第51話:妻ではなく、共同代表として
「デュラン商会の販路、お譲りいただきたく、参上いたしました」
卓の向こうで、当主が黙って私を見ていた。値踏みの目は、まだ続いている。
「話は聞いている。だが、こちらの言い値を、先に聞くのが筋ではないか」
「筋は、御社の言い値からではなく、御社の実情から立てるべきかと存じますわ」
私は、帳面を卓に開いた。
「まず、御社のオルレア交易の実情から、確認させていただきますわ」
「実情、とは」
当主が、眉をひそめた。
「差し出がましいようですが」
私はレナール様から預かった写しを、隣に並べた。
「去年一年、御社の荷は十八便。うち黒字だったのは三便のみ。残る十五便は、関税・為替・模倣品の三重で目減りし、通算では大きく赤字。……この数字、間違っておりましてこと」
沈黙が、応接に落ちた。
「──よく調べたな」
ルドガー様が、静かに言った。
「間違ってはいない」
当主の顔が、初めて硬くなった。
「弟の妻風情が、うちの内情を、そこまで」
「妻ではございません」
私は、遮った。
「共同代表として、参っております。共同代表は、商いの数字を読むのが仕事ですわ」
「……生意気な」
「生意気ではなく、正直でございますの」
私は、当主の目をまっすぐ見た。
「御社は、この十八便で、経験を積まれました。関所での足止め、為替の目減り、市場での模倣。──その経験を、わたくしどもは、一つずつ、自分の目で確かめて、乗り越えて参りました」
「それが、どうした」
「御社の経験は、御社にとっては損失。でも、わたくしどもにとっては、既に支払われた授業料に見えますの」
私は、帳面を閉じた。
「販路をお譲りいただければ、御社は、これ以上の損を止められます。わたくしどもは、御社が十八便かけて学んだ道を、もっと少ない便数で渡れます。──双方にとって、得なお話だと思いますわ」
「共同出資ではないのか」
「共同出資は、お断りいたしますわ」
私は、はっきり言った。
「御社の口出しを受けながら商いをする気は、ございません。あくまで、販路の権利のみ。金額は、御社の言い値から、こちらで精査させていただきます」
「──足元を見るか」
「足元を見ているのは、御社の帳簿ですわ。わたくしではございません」
当主は、しばらく私を睨みつけていた。それから、隣のルドガー様に目をやった。
「ルドガー。お前は、この話をどう見る」
ルドガー様は、静かに答えた。
「妥当だと思います」
「お前まで」
「兄上。うちは、もう選べる立場にありません。損切りを、これ以上先延ばしにする体力が、うちには残っていない」
当主は長い沈黙のあと、卓を叩いた。
「──分かった。書面を用意させる」
「お待ちくださいまし。もう一点、条件を」
「まだ、あるのか」
「はい。荷の受け渡し先の職人と商人には、これまでどおり、御社の名で仕事を続けていただきたく存じます。──販路を買うのは、御社の看板を潰すためではございませんもの」
当主が初めて、少し虚を突かれた顔をした。
「潰す気だと、思っていたのか」
「潰す気は、最初からございません。潰せば、御社に関わってきた方々の生活まで、巻き添えにいたしますもの」
「……妙な律義さだな」
「律義ではなく、商いの作法ですわ。人を巻き込んで得た得は、いずれ利息をつけて返せと言われます」
私は、深く一礼した。
「ありがとう存じます」
「一つだけ、聞かせろ」
当主は、忌々しげに言った。
「お前、本当に、あのレナールの妻か」
「はい」
「あいつが、数字の話しかできない、可愛げのない三男だったことは、覚えているか」
「存じ上げませんわ」
私は、微笑んだ。
「わたくしが存じ上げておりますのは、数字の話しかできないふりをして、誰よりも人を思いやる、共同代表のことだけですもの」
帰りの馬車の中で、私は初めて大きく息を吐いた。手が、少し震えていた。緊張していたのだと、今になって気づく。
工房に着くと、レナール様が門の前で待っていた。
「首尾は」
「販路、いただけましたわ」
彼の顔が、ゆっくりと崩れた。安堵と驚きと、それから少し悔しさの混じった顔だった。
「私が行っても、まとまらなかったかもしれません」
「あら。そんなことございませんわ」
「いえ。あなたが行ったから、まとまったのです」
彼は、私の手を取った。
「私が守りたいのは、工房だけではありません」
その一言に、私は少し息を止めた。出資者総会の日に聞いた言葉と、同じだった。
「今日は、それを、あなたから証明していただきました」
「レナール様」
「はい」
「本日の決算を」
「本日の決算」彼は、少し笑った。「販路がひとつ、実家との縁が一本、細く繋がり直し。……そして、私は、あなたに借りがひとつ増えました」
「あら。利息をつけて返していただきますわよ」
「望むところです」
工房の奥から賑やかな声が聞こえてきた。ミレットが輸出の四便目の荷造りを、職人たちと一緒に進めている声だった。
どんな重い一日の後にも、この工房はいつもと同じ音を立てている。それがなぜだか、いちばんの安心だった。
第52話「選挙の数字」。共済金庫の票を数え直す夜です。掛け金は取られているのに、返ってこない仕組みが見えてきました。
あの食卓での逆転です。☆評価が、いちばんのご褒美です。




