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契約結婚の初夜、旦那様は花束ではなく帳簿を持ってきました 〜愛のない政略夫婦、傾いた灯り工房を二人で立て直します〜  作者: 雪乃フィオナ


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第36話:手続きでございます

 関所の倉庫は、石でできた大きな箱だった。


 窓が高い位置に二つ。昼でも薄暗く、夜と昼の温度差が大きい。荷を置くには、いちばん向かない場所である。


 私たちの木箱は、その奥に積まれていた。


「バルタザール・クレーヴと申します。オルレア王国、関税監督官でございます」


 現れたのは、痩せた、背の高い男だった。制服の襟が糊で立っている。声は低く、丁寧で、腹の底から一度も大きくしたことがなさそうな喋り方をした。


「デュラン魔導灯工房でございます。荷が止まっていると伺いまして」


「止めております」


「理由を伺えますか」


「書類が、整っておりません」


 バルタザール様は、卓の上に紙の束を置いた。私たちが商館を通して出した、通関の書類である。


「原産地の証明。こちらは結構でございます。数量、こちらも結構。──ですが、材の産地の記載がございません」


「材、と申しますと」


「硝子の砂でございます」


 レナール様が眉を動かした。


「灯りの通関に、砂の産地が要るのですか」


「規則でございますので」


 バルタザール様は微笑んだ。怒っている人ではなく、心から規則の話をしている人の笑い方だった。そのほうが、始末が悪い。


 私たちは翌日、砂の産地を書き足して出した。翌々日、彼はまた別の紙を持ってきた。


「職人の名簿を頂戴できますか」


「名簿、でございますか」


「品を作った者の名でございます。輸入品の質を保つための決まりでして」


「昨日は、その決まりのお話はございませんでしたわ」


「昨日は、昨日でございます」


 これも出した。十二人と、テオと、ミレットの名前を書いた。


 三日目。彼は、いちばん薄い紙を持ってきた。


「意匠の登録の写しを」


 私は、顔を上げた。


「──オルレアには、ございませんの」


「存じております」


 彼は、ほんの少しだけ言葉を切った。切った位置が、あまりに正確だった。


「ございませんと、こちらの書式では『意匠の登録なし』と書くことになります。書けば通ります。ただ、そう書かれた荷は、検めが一段、丁寧になります」


「丁寧に、と申しますと」


「一箱ずつ開けて、中を見ます。三十基でございましたら、まあ、十日ほど」


 十日。


 冬の市までの日数を、私は頭の中で数え直した。ぎりぎり、間に合わない。


 倉庫の中で、木箱は積まれたままだった。


 三日目の朝、私は一箱だけ開けさせてもらった。籾殻を掻き分けて、灯りを一つ取り出す。


 笠の硝子が、白く曇っていた。


「……結露、ですわね」


 昼と夜で石の倉庫の温度が動く。硝子の表面に水がつき、乾き、またつく。その繰り返しで、うっすらと跡が残るのである。


 布で拭けば取れる。取れるけれど、拭かなければ取れない。三十基を毎日拭きに来るのは、無理な相談だった。


「奥方様。何かご不便でも」


 いつのまにか、バルタザール様が後ろに立っていた。


「曇っております」


「石の倉庫でございますからね。……早くお出しになりたいでしょう」


「ええ」


「では」


 彼は、書類の束を胸に抱えたまま、少しだけ身を寄せた。


 声は、それまでと同じ大きさだった。同じ大きさのまま、言葉だけが違った。


「手続きを、急がせることもできます。──手続きには、手続きの費えがかかりますが」


 私は、彼の顔を見た。


 この人は、額を口にしなかった。代わりに、書類の束を持った手を少しだけ持ち上げて、指を三本、立てて見せた。


 それだけだった。


 それから彼は、深く一礼して、倉庫を出ていった。残された私たちは、しばらく、曇った灯りを見ていた。


「……レナール様」


「はい」


「あの方は、悪いことをしている顔ではございませんでしたわね」


「していません。あの人の中では」


 彼は木箱の蓋を閉め、留め金を掛けた。掛ける音が、石の倉庫に妙に大きく響いた。


「昼過ぎに、商館へ寄ります。ヴァレ支配人に一つ確かめたい」


「なにを」


「あの指の三本を、この国のほかの工房は、いつも払っているのかどうかを」


 商館の応接で、ヴァレ様は私たちの話を最後まで聞いた。


 聞き終えて、ため息をひとつ落とした。感じのいい人の、初めて聞く感じの悪いため息だった。


「クレーヴ監督官でございますか。……あれは、そういう方でございます」


「払うものなのですか」


「払います。皆さん」


 彼は、正直だった。


「悪びれもいたしません。あの方の中では、賄賂ではなく手数料でして。『皆さんそうなさっています』と、本気で思っておいでです。──そして、たいていの場合、それは事実でございます」


「額は」


 レナール様が尋ねた。声は帳簿を読むときの声だった。


「指三本でしたら、荷の値の三分でございましょう」


「三分」


「はい。一便につき三分。三十基でしたら、たいした額ではございません」


「四百基でしたら」


 ヴァレ様は、答えなかった。


 答えの代わりに、茶器を持ち上げて、ゆっくり口をつけた。


「──デュラン様。ひとつ、申し上げてよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「わたくしどもの商館も、払っております」


 私は顔を上げた。


 この人は、そういう顔をしていなかった。恥じてもいないし、開き直ってもいない。ただ、帳簿の一行を読み上げるように言った。


「二十年、払い続けております。額は、最初の年の四倍でございます。……止め方を、誰も知らないのです」


 帰りの荷馬車で、レナール様はずっと黙っていた。


 私も黙っていた。国境の門をくぐるとき、御者が「明日も冷えますな」と言い、それにも二人とも返事をしなかった。


 工房の灯りが見えてきたころ、彼が口を開いた。


「四百基の三分を、二十年」


「はい」


「利息のつかない借金です。返し終わることが、決してない」


 倉庫では、三十基の朧月灯が、少しずつ曇っていた。

第37話「払わないという払い方」。払うか、払わないか。夫の答えは早く、そのあとが長うございました。

規則で殴ってくる相手がいちばん厄介です。ブックマークで応援いただけますと嬉しいです。

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