第37話:払わないという払い方
「払いません」
レナール様の答えは、工房に戻る前に出ていた。荷馬車の上で、私が口を開くより先である。
「早いお答えですこと」
「遅く答えても同じ額ですので」
「理由を伺っても?」
「三つあります」
彼は指を折らなかった。折る手が、袖の中で拳になっていたからだと思う。
「一つ。払えば、来年も払います。再来年も、その次も。あれは一度きりの費えではなく、月々の賃料です」
「二つ目は」
「額が、必ず上がります。上がらなかった例を、私は知りません」
「三つ目は」
彼は少し黙って、それから、いつもより低い声で言った。
「三つ目が、いちばん厄介です。──払ったことは、帳簿に書けません」
私は、その一言でだいたい分かってしまった。
この人の帳簿は、この人の背骨である。書けない行が一本でも入れば、あとの全部の数字が信用できなくなる。数字は嘘をつきません、と言い続けてきた男が、自分の帳簿に嘘を混ぜたら、もう何も言えなくなる。
「では、払いませんわね」
「はい」
「そのうえで、冬の市には間に合わせますわ」
「……ええ」
「あら。ずいぶん間がございましたこと」
「今、方法を探しております」
正直な人である。
工房に戻ってから、私たちは二晩、算段をした。
別の関所を通る。──道が二十日遠くなる。他の商会に卸を頼む。──利ざやが消えるうえに、うちの名前が消える。冬の市を諦めて春に回す。──商館の一通が、他所の工房へ行く。
二晩目の遅く、親方が帳場に上がってきた。珍しいことである。この人は事務室の椅子を「尻が落ち着かねえ」と言って嫌う。
「関所の役人ってのはな、奥方」
親方は立ったまま言った。
「昔からああだ。俺が若えころ、エレーヌ様の窯にも、似たようなのが来た」
「母の窯に」
「税じゃねえ。検めの名目で、月に一度、上等な硝子を『見本』に持っていくんだ。返ってきたためしはねえ」
「母は、どうなさいましたの」
「渡してたよ」
親方は、少し笑った。笑い方が、苦かった。
「渡して、窯を回してた。……あの人は喧嘩をしなかった。しなかったから、二十年前に、あんなことになったんだと俺は思ってる。──思ってるだけだがな」
その夜、私はなかなか眠れなかった。
母は渡した。渡して、それでも守れなかった。ならば渡さないという選び方に、勝ち目があるのかどうか。誰も教えてくれない。
三日目の朝、私は結い上げた髪に、いちばん上等な櫛を挿していた。
「どちらへ」
「王宮ですわ」
レナール様が、羽ペンを取り落とした。
「王宮、と仰いましたか」
「仰いましたわ」
「……何を、なさるおつもりで」
「借金の取り立てですの」
私は鏡の前で、襟を直した。
「関所の外に道がないのなら、関所の要らない荷にしてしまえばよろしいのでしょう。荷が商いでなくなれば、税もかかりません。──商いでない荷を出せる方を、わたくし、一人だけ存じ上げておりますの」
彼は、しばらく私を見ていた。それから、落とした羽ペンを拾って、言った。
「……お供します」
「いいえ。今日はわたくし一人で参りますわ」
「なぜです」
「殿下は、退屈をなさるのがお嫌いですの。二人で行くと、商談になってしまいますもの」
フェリシア殿下の私室に通されたのは、昼を少し過ぎたころだった。
殿下は寝椅子に横になったまま、扇の陰からこちらを見た。相変わらず、退屈そうな目をしている。この方の退屈は、たいてい他人にとって危険である。
「御用達の共同代表殿が、わざわざ何のご用かしら」
「殿下。第十の月の、あの夜のことでございます」
「大聖堂ね」
「はい。あのおり、殿下は仰いました。──これは貸し。いずれ高くつけて返してもらう、と」
「言ったかしらね」
「仰いました」
私は膝を折り、頭を下げた。
「本日は、その貸しを返しに参りました。……そのうえで、もうひとつ、お願いがございます」
扇が止まった。
殿下は、ゆっくり身を起こした。
「エステル」
「はい」
「あなた、貸し借りの向きを取り違えていましてよ」
冷や水を浴びせられた気分だった。
「わたくしが貸した。あなたが借りた。返すのはあなた。──そこまでは合っておりますわ。けれど、返しに来た人が、ついでに新しく借りていこうとするのは、なんと申しますの」
「……厚かましい、と申します」
「そう。そのとおりですわ」
殿下は扇を閉じ、私の顔を覗きこんだ。覗きこんで、それから、初めて笑った。
「けれど、わたくし、厚かましい人は嫌いではないの。──退屈しませんもの」
殿下は立ち上がり、窓辺の卓から一通の招待状を取って、私の膝に放った。
オルレア語である。読めない。読めないが、押されている紋章は分かる。二頭の魚。
「オルレアの王太子妃の婚礼ですわ。年の暮れに呼ばれておりますの」
「まあ。おめでとう存じます」
「めでたくありませんわよ。手土産に困っているの」
殿下は、心底うんざりした顔をした。
「宝石は五か国が持ってまいります。織物は三か国。香油は、たしか去年もどこかが持って行ったわ。──どの国も、同じ引き出しから同じものを出してくるの。並べたら、わたくしのぶんだけ埋もれますでしょう」
「殿下」
「わたくし、埋もれるのが世界でいちばん嫌いですの」
それから殿下は、扇の先で私を指した。
「あの、影に月が浮かぶ灯り。あれを二基、婚礼に持ってまいります。──王妹フェリシアからの贈り物として」
私は、息を止めた。
外つ国の王族への、王族からの贈り物。それは商品ではない。荷でもない。
関税というものは、商いの荷にかかる。儀礼の贈答品には、かからない。
「殿下。それは」
「言っておきますけれど、これは貸しの返済ではなくてよ」
殿下は、扇を開いて口元を隠した。
「貸しは貸しのまま。今のは、別口の取引ですわ。──わたくしは埋もれずに済む。あなたは灯りを国境の向こうへ置ける。お互い、得しかございませんでしょう」
「……仰るとおりですわ」
「それに」
扇の陰の目が、きらりと光った。
「職人が自分で運んでくるほうが、面白いんですもの。エステル、あなたも来なさいな。旦那様もね」
第38話「値のつかない灯り」。関税のかからない灯りには、値もつきません。つまり、一枚も売上が立たないのです。
払わない、という選び方の話でした。☆評価とブックマークが、執筆の支えになります。




