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契約結婚の初夜、旦那様は花束ではなく帳簿を持ってきました 〜愛のない政略夫婦、傾いた灯り工房を二人で立て直します〜  作者: 雪乃フィオナ


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第32話:その紋は、国境を越えません

 リュシアン・ヴァレと名乗ったその人は、手袋を脱ぐのに十秒かけた。


 仕立てのいい灰色の上着。髪はきちんと撫でつけられ、笑うと目尻に品のいい皺が寄る。オルレア王都商館の支配人だという。工房の土間を一度も見下ろさずに歩いてきた客は、この人が初めてだった。


「拝命、おめでとうございます。王室御用達の窯を見せていただけるとは、光栄でございます」


「粗末な窯ですわ」


「粗末な窯から出た灯りが、王宮の大広間を照らすのでしょう。……よい話です。うちの国でも、そういう話は売れます」


 感じのいい人だ、と思った。


 感じのいい人ほど、悪い知らせを持ってくるものだと、私はこの一年で学んでいたのだけれど。その人はまず、灯りを見せてくれと言った。


 商談より先に品を見たがる客を、私は信用することにしている。ミレットが磨きたての満月灯を運んできて、帳場の卓に据えた。


 火を落とし、点ける。


 硝子の中で光がひと呼吸ためらってから、白でも黄でもない色になった。台座の影に、満月と三日月の重なった紋がゆっくり浮かぶ。


 ヴァレ様は、たっぷり十数える間、黙っていた。


「……なるほど。これは、売れます」


「ありがとう存じます」


「いえ、世辞ではございません。オルレアの夜は湿っておりまして、白い灯りは膨れて見えるのです。この色でしたら、膨れません。──ときに、この影の紋は」


「月印と申します。真似のできぬしるしですわ」


「真似のできぬ」


 その言い方が、少しだけ引っかかった。感じのいい人が、感じのいいまま、言葉をひとつ持ち帰るときの言い方だった。


 二階の事務室で、レナール様が図面の写しの一件を切り出した。範囲、期限、他へ見せぬ旨の一筆。昨夜のうちに文章にしておいた条件である。


 ヴァレ様は、それを最後まで丁寧に読んだ。読み終えて、静かに卓へ戻した。


「よく練られた文でございます。王国の中でしたら、たいへん有効かと」


「……中でしたら、とは」


「デュラン様。ひとつ、確かめさせてくださいまし」


 彼は懐から小さな帳面を出し、頁を繰るふりをした。繰るふりだ、と分かった。この人は最初から、この話をしに来たのである。


「奥方様の月印──あの、点けると台座の影に月が浮かぶ、あれでございます。王都の意匠登録局に、お名前で登録がございますね。第七一二号」


「ございますわ」


「では、オルレアには」


 沈黙が、事務室の埃を照らした。


「……ございません」


「左様でございます」


 ヴァレ様は、痛ましいものを見る顔で頷いた。


「意匠を守る紙は、その国の中でしか働きません。国境で止まるのです。人も荷も越えられますが、あの紙だけは越えられない。──オルレアにおきまして、奥方様の月印は」


 彼は言葉を選ぶように一度切って、それから、選ばずに言った。


「ただの、模様でございます」


 膝の上で、指が冷たくなった。


 二十年前、母の名は記録から削られた。私はそれを削り返すのに一年かかった。削り返した紙が、河を渡った途端に白紙になる。──そういう話をされている。


「では、オルレアで登録すればよろしいのでは」


 自分の声が思ったより平らで、少し安心した。


「できます。ただし三つ、順に申し上げます」


 ヴァレ様は指を立てた。この人も指で数える人らしい。


「一つ。審査に一年半。二つ。外つ国の職人の名では、現地に後見の商会が要ります。三つ」


 三つ目で、彼は初めて言い淀んだ。


「──その一年半のあいだに、同じ形のものが先に出回りましたら、後から登録した側が『真似をした』と言われることが、まれにございます」


「まれに」


「まれに」彼は繰り返した。「たいへん、まれにでございます」


 レナール様は、何も言わなかった。ただ帳簿の角を、一度だけ指で押さえた。納得の二度叩きではない。あれは、腹を立てている時の癖だ。


 私は息を吸って、背筋を伸ばした。淑女の礼儀作法というものは、こういう時のためにある。


「ヴァレ様。ひとつ、伺ってもよろしくて」


「なんなりと」


「オルレアで灯りを商っていらっしゃるのは、どちらの商会ですの」


「──アシャール灯火商会。市中の灯りの、七割ほどでございましょうか」


「七割」


「はい。よい品を、安く、早く。商いとしては、じつに正しい商会でございます」


 正しい、という言葉を、この人は先ほどから二度使った。制度も、商会も、正しい。正しいものに囲まれて、私の紙だけが白くなる。


「支配人殿」


 レナール様が口を開いた。声は平らだった。


「後見の商会が要るとのことでしたが。商館は、後見に立てますか」


「立てられます」


 あっさりした返事だった。


「──ただし、商館は自国の取り分で動きます。デュラン工房が儲かるから立つのではなく、オルレアの市中に良い灯りが増えるから立つ。そこは、はっきり申し上げておきます」


「結構です。数字が同じ向きを向いている間だけ組む。それがいちばん長持ちしますので」


 ヴァレ様が、初めて声を出して笑った。


「デュラン様。あなたのような方は、うちの国にもおります。たいてい、嫌われて、たいてい、生き残ります」


「奥方様」


 ヴァレ様が、少し身を乗り出した。


「余計なことを申しますが。アシャールの品を、一度ご覧になったほうがよろしゅうございます。……買う前に、見ておかれるべき類のものです」


 その夜、私は工房の窯の前に座っていた。


 火を落とした窯は、ゆっくり冷めながら、まだ少し明るい。ミレットが磨いた硝子玉が、箱の中で並んで光っている。


「守られなくても」


 声に出してみた。


「真似のできないものを、売ればよろしいのだわ」


 紙は国境で止まる。けれど、重ねの薄さは止まらない。髪の毛の十分の一を重ねる手つきは、図面を写しても出てこない。母がそれを、私に一度も言葉で教えなかったのと同じように。


 図面は渡せる。手は渡せない。


 ──それが、こちらの持ち札の全部だった。

第33話「見覚えのある重ね」。アシャール商会の見本箱が、工房に届きます。蓋を開けたのは、親方でした。

守られない紋を、どう守るか。ブックマークで見届けていただけますと励みになります。

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