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契約結婚の初夜、旦那様は花束ではなく帳簿を持ってきました 〜愛のない政略夫婦、傾いた灯り工房を二人で立て直します〜  作者: 雪乃フィオナ


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第49話:もっと高く売れるとき

 共済金庫の名簿を借り受ける算段をつけ、工房に戻ったのは夕暮れだった。


 三日がかりの名簿写しは、まだ半分も進んでいない。オーブリーの議事日程まで、あとひと月足らず。急がねばならないのは分かっているのに、体は正直で、疲れは日に日に重くなっていた。


 工房に戻ると、応接の椅子に、見覚えのある男が座っていた。


 ルドガー・デュラン。レナール様の長兄。総会で敗れて以来、一年ぶりの訪問だった。


「……兄上」


 レナール様の声が、目に見えて硬くなった。


「久しいな、レナール。奥方も、変わらずお美しい」


 ルドガー様は以前より少し痩せて見えた。仕立ての良い上着は同じでも、着こなす体が、以前ほど堂々としていない。


「本日は、何のご用向きで」


「今度は、買いに来たのではない」


 ルドガー様は、静かに言った。


「──売りに来た」


「売る、と申しますと」


「デュラン商会の、オルレア方面の販路だ」


 私たちは、思わず顔を見合わせた。


「兄上のところが、オルレアに販路をお持ちでしたの」


「あった。過去形だ」


 ルドガー様は、自嘲するように笑った。


「うちも、輸出に手を出していた。お前たちより、少し早くにな。……だが、うまくいかなかった」


「うまくいかなかった、とは」


「関税で足を取られ、為替で目減りし、模倣品に客を奪われた。──お前たちが今、経験していることを、うちは全部、先にやって、全部失敗した」


 彼は懐から書類の束を取り出し、卓に置いた。


「商会の帳簿だ。オルレア交易の分だけ、見せてやる」


 レナール様が、無言でそれを繰った。私も横から覗きこんだ。数字に明るいわけではないが、赤い数字がいくつも並んでいるのは分かった。


「……深うございますわね」


「深い。うちの本業まで、じわじわ食われている」


 ルドガー様は、疲れた声で言った。


「お前たちが、うちより下手にやるとは思わなかった。むしろ、うまくやっている。──だから、売りに来た。うちの持っている現地の伝手と、荷の受け渡し先の権利を、まとめて」


「共同出資、ということですの」


 私が尋ねると、彼は首を横に振った。


「いや。共同出資は、望んでいない」


「では」


「共同でやるには、お前たちは、うちを信用していない。当然だ。一度、乗っ取りにかかった相手だ」


 ルドガー様は自分で言いながら、苦い顔をした。


「エステル様も、覚えておいでだろう。総会の日、あなたがわたしを見た目を」


「……覚えておりますわ」


「あの目を、忘れずにいる。忘れずにいるから、今日は、口出ししない条件を、自分から出している」


 少しだけ、彼の声が、以前と違って聞こえた。負けを認めた者の声には、こういう静かさが宿るのかもしれない。


「だから、ただ売る。金で。以後、口も出さない。──それだけの話にしたい」


 レナール様はしばらく帳簿を見つめたまま、動かなかった。


「兄上」


「なんだ」


「なぜ、私のところに」


「他に、買う相手がいない」


 ルドガー様は帳簿の赤い数字を、指の背で軽く叩いた。あの仕草を、私はどこかで見た覚えがあった。──弟の癖に、少し似ている。血は、意外なところに残るものらしい。


 ルドガー様は、正直に言った。


「オルレアの伝手など、他の商会は欲しがらない。今、いちばんオルレアで顔が利くのは、皮肉にも、お前のところだ」


 沈黙が、応接に落ちた。


「考えさせてください」


 レナール様は、ようやくそう答えた。


「すぐに、とは申し上げられません」


「構わない。……ただ、一つだけ」


 ルドガー様は、立ち上がりながら言った。


「今度は、もっと高く売れるときに参りますよ──あの日、私はそう言って引き上げた。覚えているか」


「覚えています」


「あれは、負け惜しみだった。だが、こうして戻ってくるとはな。人間、口にした言葉には、案外、縛られるものだ」


 彼は扉のところで一度足を止め、振り返らずに言った。


「──お前が羨ましいと思ったことは、一度もない。今もない。ただ、お前の商いのやり方が、正しいことは、認める」


 それだけ言って、彼は去っていった。残された私たちは、しばらく無言だった。


「レナール様」


「はい」


「お受けになりますの」


「分かりません」


 彼は帳簿の赤い数字を、もう一度なぞった。


「共同出資は断ります。それは、決めています。……ですが、販路だけを買うとなると、話は別です」


「なぜ、迷っていらっしゃいますの」


「これを買えば、実家と、また細く繋がることになります」


 彼の指が、止まった。


「断ちたかった相手と、また同じ帳簿の上に立つ。……その覚悟が、まだ、できておりません」


「レナール様」


「はい」


「兄上様は、口出ししないと仰いましたわ」


「言葉です。守られる保証は、どこにもありません」


「では、伺いますわ。数字だけを見れば、この話、得でございますこと、損でございますこと」


 彼はしばらく黙って、赤い数字の並ぶ帳簿を見つめた。


「──得です。かなりの得です」


「でしたら」


「得だから、余計に、怖いのです」


 彼は、静かに帳面を閉じた。


「実家との縁は、得のためなら結び直せる。そう思う自分が、いちばん、実家に似ている気がして」


 私は彼の手に、そっと自分の手を重ねた。


「似ていて、何がいけませんの。数字を見誤らない才は、実家の血ではなく、あなたご自身のものですわ」


 彼はしばらく私の手を見ていた。それから、小さく頷いた。


「……少し、考えさせてください」

第50話「頭を下げるか、数字を出すか」。国内の逆風と、実家の申し出。二つの重さが、一度に肩へのしかかります。

義兄の再訪です。☆評価をいただけますと、書く手が速くなります。

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