第35話:初めての国境
三十基が揃ったのは、納期の四日前だった。
王宮の百二十基と並行して、窯を四基回して、職人たちは交代で夜に入った。徹夜は三日までと決めて、四日目には全員を帰した。──辞めた職人の穴は数字では埋まらない、と言った男の方針である。
最後の一基に火を入れたのは、親方だった。
「持ってけ」
それだけ言って、窯の前を離れていった。褒め言葉が短くなるほど、この人は上機嫌だ。
三十基を並べて、一度に点けてみた。
朧月灯である。満月ほど明るくはない。重ねが二段しかないから、光の縁がやわらかく崩れて、輪郭が滲む。工房の土間が、霧の中みたいになった。
「……こっちのほうが、あたし好きです」
ミレットが小さな声で言った。
「代表夫人。これ、安いほうですよね。安いほうのが綺麗って、変ですか」
「変ではありませんわ」
私はしゃがんで、灯りの高さから土間を見た。
「高い灯りは、遠くまで届くように作りますでしょう。安い灯りは、手元だけを照らせばいいの。……手元を照らす灯りのほうが、優しく見えるのは当たり前ですわ」
そういう灯りが、これから海の向こうの、知らない誰かの卓に載る。
顔も名前も知らない人の、夕食の手元を照らす。商いというのは、たまに、たいへん気の遠くなることをする。
契約書は、商館の書式で二通、届いていた。
王国語とオルレア語で同じことが書いてある。私は横に並べて読み比べ、そして、最後の頁で手を止めた。
署名の欄が、一つしかない。
「ヴァレ様。こちらの署名欄でございますが」
立ち会いに来ていた支配人は、いつもどおり感じよく頷いた。
「はい。ご主人様のお名前を頂戴できれば、それで整います」
「共同代表は、二人おりますの」
「存じております」
彼は言葉を選ばなかった。選ばずに、丁寧に言った。
「オルレアの商慣習では、婚姻のある夫婦は、商いの上で一つと数えます。妻の署名欄というものが、そもそも書式にございません。──悪意ではございません。紙が、そうできているのです」
紙が、そうできている。
この一年で、私はずいぶんいろいろな紙と戦ってきた。契約書の第七条。ギルドの規約。審査記録。意匠登録の願書。紙は人より頑固で、人より正直だ。書いてないことは、書いてないと言う。
「では、書式を変えていただけますか」
言ったのは、レナール様だった。
「デュラン様。書式は商館の定めでして」
「承知しています。ですので、変えてくださいと申し上げました」
彼は帳面を開き、いつもの調子で数字を並べはじめた。
「今回の三十基。次が四百基。四百基のうち、意匠を引くのは彼女です。焼くのはうちの窯です。私がやっているのは、勘定と荷の手配だけでして、正直に申し上げて、私一人の署名で足りる仕事ではありません。──足りない署名で判を押した契約は、あとで揉めます。揉めたときに困るのは、商館のほうです」
「……脅しでございますか」
「見積もりです」
ヴァレ様が、しばらく黙った。
それから、初めて、ほんの少しだけ困った顔をした。困った顔をした彼は、少し人間に見えた。
「二段にいたしましょう」
「二段」
「署名の欄を二段に切ります。上段に工房代表、下段に意匠代表と。──書式ごと変えるのは、本国の裁可が要ります。欄を増やすだけでしたら、支配人の裁量でできます」
「それで結構ですわ」
私は、少し笑ってしまった。
制度と戦うときの正しいやり方は、たいてい、こういう地味な形をしている。壁を壊すのではなく、壁に線を一本、増やしてもらう。
新しい契約書が届いたのは、翌朝だった。署名の欄が、二段になっていた。
レナール・デュラン。その下に、エステル・ラヴォワ。同じ紙の上に、二つの言葉で、二つの名前が並んだ。
オルレア語の側は読めない。読めないけれど、自分の名前だけは分かる。異国の文字で書かれた私の名は、なんだか他人の名前みたいで、しばらく見ていたら、少しだけ誇らしくなった。
荷馬車が出たのは、その日の昼過ぎである。
私たちは国境の関所まで、荷に付いていった。ミレットも来た。荷台に乗せた木箱を、四半刻ごとに覗きこんでは、御者に「今の坂、もう少しゆっくり!」と叫んでいた。
関所の門は、思っていたより低かった。
石造りの、古い門である。この向こうがオルレアだ、と言われても、空の色は同じで、道の土の色も同じだった。
「国境って、線が引いてあるかと思ってました」
ミレットが真面目な顔で言った。
「引いてありませんわね」
「がっかりです」
けれど、と私は思う。
見えない線は、たしかにここに引いてある。門をくぐった瞬間、私の名前で登録された紙は、ただの紙になる。月印は、ただの模様になる。線が見えないことと、線が無いことは、ぜんぜん違う。
「ミレット。よく見ておきなさいな」
「はい?」
「ここから先で、わたくしたちの月は、誰にも守ってもらえませんの。守るのは、わたくしたちの手だけですわ」
ミレットは、しばらく門を見ていた。それから、荷台に向かって、思いきり手を振った。
「行ってらっしゃい! 割れるんじゃないですよ!」
荷馬車が、門をくぐっていく。
木箱の中に、この工房の一年が三十基ぶん積まれている。母の型が眠る図面棚から出てきた朧月灯が、母の手つきが十八年売られてきた国へ、いま入っていく。
妙な話だと思った。妙な話なのに、胸のあたりが熱い。
「レナール様」
「はい」
「本日の決算を」
彼は、少し笑った。
「本日の決算。売上は、まだ一枚も立っていません。原価と運賃と、割れた二基が先に出ております。金貨換算では、当分のあいだ赤字です」
「それ以外は」
「──署名が、一つ増えました」
荷馬車が坂を下って、見えなくなった。その夜、工房に早馬が着いた。
国境の関所で、荷が止められている、と。
第36話「手続きでございます」。荷を止めているのは、たいへん規則に厳しい方でした。
第一便、送り出しました。☆評価が、荷馬車の車輪を軽くします。




