第43話:引き抜き
「──あの型を作った者に、少し似ておいでですね」
アシャール氏の一言は、王都への帰りの荷馬車の中でも、私の耳から離れなかった。似ている。それはつまり、この人は、母を知っているということだ。
「レナール様。もう一度、伺いに参りましょう」
「はい。ただ、今日は駄目です」
「なぜ」
「向こうが、こちらを試しました。もう一度すぐに行けば、こちらが焦っていると教えるだけです」
正しい。正しいのが、少し悔しかった。その日の帰り道、私はずっと考えていた。
アシャール氏の店は、うちより大きい。給金も、たぶん、うちより出せる。それでも、この工房には、あちらに無いものがある。──何があるのか、うまく言葉にできないまま、工房の戸をくぐった。
工房に戻ると、様子がおかしかった。いつもなら夕方の窯番の交代で賑やかな土間が、妙に静かだ。職人たちが、遠巻きにこちらを見ている。
「どうなさいましたの」
親方が、渋い顔で顎をしゃくった。
「ミレットが、帳場に籠もってる」
帳場を覗くと、ミレットが小さな紙片を握りしめて座っていた。
「ミレット」
「あっ……代表夫人」
「何を持っておりますの」
ミレットはしばらく躊躇ってから、紙片を差し出した。
オルレア語だった。読めない部分もあったが、末尾に書かれた数字だけは分かった。給金の額。今のうちの三倍。
「昨日、市の商人だっていう人が、工房の外で声をかけてきて。……アシャール商会の使いだって」
「なんと」
「『三年、うちで修業すれば、正式な職人にする』って。硝子の仕事が続けられて、給金も三倍で、しかも」
ミレットの声が、小さくなった。
「『あなたの名前で、意匠を出せるようにする』って」
窯の音だけが、遠くで鳴っていた。この工房で、ミレットはまだ見習いだ。硝子玉を磨く仕事を任されてはいるが、意匠に自分の名を刻んだことは、一度もない。
「……お前、なんて答えたんだ」
親方が、低い声で聞いた。
「まだ答えてません。……考えさせてくださいって、言いました」
「考えてるのか」
「考えてます」
ミレットは、紙片をぎゅっと握り直した。
「向こうの人、言ってました。『あなたの腕なら、うちでは半年で職人扱いになる』って。……それ、噓じゃないと思うんです。あたしの玉、向こうの職人が見ても、悪くないって言ってくれたので」
「見せたのですか」
「見せてません。市場で買った人が、噂を運んできただけです」
テオが、奥から声を出した。
「……行っていい」
工房が、はっとした。テオがこんなふうに前に出るのは珍しい。
「テオさん」
「引き止める資格、俺にはない。……俺は、借金のかたに、ここに縛られてる。お前は違う」
「そんな言い方しないでください。テオさんは、今もここにいたいから、いるんでしょう」
「……それは」
「あたしも、同じです。いたいから、いるんです。まだ、決めてないだけで」
ミレットは、まっすぐ親方を見返した。
「あたし、この工房が好きです。代表夫人も、旦那様も、親方も、テオさんも。……でも、あたし、いつまで見習いなんですか」
誰も、すぐには答えられなかった。その質問は、正しい。正しくて、痛い。
レナール様はその一言に、しばらく黙っていた。それから、静かに帳面を閉じた。
「ミレット。給金の話を、伺ってよろしいですか」
「はい」
「向こうの提示額に、うちが今すぐ届かせるのは、正直、できません。窯を四基回して、輸出も抱えて、そこへ給金を三倍にする体力は、今のうちにはない」
ミレットの顔が、少し曇った。
「……ですよね」
「ですが」
彼は続けた。
「三年、待たなくていい理由を、うちなら一つ、作れます」
「ミレット」
私は、彼女の前にしゃがんだ。
「あなたが、まだ見習いなのは、あなたに実力がないからではございません」
「じゃあ、なぜですか」
「この工房に、見習いから職人へ上げる仕組みが、まだ無いからですわ。──それは、わたくしたちの怠慢です」
「代表夫人のせいじゃないです」
「いいえ、わたくしたちのせいですわ」
私は、はっきり言った。
「あなたが第八話で試作を救ったとき。あなたが二十一話でスパイの目から工房を守ったとき。あなたの名前は、いつも工房の手柄の中に埋もれておりました。──それは、あなたが未熟だからではなく、わたくしたちが、あなたに名前を出す機会を与えていなかったからですわ」
ミレットの目に、じわりと涙が浮かんだ。
「……あたし、辞めたいわけじゃないです」
「存じております」
「でも、三年待って職人になれるなら、それは、ここでも、あっちでも」
「同じですわね」
私は頷いた。
「同じなら、待つ理由がございませんもの」
その夜、レナール様と私は、帳場で長く話し込んだ。
「意匠の、名を出す仕事を任せます」
彼が言った。
「ミレットに」
「はい。輸出用の型に、彼女の名で意匠を一つ、正式に加えます。──三年後ではなく、今」
「準備は」
「まだありません。ですが、待っていては、三年後には、あの子はここにいません」
私は、頷いた。
「わたくしから、話しましょう」
翌朝、ミレットを図面棚の前に呼んだ。
「ミレット。あなたに、意匠を一つ、任せたいのです」
「……え」
「第二の刻印です。月印の次の、この工房の知財を、あなたの名で作りなさいな」
ミレットの手から、握りしめていた紙片が落ちた。
「あたし、まだ」
「まだ、で結構ですわ。まだの人が、まだのままで名を出す。それが職人というものではございませんの」
ミレットは、しばらく声を出せずにいた。それから、床に落ちた紙片を拾い上げ、静かに二つに裂いた。
「……返事、しに行ってきます。断りに」
「一人で参りますの」
「はい。……あたしのことですから」
工房の戸口に向かうミレットの背中を、私は見送った。あの子はまだ、返事を保留にしたままだった。
第44話「三年を待てますか」。図面を描き始めた夜、アシャールから、思わぬ申し出が届きます。
引き抜きの話は、書いていて胸が痛みました。☆評価が支えです。




