第40話:バルタザールの帳簿
良すぎる砂の一件は、それきり工房の話題には上らなかった。
考えすぎだ、と私は自分に言い聞かせていた。オルレアの砂が良質なのは、河が違うのだから当たり前のことだ。二十年、蔵の砂に苦しめられてきた反動で、良いものを疑う癖がついているだけだと。
けれど、倉庫の三十基は、まだ曇ったままだった。
「監督官殿の、通関の記録を見せていただけますか」
レナール様がそう申し出たのは、砂が届いてから五日後だった。バルタザール様は、少しだけ眉を上げた。
「異なことを仰る。検めるのは、こちらの仕事でございますが」
「存じております。ですので、検めさせていただきたいのです。──こちらの荷が、なぜ今も倉庫にあるのか、経緯を知りとうございまして」
「規則に従っております、とだけ申し上げております」
「規則の中身を、拝見したいのです」
バルタザール様は、しばらくレナール様の顔を見ていた。それから、意外なほどあっさりと言った。
「よろしゅうございます。監督官の記録は、公のものでございますので」
通された部屋は、関所の奥にある小さな文書庫だった。
棚一面に、革表紙の帳面が並んでいる。バルタザール様が「三年ぶん」と言って、無造作に十数冊を卓に積んだ。
この人は、自分の仕事が疚しいと思っていない。だから、隠しもしない。
私たちは、その夜から通いはじめた。
昼は工房、夜は文書庫。日付。荷主。品目。滞留の日数。理由の欄。三年ぶんの記録は膨大で、最初の二晩はただの数字の羅列にしか見えなかった。
「エステル様。この欄を見てください」
三晩目、レナール様が指を止めた。
「滞留の理由。ほとんどが『書類不備』です。──書類の何が不備だったか、次の欄に書く決まりのはずですが」
「空欄が多うございますわね」
「多い、どころではありません。……三分の一が空欄です」
私は卓の上の帳面を一冊、手に取った。
商会の名を目で追ってみる。同じ商会が何度も出てくる。滞留の日数は荷によってばらばらだった。三日で通る荷もあれば、十五日かかる荷もある。
「レナール様。これ、見比べていただけますこと」
「なんです」
「同じ商会の、同じ種類の荷ですのに。滞留の日数が、ずいぶん違いますわ」
彼が、二つの記録を並べた。
同じ月、同じ商会、同じ品目。片方は四日で通り、片方は十四日かかっている。理由の欄はどちらも「書類不備」。中身は書いていない。
「……差は、十日です」
「十日、何が変わりましたの」
彼は、記録の余白を指でなぞった。
余白に、数字とも記号ともつかない小さな印が書き込まれている。荷の値の三分ほどの、走り書きの計算らしきものだ。
「これは」
「監督官殿の、私的な覚書でしょう。……公の記録には書けないことを、余白に書く癖のある方は、珍しくありません」
三本の指の話は、この余白に、ずっと書かれていたのかもしれない。
四晩目。私は、うちの荷の記録を探し当てた。
滞留、十一日。理由の欄は「材の産地未記載」「意匠登録なし」と、二行。
その下の余白に、小さな印がひとつ。私はその印を、しばらく見ていた。
証拠にはならない。ただの走り書きだ。裁きの場に出せば「意味の分からぬ落書き」と言われて終わるだろう。
けれど、集めれば違う。
同じ印が同じ書き方で、三年ぶん、同じ癖で並んでいる。
「レナール様。これを、写し取りましょう」
「もう、写しています」
彼は既に十数枚の紙に、印の位置と日付を書き写していた。この人は、私が気づく半刻前から、同じことをしていたのである。
五日目の朝、私たちはヴァレ様に、写しを見せに行った。商館の応接で、ヴァレ様は写しを一枚ずつ、丁寧に見ていった。
見終えて、長い沈黙のあと、静かに言った。
「これは、わたくしからも本国へ報告しなければなりません」
「監督官殿を、罰していただきたいわけではございませんの」
私は言った。
「ただ、荷を通していただきたいだけですわ。──三十基も、この先の四百基も」
「奥方様」
ヴァレ様はいつもの感じのいい笑みを、少しだけ苦く歪めた。
「規則は、規則でございます。……不正の証拠が本国に上がれば、監督官の首はそれだけで動きます。荷を通す通さないの話では、もう済まなくなります」
「わたくしどもは、首を望んでおりませんの」
「望まなくても、そうなるのです」
「……ヴァレ様は、罰することに反対でいらっしゃいますの」
「反対はいたしません。反対する立場にございません」
彼は静かに言った。
「ただ、申し上げておきたいことがございます。監督官殿のような方は、あの方一人ではございません。首がひとつ挿げ替わっても、次の首が同じ癖を覚えることは、珍しくないのです」
「では、意味がございませんの」
「意味は、ございます」
ヴァレ様は写しをもう一度、丁寧に揃え直した。
「意味はございますが、一度で終わる話ではない、と申し上げているのです。──奥方様。あなた方は、これから何十年も、この道を通われるのでしょう」
「そのつもりですわ」
「でしたら、一つ処分するたびに、少しずつ、道が良くなっていくとお考えください。……たった一度で、道は綺麗になりません」
ヴァレ様は写しを丁寧に揃えて、卓に置いた。
「奥方様。あなた方は、荷を通す道具として証拠をお使いになりたかった。──証拠というものは、道具として使った瞬間から、道具のままではいられなくなるのです」
工房に戻る荷馬車の中で、私はずっと窓の外を見ていた。
「レナール様」
「はい」
「わたくしたち、誰かを罰することが、したかったわけではございませんわね」
「はい」
「でも、罰されますのね」
「──たぶん」
国境の門をくぐったとき、私は、ふと母の顔を思い出した。
持っていた証拠を渡すか、渡さないか。渡した先で誰かが罰されるのを望まなくても、罰される。母もきっと同じ迷いのどこかで、渡さない道を選んだのだ。
私は今、渡す道を選ぼうとしている。母と同じ答えを出せなかったことが、正しいのかどうか、まだ分からない。
第41話「二つの通貨で笑う」。監督官の処分が下りました。そして、初めての決算が出ます。
帳簿の余白は、時々いちばん雄弁です。ブックマークで続きをお待ちください。




