第8話:見習いミレットの一番仕事
出品作の図面は、二晩で引いた。
差し渡し三尺の大笠に、満月の重ね。会場の天井から吊るして、審査席まで届く大きな月を出す。工房の技の、正面突破である。
「大きいことは、いいことです。審査員が節穴でも見える」
「レナール様、それ、褒めていますの?」
問題は、大物の硝子は冷ますのが難しいことだ、とガストンが言った。
「三尺の笠なんざ、先代でも年に一枚が精々だった。硝子ってのは、急に冷えると腹ん中に見えねえひずみを抱える。抱えたまま磨けば──あとで、ぱんだ」
「ぱん、ですの」
「ぱん、だ。だから徐冷。三日かけて、灰の中でゆっくり冷ます。急かすなよ、代表夫妻」
急かさなかった。代わりに窯場に泊まった。ガストンが徐冷の窯を守って三日、割れて、また三日。三度目にようやく、ひずみのない大笠が上がった。
品評会まで、あと五日。
──その大笠が、割れた。
仕上げ磨きの台へ運ぶ途中だった。ミレットの足が、床の水桶に引っかかった。抱えた大笠が石床で鳴った音を、私はたぶん一生忘れない。
しん、とした作業場の真ん中で、ミレットは破片に囲まれて座り込んでいた。
「……代表、夫人……あたし……」
誰も、怒鳴らなかった。怒鳴れなかった。徐冷からやり直せば三日と半日。磨きと吊り仕舞いを入れれば、どうやっても品評会に間に合わない。それが全員、一瞬で分かってしまったからだ。
「片付けよう」ガストンが静かに言った。「怪我がなかったのが、今日の儲けだ」
レナールは破片の前にしゃがみ、しばらく黙っていた。それから立ち上がって、帳場から予定表を持ってきて、卓に広げた。
「損害を計上します。大笠一枚、徐冷三日ぶん、磨きの手間。──以上です」
「あたしは」ミレットの声が震えた。「あたしの分は、計上しないんですか」
「しません。人は損害に計上しない。うちの帳簿の決まりです」
彼はそれだけ言って、予定表に線を引き始めた。ミレットがまた泣き出したのは、たぶん、叱られるより効いたからだと思う。
その夜、ミレットは宿舎に戻らなかった。
探すと、作業場の隅の自分の席で、小さな硝子玉を磨いていた。卓の上に並んだ玉は二十粒ほど。屑硝子を溶かして丸めた、売り物にならない練習玉だ。
「……眠れなくて。手を動かしていないと、『辞めます』って言っちゃいそうで」
「辞めるの?」
「辞めたくないです」即答だった。「でも、あたしのせいで、月が」
「ねえ、ミレット。あなた、毎晩これを磨いていたの?」
「……はい。あたし、手は遅いし、よく転ぶし、覚えも悪いし。でも、見るのだけは誰にも負けたくなくて。磨きって、見る仕事だから。硝子の中の筋も泡も、ぜんぶ見えてないと磨けないから」
私は隣に座って、玉をひとつ借りた。燭台にかざして──息を呑んだ。
玉の中に、月があった。
青を沈めて、乳白を重ねて、透明で蓋。満月灯の重ねが、親指の先ほどの玉の中に、そっくり入っている。
「ミレット。これ、あなたが?」
「屑硝子で、こっそり真似してました。重ねの練習に……勝手にごめんなさい。でも、小さいと絶対割れないんです。あたし、磨く前にいつも冷えの筋を見るから分かります。大きい月は、うちの徐冷だとどうしても北側に筋が残る。小さい月には、残らない」
観察眼、という言葉が頭の中で鳴った。この子は失敗の多い手の代わりに、工房の誰よりも、硝子の中を見ている。
大きな月がだめなら。
「……小さな月を、千粒」
「え?」
「大笠の月をひとつ、ではなくて。あなたのこの玉を千粒、枝環に吊るすの。ひと粒ひと粒が月光灯で、千粒が互いを照らし合う──群れの月。ミレット、あなたの玉が図面になるのよ」
夜明けを待って共同代表会議、即決だった。
「原価は屑硝子ですから、ほぼただ。工数は──千粒。全員でかかれば四日、ぎりぎり間に合います」
レナールは帳簿を二度叩き、それからミレットに向き直った。
「ミレットさん。あなたの給金を先月上げたのは、正しい投資だったようです」
「とうし……?」
「褒めていらっしゃるのよ。ものすごく」
それからの四日を、職人たちはのちのちまで「千粒の四日」と呼んだ。
窯は三基がかりで小玉を吹き、重ねは私とガストンで回し、磨きはミレットが全部を見た。十六の見習いが五十八の親方に「三番窯、冷え急ぎです!」と注文をつけ、親方が「おう!」と従う。誰も笑わなかった。それが正しかったからだ。
二日目の夜、ガストンが磨き台の後ろで、ぼそりと言った。
「あいつ、玉の冷えの筋を全部見切ってやがる。……磨きの目だきゃあ、俺より上かもしれねえ」
「親方、ご本人に言って差し上げて」
「言うか。調子に乗って転ぶ」
言わないくせに、親方はミレットの磨き台の燭台だけ、そっと二本にしていた。
レナールは搬入路の掛け合いと帳場の合間に枝環の吊り金具を数え、夜には玉の検品まで手伝った。数字の男の検品は容赦がなく、そして正確だった。「不合格、七粒。理由、泡」「ぐぬぬ」「ぐぬぬ、ではありません。挽き直しましょう」
夜半、枝環の下で玉の数を数えていたら、レナールと同じ玉に手が伸びて、指がぶつかった。八百まで数えていたのが、綺麗に飛んだ。数え直しの責任は、あちらにあると思う。
最後のひと粒を枝環に掛けたのは、品評会の前夜だった。
試しに作業場の梁から吊るして、魔石を点す。
──千の小さな月が、順々に灯った。粒の中の月が隣の粒に映り、映った月がまた次の粒に映って、銀の光がやわらかく重なっていく。大笠の月が「見上げる月」なら、これは、降ってくる月夜だ。
職人たちが、仕事の手を止めて梁の下に集まってきた。誰かが「こりゃあ……」と言ったきり、あとが続かない。夜番のはずのガストンまで出てきて、腕を組んだまま、いつまでも天井を見上げていた。
レナールは枝環の真下に立ち、ゆっくりとひと回りした。
「……原価はほぼただ。工数は千粒。売値は──つけられませんね、これは」
「あら。数字の人が、値付けを放棄なさるの?」
「一点物の月夜に、標準価格はありません。……見事です。お二人とも」
「光は削るんじゃなくて、重ねる……」
母の口癖の意味を、私は千回、目で見た。
ミレットが枝環の下で、ぽろぽろ泣きながら笑っていた。
「あたしの玉に、工房の光が入ってます」
「ええ。ひと粒残らず、あなたの一番仕事よ」
ガストンが後ろから、磨き布をひとつ、見習いの頭にぽすんと載せた。
「明日の搬入、先頭はお前だ。……転ぶなよ」
──翌朝。連合から、品評会の審査員名簿が届いた。
五人の名前を上から読んでいったレナールの目が、一箇所で止まる。
「……審査員のひとり、ダルモン子爵。エステル様、この姓は」
「ええ。──ユーグ様の、叔父上ですわ」
見習いの一番仕事、千粒の月でした。次話、品評会本番。ただし審査員席に、嫌な名字が座っています。
ブックマークと☆評価、ミレットの玉と同じくらい大事に磨いております。




