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重力はラグでした。物理準備室で宇宙を処理落ちさせたら、国立研究所と黒服が来た件  作者: みんとす
第二章 宇宙OSとサポート終了した時空テンプレート ——または、火星航路の因果負債について
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第11話 混雑するな、因果

 > 宇宙外部ネットワーク利用規約 第七条

 > 商業航行により発生した因果負債は、文明単位で精算される。

 > なお、文明が本規約を読めない場合も、負債の発生は妨げられない。


 火星行きの定期便が、また三分遅れた。


 高梨琴音は、大学院の端末室でその表示を眺めながら、紙コップのコーヒーを口に運んだ。ぬるかった。


 遅延理由:因果混雑のため


「混雑するな、因果」


 物理準備室事件から六年。

 琴音は、宇宙の苦情係になっていた。


 あのとき、古いサーバーラックの周囲で起きた局所的な時間遅延は、のちに「ラグ場」と名づけられた。

 宇宙OSの状態更新が、特定領域だけわずかに遅れる現象。


 最初は事故の研究だった。

 次に防災技術になった。

 その次に、通信遅延の補正技術になった。

 そして最後に、誰かが言った。


「これ、船に使えませんか」


 人類の技術史には、だいたいそういう不用意な一言がある。


 ラグ・ドライブ。


 船の周囲だけ宇宙の状態更新を遅らせ、その隙に航行体の位置ログを別地点へ再確定させる航法。

 距離を縮めるのではない。移動に必要だったはずの因果を、あとで払うことにして先に進む。


 それが、地球と月を通勤圏にし、火星を定期便の行き先にした。

 そして当然のように、人類はあとで払う方の話を忘れた。


 隣の端末で論文を読んでいた有馬助教が顔を上げた。


「また火星便ですか」


「また火星便です。三分なら黙って飛べばいいのに」


「その三分を黙って飛んだ結果、今の因果負債があるんですよ」


「正論で殴らないでください」


 ラグ・ドライブの遅延表示は、単なる遅刻ではない。

 宇宙OSが「この航行には、まだ三分ぶんの原因が足りません」と言っている状態である。


 黙って飛ぶことはできる。

 ただし、その三分は消えるのではなく、航路のどこかに未払いとして積まれる。


 因果負債とは、出発前に足りなかった原因だけではない。

 到着後に分岐するはずだった履歴を、宇宙OSが帳尻合わせするための計算費用まで含めた総請求である。


 人類はそれを、最初は時空環境負荷と呼んだ。

 次に運航調整コストと呼んだ。

 ただし、誰もが、内心では別の呼び方をしていた。


 ——借金では?


 火星都市アレシアには二十万人が住み、低重力対応住宅にはホロスクリプタ製の人工重力が敷かれている。月面はもはや「海外出張」より少し面倒なくらいの扱いだ。


 そしてラグ航路を設計する専門職——複雑性鍛冶師は、人気職業になっていた。

 量子計算で時空の形を削り出す、名前だけなら職人風の危険職である。

 現場では、夜中に「この分岐、未定義動作では?」と叫ぶ仕事である。


 琴音はその専攻だった。


 なりたくてなったわけではない。

 六年前、物理準備室で宇宙OSの例外処理を引き当てたせいで、世界中の研究機関から「現地代表観測者」として扱われるようになっただけだ。


 ありがたくない肩書きである。


 端末に、新着通知が出た。


 件名:因果負債精算に関する代替案

 差出人:不明

 添付:見積書/承認済み時空テンプレート/情報結晶インデックス


 琴音は三秒固まった。

 そのあと、そっと端末を閉じた。


「有馬先生」


「はい」


「私は今、見なかったことにしました」


「高梨さん」


「はい」


「宇宙関係のメールは、見なかったことにするとだいたい悪化します」


「でしょうね」


 琴音は端末を開き直した。


 メール本文は短かった。


 > 高梨さんへ。

 >

 > 現行宇宙における火星航路の因果負債は、このままだと文明単位の信用制限に達します。

 > 近傍宇宙三社から相見積もりを取りました。

 > 添付の旧版時空テンプレートを参照してください。

 >

 > なお、僕はまだ正式な帰還許可を得ていません。

 > たぶん怒られます。

 >

 > 瀬尾


 琴音は椅子から半分立ち上がった。


「……瀬尾先輩?」


 高校時代、直接話したことはない。

 彼は琴音が入学するずっと前に卒業していて、在校が重なったことすらない。

 琴音にとっては「物理準備室に変なものを残した伝説の先輩」でしかなかった。


 ただ一度だけ、やり取りはあった。


 六年前、物理準備室事件の最後。

 暴走した量子エミュレータが停止し、宇宙OSの例外処理ログが消える直前、瀬尾の残した通信がつながった。


 そのとき彼は、たしかこう言った。


『読まずに押すな』


 琴音はその言葉を、六年間ずっと覚えている。


 まあ、言った本人が読まずに押したせいでこうなっているのだが。


「有馬先生」


「はい」


「瀬尾先輩から見積書が来ました」


「宇宙から?」


「たぶん」


「見せてください」


 有馬は眼鏡を押し上げ、端末を覗き込んだ。


 > 見積書

 > 宛先:地球文明 現地代表観測者 高梨琴音

 > 件名:火星航路因果負債精算に関する代替案

 > 提出者:瀬尾

 > 所属:第七近傍宇宙・外部処理最適化課 契約社員

 > 通貨単位:因果クレジット(CC)

 > 有効期限:地球時間七十二時間


 見積書には、四つの案が並んでいた。


 > 第一案:現行宇宙OSでの通常精算

 > 負債額:極大

 > 副作用:火星航路の三十七年間停止。月面通勤圏の縮小。

 >

 > 第二案:近傍宇宙A社による代替処理

 > 負債額:中

 > 副作用:月が平均二センチ地球へ近づく。

 >

 > 第三案:近傍宇宙B社による代替処理

 > 負債額:低

 > 副作用:地球上の左利き率が〇・三パーセント変動。詳細不明。

 >

 > 第四案:旧版承認済み時空テンプレートの教育目的再利用

 > 負債額:要審査

 > 副作用:未評価。

 > 備考:現行規約ではサポート終了済み。


「左利き率を料金表に載せるな」


「月が二センチ近づくのも嫌ですね」


「全部嫌です」


 そのとき、端末の画面が一瞬だけ白くなった。


 白い画面の中央に、黒い数字だけが浮かぶ。


 有効期限:七十一時間五十九分五十九秒


「まだ開いてないんですけど」


 数字は、返事の代わりに、ひとつ減った。

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