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重力はラグでした。物理準備室で宇宙を処理落ちさせたら、国立研究所と黒服が来た件  作者: みんとす
第二章 宇宙OSとサポート終了した時空テンプレート ——または、火星航路の因果負債について
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第12話 美しすぎる未来

 白い光の中心に、結晶のような図形が浮かぶ。


 透明な多面体。

 内部に、三次元の数式が折り重なっている。

 式は文字ではなく、地形のように盛り上がり、川のように流れ、ところどころで枝分かれしていた。


「情報結晶……」


 有馬が低く呟いた。


「知ってるんですか」


「理論上のものです。過去に一度、宇宙OSが承認した時空処理ログを、量子複製不可性を破らない範囲で結晶媒体に固定したもの。承認済み時空テンプレート」


「すみません、すでに嫌な予感しかしません」


「一度承認された時空パターンは、再申請が通りやすい。だから航路会社や国家が血眼で欲しがっています」


 結晶の下に警告文が出た。


 WARNING

 この時空テンプレートは旧版宇宙OS環境で承認されたものです。

 現行宇宙OSでの再生は推奨されません。

 サポートは終了しています。


「サポート終了した宇宙を添付ファイルで送ってくるな」


 琴音は心から言った。


 端末室の入口で、紙コップがひとつ差し出された。


「ブラックでよかったですか」


 黒瀬だった。

 六年前は「黒服の男」としか呼んでいなかったが、今は名前くらいは知っている。

 部署名も変わった。

 未定義現象監査室は、いつのまにか内閣府外宇宙事案調整室になっていた。

 名前が長くなった分だけ、責任の所在が遠くなった気がする。


「いつからいました?」


「高梨さんの端末に、サポート終了という語が表示された時点からです」


「単語で来ないでください」


「高梨案件対応手順にあります」


「私の名前を手順名にしないでください」


「正式名称は、現地代表観測者関連未定義添付物確認手順です」


「じゃあ高梨案件でいいです」


 黒瀬は表情を変えず、端末を見た。


「国立時空基盤研究所と航路財団には、まだ通報していません」


「まだ、ですか」


「この段階で関係者を増やすと、だいたい悪化します」


「その判断ができるようになるまでに、六年かかりましたね」


「記録しています」


「そこは慣れなくていいです」


 そのとき、端末室の扉が開いた。


 民間の宇宙航路財団の理事が、信用できない笑顔で立っていた。

 名刺には、三鷹、とあった。


 黒瀬が、ほんの少しだけ目を細める。


「通報していません」


「ですよね」


 琴音は理事の後ろを見た。

 見慣れた派手なスーツはない。

 ラグランジュ・キッチンの御厨は、今では月軌道インフラ評議会の常任理事だ。

 本人は来ない。

 代わりに、こういう笑顔だけが業界に増えた。


「高梨さん、その情報結晶は、人類の発展に不可欠です。火星航路の維持、月面経済の安定を考えれば、我々が速やかに解析し、商用化すべきです」


「サポート終了って書いてありますけど」


「古い技術には古い技術の価値があります」


「古い食べ物にも古い食べ物の価値がありますけど、食べるかは別です」


 有馬が咳払いした。


「まずは封印環境で解析すべきでしょう。教育目的再利用という項目がある以上、宇宙OS側も完全な禁止を意図していない可能性がある」


 黒瀬が頷いた。


「高梨さんの意見を尊重します」


「いや、尊重されても困ります。私は大学院生です」


 その瞬間、端末室の大型スクリーンに一行が浮かんだ。


 LOCAL OBSERVER AUTHORITY DOES NOT CORRELATE WITH ACADEMIC DEGREE.


 有馬が訳した。


「観測者権限は学位と相関しない、だそうです」


「宇宙に学歴フィルターを否定される日が来るとは思いませんでした」


 財団理事が苛立った。


「つまり宇宙OSは、高梨さんを代表窓口として認識していると?」


「やめてください。その言い方、責任が発生します」


 画面が再び白く光った。


 RESPONSIBILITY ALREADY ACCRUED.


「もう発生してるって」


 有馬が淡々と言った。


「訳さなくていいです」


 琴音は椅子に座り直した。


「わかりました。見ます。ただし、再生はしません。内容だけ解析します」


 情報結晶のインデックスを開く。


 その瞬間、端末室の音が消えた。


 空調の唸り。

 廊下の足音。

 誰かの小さな咳払い。


 すべてが遠くなり、代わりに、琴音の前に枝分かれする光の樹が広がった。


 未来だった。

 いや、未来の一覧ではない。

 可能性の枝だ。


 火星航路、月面港、地球低軌道のホテル群、もつれ橋によって因果会計を同期された地球・月・火星の三角ネットワーク。


 それらが、一本一本の枝として伸びていた。


 だが、妙だった。


 枝が少ない。


 本来なら無数に分岐するはずの未来が、几帳面に剪定されている。

 選ばれなかった枝が、最初から存在しなかったかのように切り落とされている。


 美しい。

 美しすぎる。


「これは……航路テンプレートじゃない」


 琴音は呟いた。


「何ですか」


「未来を減らすテンプレートです」


 誰も声を出さなかった。


 琴音は画面を拡大した。


 旧版時空テンプレートは、因果負債を安くする仕組みを持っていた。

 理由は単純だった。


 移動に必要な因果を払わないのではない。

 移動後に起こりうる未来の種類を減らし、計算量を節約している。


 火星便が遅れない。

 事故が起きない。

 貨物も、人も、経済も、予測通りに流れる。


 完璧な航路。

 完璧な都市。

 完璧な人生。


 琴音は、背中に冷たいものが走るのを感じた。


 宇宙が、ランダムな計算をサボり始めている。

 似た結果になる分岐をまとめ、使われなさそうな未来をキャッシュから捨てる。


 物理学の言葉で言えば、低エントロピー化。

 情報科学の言葉で言えば、雑な最適化。

 人間の言葉で言えば、退屈の始まりだった。


 そのとき、光の樹の先端で、一本だけ枝が太くなった。


 火星航路。


 解析中だったはずのテンプレートが、申請書の形に変わっていく。


 画面の下に、小さな文字が浮かんだ。


 PREPARING APPLICATION...


「誰も、申請してませんよね」


 誰も、答えなかった。


 黒瀬が通信機を耳に当てる。


「監査室です。高梨案件。はい、旧版テンプレート。いいえ、大学端末では止まりません」


「止まらないんですか」


「止まりません。ここは表示端末です。本体は航路会計ノード側にあります」


「どこですか」


「地球・月系L4。ラグランジュ・キッチン旧本社」


 琴音は、三秒だけ黙った。


「キッチンで宇宙の請求書を見るんですか」


「今は航路会計ノードです」


「名前だけ残すな」


 有馬が端末を閉じた。


「行くしかありませんね」


「今からL4ですか。洗濯機、乾燥まで回してないんですけど」


 廊下の向こうで、大学の売店の閉店チャイムが鳴った。

 誰かが唐揚げパンを買い損ねて、小さく悲鳴を上げている。


 黒瀬は紙コップを琴音に押しつけた。


「連絡艇は二十三分後です」


「コーヒー、持ち込みできます?」


「蓋があれば」


「じゃあ大丈夫です。L4便の自販機、薄いんですよ」


 画面の下で、申請準備の文字だけが、まだ消えずに点滅していた。

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