第50話:頭を下げるか、数字を出すか
名簿写しと、共同出資の返事。二つの締切が、同じ週に重なった。
工房は輸出の四便目の支度も抱えていて、私たちの寝る間は、目に見えて減っていった。
「レナール様。少し、休まれては」
「休めません」
彼は、帳面から顔を上げずに答えた。
「兄上への返事を、明日には出さねばなりません」
「お決まりになりましたの」
「──決まりません」
名簿写しも思うように進んでいなかった。共済金庫の記録はあちこちに欠落があり、掛け金を払っているはずの職人の名が三分の一ほど見当たらない。
「これでは、票数が読めません」
彼は深夜の帳場で、何度も同じ頁を数え直していた。
「名簿が正しくなければ、勝てる勝負も勝てません」
その晩、彼は珍しく酒に手を伸ばした。強くはない人だ。杯を二つ空けたところで、もう頬が赤い。
「エステル様。私は、頭を下げるのが、ひどく苦手です」
「存じておりますわ」
「実家に、頭を下げに行かねばなりません。共同出資を断り、販路だけを買う。その条件を飲ませるには、向こうの本家で、直接、話をつける必要があります」
「ご自分で行かれますの」
「行かねばなりません。……行けば、あの食卓に、また座ることになります」
あの冷たい晩餐を思い出した。三男は席次の末席に座らされ、兄たちに嘲られていた食卓だ。あの夜のレナール様の背中を、私は今もはっきり覚えている。
「あの食卓に、もう一度お座りになるくらいなら」
私は、静かに言った。
「輸出を半分に削られたほうが、まだましだと、そう思っていらっしゃいますの」
「──思っておりません」
彼は即座に否定した。否定してから、自分の即答に、少し驚いた顔をした。
「思っていない、と分かっているのに、体が動きません。妙なものです」
「妙ではございませんわ。傷は、頭で治るものではございませんもの」
「レナール様」
「はい」
「わたくしが参りますわ」
彼が、驚いた顔で顔を上げた。
「エステル様が」
「はい」
「なぜです」
「あなたは、あの食卓で、まだ子供のあなたのままでいらっしゃいますもの。……頭を下げるのは、大人になったあなたには、造作もないことでしょう。でも、あの席に座った瞬間、あなたはたぶん、六歳の頃に戻ってしまいます」
彼の指が、杯の縁で止まった。
「──図星です」
「でしたら、わたくしが参ります。わたくしは、あの食卓に、何の思い出もございませんもの。まっさらな数字で、話を進められますわ」
「危険です。兄上たちは、あなたを軽んじるでしょう」
「軽んじさせておきますわ。軽んじた相手に商談で勝つのは、わたくし、慣れておりますの」
「あの食卓で、兄上は、あなたのことも値踏みします。──『三男の拾い物の妻』と、以前、そう言っていました」
「まあ、光栄ですこと」
「光栄、ですか」
「拾い物は、値がつかないぶん、誰も本気で警戒いたしませんもの。……商談の卓では、警戒されないことが、いちばんの武器ですわ」
レナール様が初めて、少しだけ笑った。
「本当に、あなたには敵いません」
私は、彼の杯を静かに取り上げた。
「レナール様は、名簿を進めてくださいまし。共済金庫の票は、あなたにしか数えられません」
「エステル様」
「はい」
「あなたを、一人で行かせることが、私にはできません」
「では」
「──二人で、それぞれの重荷を、それぞれ担いましょう。私は名簿を。あなたは、実家を」
その言葉に、私は少し笑った。
「守る役目を、初めて交代いたしますのね」
「初めてです。……あまり、気の進む交代ではありませんが」
彼は、それでも頷いた。
「一つだけ、持っていってください」
彼は帳場の抽斗から、小さな折りたたんだ紙を出した。
「デュラン商会の去年一年の、荷動きの写しです。──兄上は、うちが数字を持たずに来ると思っています。数字を持って行けば、それだけで、対等の卓につけます」
「いつの間に、これを」
「三日前から、市場の噂を集めておりました。……あなたを一人で行かせると決めた日から、です」
守る役目を交代すると言いながら、この人は結局、私の背中にこっそり武器を持たせている。そういうところが、たぶん、いちばん好きなのだと思う。
翌日、デュラン商会本家の門を、私は一人で叩いた。
門番が取り次ぎに入ったあと、応接に通されるまでの間、私はずっと考えていた。守られる役ではなく守る役として、この門をくぐる日が来るとは。初夜の夜には思いもしなかった。
通された応接には、ルドガー様と、当主である長兄が並んで座っていた。長兄は、値踏みするような目で私を眺めた。
「──エステル殿、お一人か。レナールは、来ないのか」
「工房におります。本日は、わたくしが、共同代表として参りました」
「共同代表、という肩書は聞いていたが」
彼は、鼻で笑った。
「実際に、こういう場に女が出てくるとはな。……まあいい。話だけは聞こう」
私は椅子に腰を下ろした。あの晩餐でレナール様が座らされていた末席には、座らなかった。ルドガー様の正面、対等の位置に座った。
卓には、あの日と同じように湯気の消えた料理が並んでいた。冷たい晩餐だ。この家では客をもてなす気があるかどうかを、料理の温度で示すものらしい。
私は料理には手をつけず、懐から一冊の帳面を取り出した。
「デュラン商会の販路、お譲りいただきたく、参上いたしました」
第51話「妻ではなく、共同代表として」。第12話と同じ食卓で、今度は、わたくしが商談を制します。
守る役目の交代の回でした。ブックマークで応援いただけますと嬉しいです。




