第5話:初めての黒字
決算の夜は、雨だった。
工房の二階、事務室。円卓の上には帳簿が五冊と、燭台がひとつ。初夜とまったく同じ並びで、私とレナールは向かい合っていた。
違うのは、帳簿を読むのが二人がかりだということ。それから、窓の外の作業場で、窯の火が三基に増えていることだ。
この三ヶ月で、円卓の景色は変わった。帳簿の付箋は倍になり、私の指には新しい火傷がふたつ増え、レナールの筆算の速さに、私の読み上げが追いつくようになった。
「売上、月光灯三十七基に追加受注が二十一基。貸出料が四夜会分。材料費、東街道の直引きで一割五分の増……人件費、ミレットの給金を見習い二年目に上げて──」
「そこは異議なし。あの子の霜挽きは、もう見習いの腕ではありませんもの」
「広告費は、ゼロ。モンフォール伯爵家の夜会が、そのまま広告でしたから。それから、屑硝子の在庫が資産に化けたのが効いています。朧月の原価率は、正直、笑ってしまう数字です」
「笑ってくださって結構よ。あれは元・失敗作の山ですもの」
「……工房の帳簿を見て笑ったのは、生まれて初めてです」
「わたくしも初めてですわ、笑える帳簿なんて。──それで、締めると?」
レナールはペンを置き、帳簿をくるりと回して、私に向けた。
最後の行に、黒い数字があった。
赤ではなく、黒。
「……黒字」
「初回返済、金貨三百枚。本日、ギルド共済金庫に納めてきました。受領印も、ここに。──差し押さえの根拠は、これで消えました」
しばらく、二人とも黙っていた。雨の音と、階下の窯の低い唸りだけがしていた。
三ヶ月前、初夜の円卓で見た「負債三千枚」の頁を思い出す。あの夜の私は、蜜月ではなく決算から始まる結婚生活を、他人事みたいに面白がっていた。
今は、面白がっていない。嬉しくて、指の先が熱い。
「エステル様。共同代表として、初年度中間決算のご報告を」
レナールが立ち上がり、酒棚から古い葡萄酒を一本取ってきた。先代の残り物だという。杯がないので、検品落ちの硝子の小鉢がふたつ。
「本日の決算。金貨換算で申し上げれば、負債はまだ二千七百枚。大赤字です」
彼は小鉢に酒を注ぎながら、真顔で続けた。
「──それ以外のすべてで、黒字です」
「……それ、私が言おうと思っていましたのに」
硝子の小鉢を、こつんと合わせた。月光灯の銀の光の下で、安い小鉢が、ちょっと高そうに光った。
そのとき、階段の下から歓声が上がった。覗くと、作業場で職人たちが樽を開けていた。ガストンが「返済祝いだ、文句あるか」と怒鳴り、ミレットが「代表! 代表夫人! 降りてきてください!」と手を振る。
降りていくと、誰かが言った。
「しっかし、二階のお二人さんよう。帳簿挟んで差し向かいで、樽より先に祝杯挙げてやがった。ありゃもう、まるっきり本物の夫婦だね」
作業場が、どっと笑った。
「「違います」」
声が、完全に重なった。
職人たちがもう一度、今度はもっと大きく笑った。ミレットが「今の、息ぴったりでしたよ」と余計なことを言う。私は絶対にレナールのほうを見なかったし、レナールも絶対にこちらを見なかったと思う。たぶん。おそらく。
宴の輪の中で、古株の職人が先代の話をしてくれた。良い親方だったが、商いは下手だった。窯の建て替えの借金、量産品の値崩れ、そして急な死。
「あんたらが来なけりゃ、この窯は今ごろ冷えてたよ」
その人は酔った赤い顔で言って、私の小鉢に樽の酒を注ぎ足した。安酒が、ちゃんと美味しかった。安酒がちゃんと美味しい夜というのは、良い夜だ。
宴のあと、ガストンが私の隣に来て、火の落ちた一番窯に凭れた。
「奥方。……いや、エステルさんよ」
初めて、名前で呼ばれた。
「あんたの手つきの話だ。俺はな、若い時分、よその工房で修業してた。そこの意匠の先生が──女の人でな。型を火に透かしてから合わせろってのは、その人の口癖だった」
心臓が、静かに速くなる。
「その方の、お名前は」
「腕は王都一だった。……なのにある日、ふっつり工房に来なくなった。その訳を俺が知ったのは、ずっと後のことだ」
それは、名前の答えではなかった。ガストンは火の落ちた窯を見たまま、しばらく黙って、それから首を振った。
「──今日は返済祝いだ。辛気くせえ昔話は、また今度な」
ガストンは私の頭に、ぽん、と大きな手を置いて、行ってしまった。倉庫の重ね型の銘──E・L。母は昔、この工房と何かで繋がっていた。その確信だけが残った。
深夜。事務室に戻ると、レナールが契約書を広げていた。
「更新ですか? 契約」
「いえ。……第七条を、読み返していました」
王室御用達の栄を賜りし暁には、本婚姻の解消を協議する──あの条項だ。
「黒字とはいえ、御用達なんて、まだ遠い遠い話ですわね」
「ええ。遠い話です」
レナールは、なぜか少しだけ間を置いてから契約書を畳んだ。
畳まれた契約書の上で、燭台の灯りが揺れる。解消、という言葉を、私は頭の中で一度だけ転がして、棚の高いところに仕舞った。当分、使う予定のない言葉だ。……当分って、いつまでかしら。
その間の意味を訊く前に、彼は続けた。
「それより、気掛かりが一つ。回状の件の答え合わせが、まだです。うちの資材を止めて、失敗した誰かがいる。その誰かは今ごろ、次の手を考えているはずです」
答え合わせは、翌朝、向こうからやってきた。
ギルド連合の紋章入りの封書。差出人は、王都生産ギルド連合議長、ゴーティエ。
『貴工房の製品「月光灯」につき、連合規格の適合審査を実施する。三日後、連合会館に出頭されたし』
「……規格審査?」
「新参潰しの常套手段です」レナールの声が、一段低くなった。「そして議長直々の呼び出しとは。──喧嘩の相手は、思ったより大物のようです」
初黒字と初返済、そして「まるっきり本物の夫婦だね」でした。次章、ギルド連合議長のお出ましです。月はまだ、曇らせません。
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