第45話:盗めない一段
公開比較の話が広場に貼り出された朝から、工房は妙な緊張に包まれていた。親方は当日に出す月光灯を三度、焼き直させた。
「重ねの薄さが、髪の毛の十分の一だ。九分の一でも、十一分の一でも駄目だ。今日ばかりは、誤差を許さねえ」
「厳しゅうございますこと」
「厳しくなきゃ、今日だけは駄目なんだよ」
ミレットは朝からずっと硝子玉を磨いていた。玉には出番がないと分かっていても、手を動かさずにはいられないらしい。
「代表夫人。緊張して、吐きそうです」
「わたくしもですわ」
「代表夫人でも緊張なさるんですか」
「毎回いたしますわよ。……慣れないところが、この仕事の良いところですもの」
商館前の広場に、卓が二つ、並べられていた。
片方にうちの月光灯、片方にアシャール商会の品。同じ満月灯の型。同じ重ねの段数。遠目には、見分けがつかない。
集まった人は、百を超えていた。オルレアの商人、貴族の使用人、物見高い町人たち。ヴァレ様が、双方の商会の名を読み上げると、どよめきが起きた。
「本日は、両商会の意匠、どちらが本物かを確かめる場ではございません」
ヴァレ様の声が、広場に響いた。
「本物か真似かは、この場では問いません。──ただ、灯りとしての出来を、皆様の目でご覧いただきます」
二つの灯りが、同時に点された。どよめきが、また起きた。見分けがつかない。光の色も、輪郭のやわらかさも、まったく同じに見える。
「……同じですわね」
群衆の一人が言った。私にも聞こえるほどの声で。
「同じなら、安いほうを買えばいい」
周りが、うなずいた。私の隣で、レナール様の手が、静かに拳を作った。
ここまでは、アシャール氏の思惑どおりだ。見た目が同じなら、値の安いほうが勝つ。それが、この人の商いの理屈である。
アシャール氏本人は、少し離れた場所で、腕を組んで見ていた。勝ち誇る顔ではなかった。むしろ、何かを確かめるような、静かな目だった。
「──奥方様。今のうちに、種明かしをなさったほうがよろしいのでは」
ヴァレ様が、小声で耳打ちしてきた。
「もう少し、待ちますわ」
「なぜです」
「群衆の口から、『同じだ』という言葉が出尽くすまで。……そのほうが、後の落差が大きくなりますもの」
ヴァレ様が、驚いた顔でこちらを見た。
「奥方様は、時折、ずいぶん商人らしいことを仰いますね」
「一年、この方の隣におりますもの」
私は隣のレナール様を見た。彼は、拳を作ったまま、微動だにせず群衆を見ていた。私は、一歩前に出た。
「皆様。もう一つ、ご覧いただきたいものがございます」
広場が、静まった。
「灯りを、少しだけ暗くしていただけますこと」
商館の従者が、周りの松明を落とした。二つの灯りだけが、広場に残る。私はうちの月光灯の台座に、そっと手をかざした。影が、台座の裏の壁に伸びる。
その影の中に──満月と三日月の重なった、淡い紋が浮かんだ。どよめきが、今度は違う質になった。
アシャール商会の品にも、同じことを試す。台座に手をかざしても、影には、何も浮かばない。ただの、丸い影があるだけだった。
「──これは」
群衆の誰かが呟いた。
「片方だけ、月が映る」
「月印と申します」
私は、静かに続けた。
「重ねの薄さを、髪の毛の十分の一まで揃えることで、初めて浮かぶ紋でございます。……型を写すことはできても、この薄さだけは、写せません」
アシャール氏が、群衆をかき分けて前に出てきた。彼は自分の商会の品を手に取り、光にかざし、裏返し、しばらく見つめていた。それから、静かに言った。
「──負けを認めます」
「アシャール様」
「奥方様。わたくしは、二十年、この型を売ってまいりました。売れ続けたのは、値が安かったからだと思っておりました。……ですが、今日、初めて分かりました。売れていたのは、値が安かったからではなく」
彼は、灯りをそっと卓に戻した。
「本物に、値の安さで近づくことすら、許されていたからでございます」
群衆が、静かに聞き入っていた。私の背後で、小さな声がした。
「……代表夫人。あたしの玉、ちゃんと光ってます」
ミレットだった。今日出した灯りに、彼女が仕上げた玉が使われている。私は振り向いて頷いた。
「ちゃんと、光っておりますわ。誰よりも」
「二十年前にも」
アシャール氏は、ぽつりと言った。
「同じ技を売りに来た者がいたよ。──あれは、確かに、この重ねを知っていた」
私の心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。
「それは、どなたですの」
アシャール氏は、答えなかった。答える代わりに、群衆に向かって深く一礼し、広場を後にした。残された私たちの周りで、歓声が上がりはじめていた。
「本物だ」「これが本物の月光灯か」「注文したい、どこで買える」
声はどんどん重なって、広場を埋めていく。けれど、私の耳には、さっきの一言しか残っていなかった。二十年前にも、同じ技を売りに来た者がいた。
「レナール様」
「聞きました」
彼の声も、硬かった。
「二十年前と仰いました。……母君が、まだご存命だった年です」
母は、亡くなる直前まで、意匠師として生きていた。その母が、生きているうちに、自分の技を誰かに──売ろうとしていた、というのだろうか。群衆の歓声の中で、私はしばらく動けなかった。
誰かが、私の肩を叩いた。振り返ると、親方だった。
「奥方。今は、喜ぶ日だ」
「でも」
「今日の分は今日で喜んで、二十年前の話は、明日から調べればいい。……一日くらい、喜んでからでも、真相は逃げやしねえよ」
私は、深く息を吸った。
親方の言うとおりだ。目の前には、月印を初めて公に示せた喜びがある。それを、まだ確かめてもいない疑念で塗り潰すのは、順番が違う。
「レナール様」
「はい」
「今日だけは、喜びましょう」
彼は少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「──そうですね。本日の決算を」
「本日の決算。真似の商会が一つ、負けを認め。ミレットの玉が、初めて公の場で光り。……そして、二十年前の謎が、一つ増えました」
「増えたのは、赤字でしょうか」
「いいえ」
私は、笑った。
「知りたいことが増えるのは、赤字とは申しませんわ」
第46話「二十年前の売り手」。追跡した先で、古い記録が見つかります。そこに、見覚えのある署名が。
盗めない一段の正体は、次話以降にも効いてきます。☆評価が燃料です。




