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契約結婚の初夜、旦那様は花束ではなく帳簿を持ってきました 〜愛のない政略夫婦、傾いた灯り工房を二人で立て直します〜  作者: 雪乃フィオナ


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第46話:二十年前の売り手

「二十年前にも、同じ技を売りに来た者がいた」


 その一言を確かめるのに、私たちは十日を費やした。


 十日のあいだ、工房は輸出の三便目に忙しかった。窯は交代で焚かれ、荷は次々と河を下っていく。私は昼は帳場に立ち、夜は記録庫に通うという日々を送った。


 ミレットが心配して、夜食を運んでくることが増えた。


「代表夫人、あんまり根を詰めると、お体に」


「大丈夫ですわ。……ミレット、あなたは知っておりまして? 母のことを」


「エレーヌ様のこと、ですか。あたし、生まれる前の話なので」


「ですわよね」


 この工房で、母を直接知るのは、もう親方一人だけだ。私は、記録の頁を繰る手を止めなかった。


 アシャール氏はあの日以来、面会を断り続けていた。負けを認めた商人が、なぜ肝心なところで口を閉ざすのか。理由は分からなかった。


「商館の古い目録に、当たれる範囲で当たります」


 レナール様がそう言ったのは、公開比較の翌日だった。商館の記録庫は、埃をかぶった帳面の山だった。ヴァレ様の許しを得て、私たちは二十年前後の輸入・仕入れの記録を、片端から繰った。


 三日目、レナール様の手が止まった。


「──ありました」


 差し出された頁には、古い商取引の記録が並んでいた。


『買主 アシャール商会(当時・行商人ドニ・アシャール)/品目 意匠図面一式(月光の重ね型)/売主──』


 私はその先の文字を、目で追った。墨が薄れ、読みにくい。それでも、確かにそこに署名があった。


 二文字。


『E・L』


 母の銘だった。


「……そんな」


 喉から、声にならない音が漏れた。


「エステル様」


「これは、母の署名ですわ。台座の裏に刻んでいた銘と、同じ」


 台座には、二文字。契約書にも、書類にも、母はいつもこの銘で署名していたと聞いている。レナール様が、頁の余白を指した。


 取引の日付。二十年前の、初夏。母が亡くなったのは、二十年前の冬だ。この取引は、母がまだ生きていた時期のものになる。


「──母が、自分で売った」


 その言葉が、口から零れ落ちた。


「母は、意匠を握り潰されて、失意のうちに亡くなったと聞いておりました。……でも、これが本当なら」


「まだ、分かりません」


 レナール様が、私の肩に手を置いた。


「署名は、写せます。二文字だけの銘なら、なおさらです」


「では、誰が」


「それを、確かめに行きます」


 その夜、私は工房に戻ってから、久しぶりに親方の前に座った。


「親方。母の署名について、伺ってもよろしいこと」


「なんだ」


「母は、生前、誰かに意匠を売る、というようなお話をなさったことは」


 親方の顔が、みるみる険しくなった。


「──絶対に、無え」


 即答だった。迷いのかけらもなかった。


「エレーヌ様は、自分の意匠を金に換えることを、いちばん嫌ってた人だ。窯が傾いても、意匠だけは売り物にしねえって、口癖みてえに言ってた。……あの人が、自分から売るなんて、天地がひっくり返っても無え」


「では、この署名は」


「写せるんだろう、二文字なら」


 親方は、吐き捨てるように言った。


「誰がやったにせよ、エレーヌ様は関わっちゃいねえ。俺は、それだけは信じる」


 その言葉が、記録庫の頁を繰る手に、静かな支えを与えてくれた。ヴァレ様に頼み込み、私たちはアシャール氏との再会にこぎつけた。彼はあの日とは打って変わって、疲れた顔をしていた。


「──記録庫に、お入りになったのですね」


「入りました。この署名について、伺いたいのです」


 私は、写し取った頁を差し出した。アシャール氏はそれを一瞥して、静かに目を伏せた。


「わたくしが、まだ若かった頃の話です。……行商をしていたわたくしのもとに、ある人物が現れました。売主として、この署名を持って」


「その人物のお名前は」


「──覚えておりません」


「覚えていない、ということは」


「顔も、覚えておりません。取引は、代理人を通じて行われました。書類だけが、わたくしの手元に届いたのです」


「代理人」


「はい。年配の男でした。丁寧な物腰で、条件はすべて代理人が決めていきました。売主本人には、一度も会っておりません」


 私はその代理人の顔を、想像しようとした。うまく、思い浮かばなかった。それでも、体の芯のどこかが、既に何かを知っているような気がした。


「その代理人の、風貌は」


「恰幅のよい、鷹揚な話し方をする方でした。……名は」


 アシャール氏はそこで初めて、私の目をまっすぐ見た。


「デュラン様、奥方様。わたくしから申し上げるより、答えをご存じの方に、直接お尋ねになるのがよろしいかと」


「ご存じの方、と申しますと」


「代理人は、今、王国の獄に繋がれているはずです。──ゴーティエと名乗っておりました」


 広場の歓声も、記録庫の埃の匂いも、その瞬間、何も感じなくなった。母が、自分で売ったのか。それとも、ゴーティエが、母の名を騙って売ったのか。


 答えを知る人間は、たった一人。獄の中にいる。


「エステル様」


 レナール様が、私の手を取った。


「今、決めつけないでください。あなたは今、二つの答えのあいだで、いちばん苦しい場所に立っている」


「苦しくございませんわ。……いいえ、苦しゅうございます」


 私は、自分の声が揺れるのを止められなかった。


「母が売ったのなら、わたくしは、母を疑って参ったことになりますわ。ゴーティエが騙ったのなら、母の名は、また汚されたままです。……どちらの答えも、嬉しくございません」


「一つだけ、確かなことがあります」


 彼は、私の手を強く握った。


「あなたは、どちらの答えでも、母君を愛することをやめない。──それだけは、確かです」


 その一言が、震える私の胸を、少しだけ静めた。


「参りましょう」


 私は、涙を拭って言った。


「獄へ」

第47話「獄の証言」。真相を、確かめに参ります。二十年ぶりの再会になります。

読者の皆様も、一度は母を疑ったでしょうか。ブックマークで続きをどうぞ。

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