第44話:三年を待てますか
アシャール商会からの申し出を断った日、ミレットは工房に戻って、しばらく誰とも口を利かなかった。夕方になって、彼女は帳場の私のところへ来た。
「代表夫人。あたし、断りました」
「立派でしたわ」
「立派じゃないです。断ってから、少し、後悔しました。……三年、待たなくていいって言われた気がして、心が動いたのは本当なので」
「正直で、よろしいことですわ」
私はミレットの隣に座った。
「後悔したことを、恥じなくてよろしいのです。心が動かなかったら、それは、あなたがこの工房を諦めていたということですもの」
ミレットが図面を描きはじめて、五日が経った。帳場の隅、いちばん光の入る場所に、彼女専用の卓を作った。硝子玉を磨いていた手が、今は羽ペンを持って、何度も線を引いては消している。
「……うまく引けません」
「初めから、うまく引ける人はおりませんわ」
私は、隣で自分の図面を広げながら答えた。
「わたくしも、最初の意匠は醜うございましたのよ」
「本当ですか」
「本当ですわ。母の型を真似ようとして、線が全部震えておりました」
ミレットの手が、少し軽くなった気がした。
「あたし、何を意匠にすればいいのか、それすら分からなくて」
「あなたが、いちばんよく見ているものを、意匠になさいな」
「あたしが、いちばん見ているもの」
「硝子玉ですわ。あなたが毎日磨いている」
ミレットが、手元の硝子玉を見た。
「玉の照り、ですか」
「照りではなく」私は続けた。「あなたは、割れる場所と割れない場所を、指で覚えているでしょう。布が引っかかる場所が、いちばん先に割れると仰いましたわね」
「言いました」
「それを、逆手に取れませんこと。──割れやすい場所を、あらかじめ丈夫にする意匠を」
ミレットの手が止まった。止まって、それから、急に動き出した。
「……できるかも、しれません」
その夜遅く、彼女は最初の下図を持ってきた。
硝子玉の周りに、細い金具の輪を一本、添える意匠だった。輪は、いちばん割れやすい場所を、そっと支えている。玉の輝きは損なわない。むしろ、光の縁に細い線が一本入って、瞬きのように見えた。
「星印、と名付けようと思います」
「良い名ですわ」
「輪が、星の光の筋みたいだから」
私は、その図面をレナール様に見せた。彼は長いこと、無言で見ていた。
「工数は」
「玉の成形に、輪の取り付けが一工程増えます。ですが、破損率が下がれば、輸出の梱包に使う粒の量も減らせます」
「原価は」
「金具ぶんだけ、少し上がります。ただ」
ミレットが、慌てて付け足した。
「屑金具でも作れます。窯の鋳掛け屑を溶かし直せば、材はほぼただです」
親方が、横から覗き込んで唸った。
「……こいつ、俺の口癖を盗んだな」
「盗んでません。教わりました」
「同じことだ」
「──採用します」
彼は即答した。
「意匠の考案者、ミレット。正式に、工房の記録に残します」
ミレットがその場で泣き崩れた。泣きながら、何度も「ありがとうございます」と繰り返した。その騒ぎが落ち着いた翌朝、商館から使いが来た。アシャール灯火商会からの、公開比較の申し出だった。
『貴工房の意匠と、当商会の意匠を、公の場で並べて比べたく存じます。オルレアの商人たちの前で。──真似と、独自の違いを、市場に示すためでございます』
レナール様は、その書状を二度読んだ。
「罠でしょうか」
「罠かもしれません」私は言った。「けれど、受けなければ、こちらが逃げたと見られますわね」
「見られます」
「アシャール様は、うちの意匠が本物だと確かめたいのだと思いますわ。──もしくは」
「もしくは」
「本物だと確かめたうえで、それでも真似ができないことを、市場の前で証明させたいのかもしれません」
レナール様の目が、こちらを見た。
「証明、と申しますと」
「アシャール様は、正しさを商いにする方ですわ。合法の紙一枚で、うちの意匠を真似ていらっしゃる。──その真似が、どこまで本物に届くか。ご自分でも、知りたいのではございませんこと」
沈黙が、しばらく続いた。
「受けましょう」
彼は言った。
「ただし、並べるのは月光灯にいたします」
「アシャール様の意匠と、月光灯を」
「ええ。あちらの型は、うちの月光灯の寸法を写したものです。並べれば、比べる相手として、いちばん分かりやすい」
「星印は」
「星印は、まだ見せません」
彼は卓の上のミレットの図面を、そっと裏返した。
「あれは、この工房の次の二十年を守る意匠です。真似のしようがない今のうちは、隠しておくべきものです。……お披露目は、真似られてからでは遅い。真似られる前に、静かに市場へ出します」
「では、ミレットの役目は」
「灯りの製作に、正式に名を連ねてもらいます。公開比較に出す月光灯の一基は、彼女に仕上げてもらいます」
私はその考えに、しばらく声が出なかった。この人はいつも、目の前の勝ち負けより先に、その先の二十年を勘定している。
「ミレットに、伝えてよろしいこと」
「はい」
「重い役目ですわ」
「重いです。ですが」
彼は、羽ペンを取った。
「あの子は、もう見習いではありません」
ミレットに公開比較の話を伝えたのは、その日の夕方だった。彼女はしばらく黙って聞いていた。それから、意外なほど落ち着いた声で言った。
「あたし、行きます」
「怖くないの」
「怖いです。でも」
ミレットは磨きかけの硝子玉を、そっと布で包んだ。
「断った側の商会が作った灯りが、断られた側の商会の前で、みっともない出来だったら。……あたし、自分で自分を裏切ったことになるので」
第45話「盗めない一段」。公開比較の日です。並べるのは、まだ誰も知らない意匠です。
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