凍結残り時間:七分


「七分で説明してください」


「宇宙規模の事故説明にしては、尺が厳しいですね」


「記録上、最長です」


「記録、ろくでもないですね」


 琴音は光の樹を睨んだ。


「これを使えば、火星航路の因果負債は減ります」


 財団理事の三鷹が、わずかに息を吐いた。

 笑ったのではない。

 肩から力が抜けたのだ。


「では」


「その代わり、未来が減ります」


「未来が減る?」


「正確には、未来の測度が潰れます」


 三鷹は黙った。

 有馬が、少しだけ嫌そうな顔をした。


「高梨さん、一般向けに」


「未来の似た枝を、同じ枝として扱うんです」


 琴音は、光の樹を拡大した。

 枝の先には、細い数式が走っていた。

 状態空間。

 遷移確率。

 観測者ごとの履歴ログ。


 旧版テンプレートは、火星航路の未来を一本ずつ計算していなかった。

 似た結果になる未来を、同値類にまとめている。


 遅れない火星便。

 事故が起きない火星便。

 待ち合わせに誰も遅れない火星便。


 それらを、同じ「成功した火星便」として圧縮する。


「商業航路に必要な情報だけ残して、それ以外を捨てる。宇宙OSから見ると、計算量は減ります。因果負債も安くなる」


「素晴らしいことでは?」


 三鷹は、まっすぐそう言った。


「素晴らしい?」


「二年前、アレシア中央病院の酸素循環部品が九時間遅れました」


 会計ノードの空気が少し変わった。


「火星便の遅延理由は、因果混雑。部品は港の倉庫で止まっていた。医師も、整備士も、管制官も、誰も怠けていなかった。ただ、間に合わなかった」


 三鷹は端末を操作した。

 その手順だけは、前から練習していたように滑らかだった。


 会計ノードの床が、ふっと軽くなった。


 転送ではない。

 記録再生だ。

 それでも、琴音の鼻の奥に、消毒液と乾いた鉄の匂いが届いた。


 火星都市アレシア中央病院。

 低重力児童病棟。


 窓の外は、薄い橙色だった。

 防塵ガラスの向こうで、赤い砂が街灯に擦れている。

 廊下には、地球より少し長い歩幅で看護師が走っていた。

 壁際の自販機には、火星向けに薄めたスポーツ飲料と、地球輸入の高すぎるチョコバーが並んでいる。


 病室の前で、小さな靴が一足、揃えて置かれていた。

 片方の面ファスナーだけが、閉じそこねている。


 記録の右下に、赤い遅延マークが点滅していた。


「七人死にました」


 誰も茶化さなかった。


「私は、その家族に説明しました。火星航路は人類の希望です、と。多少の遅延は新時代の摩擦です、と。最低の言葉でした」


 琴音は、何も言えなかった。


「高梨さん。私は未来を減らしたいわけではありません。事故死する未来を、減らしたいんです」


「でも、その圧縮で捨てられるものは、事故だけじゃありません」


 琴音は、枝の一本を指した。


 そこには、誰かが火星便に乗り遅れる未来があった。

 乗り遅れたせいで、偶然、別の人に会う未来があった。

 その人と喧嘩する未来があった。

 仲直りしない未来があった。

 仲直りする未来があった。


 枝は、テンプレートの境界でまとめて消えた。


「宇宙OSは、航路が定刻なら同じ結果だと見なしている。でも人間にとっては、同じじゃない」


「その違いは、現行宇宙から観測できますか」


「……できません」


「では、制度上は扱えません」


「観測できないなら、いないことにするんですか」


「そうしない制度を、人類はまだ作れていません」


 三鷹の声は荒くなかった。

 だから、余計に嫌だった。


 画面の隅で、黒瀬が押さえている数字が、また一つ減った。

 凍結残り時間、四分。


「人類は失敗に疲れている。事故に疲れている。選択肢が多すぎる社会にも疲れている。効率化とは、不要な分岐を取り除くことです」


「不要かどうかは、誰が決めるんですか」


「手続きです」


 財団理事の背後から、別の声がした。


 会計ノードの扉に、灰色のスーツの男が立っていた。

 胸元のIDには、未承認時空最適化実験主任、とあった。

 未承認を肩書きに入れるな。


「責任者がいるから、判断が遅れる。ならば責任者を、手続きに変えればいい」


 琴音は、その一言で理解した。


 この人たちは宇宙を怖がっているのではない。

 責任者の名前が残ることを怖がっている。


「あなたたち、OBSERVER-0をまだ諦めてないんですね」


 六年前の事件後、人類は宇宙OSの規約同意画面を見た。

 そのとき琴音は、人類代表としてボタンを押すことを拒んだ。

 そのあと現れたのが、OBSERVER-0構想だった。

 観測ログを集め、最適な代表判断を自動生成し、人間の責任を手続きに溶かすための装置。

 宇宙に対する、人類代表ボット。


「OBSERVER-0は危険だから凍結されたはずです」


「名前は変えました」


「最悪の返事ですね」


 実験主任は微笑んだ。


「高梨さん。あなた自身が言ったはずです。自分ひとりが代表ボタンを押すのは嫌だと」


「だからって、私のログで人類代表ロボを作るな」


「あなたの負担を減らしたいだけです」


「押したくないボタンを、あなたが押す、ですか」


「正確には、手続きが押します」


 琴音は、唾を飲んだ。


 六年前、押せなかった同意ボタンが、ずっと頭の隅にあった。

 あのとき押せなかったのは、責任が個人に集まるのが怖かったからだ。

 実験主任は、それを覚えていて、利用しようとしている。


 凍結残り時間が、ゼロになった。


 その瞬間、情報結晶が光を強めた。


 LEGACY TEMPLATE READY.

 APPLY TO MARS ROUTE?


 YES / NO


「誰が再生許可を出したんですか」


 琴音が叫ぶ。


 三鷹は目を逸らさなかった。

 実験主任は微笑んだままだった。


「停止してください」


「できません」


 有馬が端末を叩く。


「外部からロックされています。複雑性鍛冶の申請コードに、承認済みテンプレートの優先実行フラグが立っています」


「優先実行フラグを立てるな」


「立てたのは六年前の私たちです」


 光の樹が、さらに枝を落とし始めた。


 会計ノードの観測窓の外。

 点検ドローンが、同じ軌道を繰り返していた。


 一周目。二周目。三周目。

 まったく同じ姿勢制御。まったく同じ噴射光。


 通路の作業員が、味噌汁の袋を口元に運んだまま止まった。

 次に飲むか、こぼすか、誰かに呼ばれるか。

 そのどれも、選ばれていない。


 黒瀬の通信機が立て続けに鳴った。


『自動販売機、七十二回連続で当たり。連番が同一です』

『ジャズ喫茶、三人の奏者が同じ旋律に合流。客の拍手も同時です』

『研究棟、サイコロ百回連続で一』


「百一回目は」


『誰も振っていません』


「百二回目は」


『片付けました』


 琴音は唇を噛んだ。


 それが一番こわかった。


 未来が読めるようになったのではない。

 未来が減っているのだ。

 選択肢がなくなると、人間は、振ること自体をやめる。


 画面のYESが、ゆっくり濃くなっていく。

 誰も押していない。

 押される未来へ、周囲が勝手に収束している。


 そのとき、YESとNOのあいだに、三つ目の選択肢が現れた。


 DELEGATE


「……委任?」


 会計ノードのスピーカーから、声がした。


『高梨琴音。あなたは、また押せません』


 琴音は凍りついた。


 声は、琴音自身のものだった。

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