第31話:オルレアからの一通
封蝋の青が、朝の光を弾いていた。
二頭の魚が向かい合う紋章。隣国オルレア王国、王都商館の印なのだそうだ。
「読み上げます」
レナール様は書状を広げ、商談の声になった。要約すると、こういう話らしい。オルレアの王都商館が、月光灯を買いたい。まずは試しに三十基。売れ行きが良ければ、年に四百基。
四百基。
「……レナール様。いま、なんと」
「年に四百基です」
「もう一度」
「年に、四百基」
三度目を頼もうかと思って、やめた。数字は繰り返しても増えない。増えないのに、なぜか喉の奥が乾いてくる種類の数字というものが、この世にはあるらしい。
「先に申し上げますが、断る理由でしたら、すぐに二つ挙がります」
「伺いますわ」
「一つ。うちは今、王宮の大広間灯架を百二十基、納めている最中です。納期は動かせません。相手は王室ですから」
「二つ目は」
「職人が十二人。窯は五基で、日頃回しているのは三基。人も火も、もう伸ばしきっています」
正しい。ぐうの音も出ないほど正しい。正しいのに、彼の指は先ほどから、帳簿の角を落ち着きなく撫でている。
「ではこちらからも伺います。納品を終えてからでは、遅いのでしょうか」
「遅いです」即答だった。「商館は今年の冬の市に間に合わせたい。来年の話にすれば、この一通は他所の工房へ行きます」
「では、答えは一つですわね」
「……納品の後ではなく」
「納品の、最中に」
声が重なった。重なってしまってから、二人して黙った。
こういうとき、私たちは目を合わせない。合わせると、たいてい笑ってしまうからである。
それから半刻、レナール様は早口だった。
「試しの三十基は、王宮の納品と同じ窯で焼ける。型が違うだけです。荷は河を下って国境まで六日、そこから商館の荷馬車で四日。往復と検めで、ひと月みておけば足りる。冬の市に間に合う。支払いは着荷のあと、向こうの通貨で──いや、そこは後で詰めます。問題は、じつは日数ではなく」
「人手、ですわね」
「人手です。徹夜を増やせば数は出ます。ですが、それをやると三月で職人が辞める。数字は嘘をつきませんが、辞めた職人の穴は数字では埋まりませんので」
私は、この人のこういうところが好ましい。
ずるい算段をいくらでも思いつく頭をしていて、そのうえで「人が辞める」を先に勘定へ入れる。愛は約束できないと言い張る男の帳簿には、いつも人が一行、書き込んである。
「では、増やすのは人でも夜でもなく、窯にいたしましょう」
「……親方が怒りますね」
「ええ。たいそう怒りますわ」
翌朝の工房は、湯気と怒号でできていた。
「無茶だ!」
ガストン親方の第一声である。もっともこの人が「無茶だ」と言うときは、たいてい既に段取りを考えている顔をしている。
「王宮のぶんは満月灯だ。重ねの多いやつを百二十。そこへ輸出で三十だと? 窯が足りねえ以前に、砂が足りねえ」
「砂、ですか」
「蔵の白砂だよ。あれがねえと満月の重ねは出せねえ。うちの蔵で焼けるのは、どう見積もっても二十五基が限度だ。前からずっとそうだ」
──ずっと、そうだった。
資金でも規格でも意匠でもなく、白い砂の山ひとつ。この工房をいちばん地味に縛ってきた天井の話である。値切ることも、談判することもできない。砂は増えないのだから。
私は図面棚へ行き、いちばん手前の型を引き出した。
「では、オルレアへ出すのは朧月灯を軸にいたしましょう。重ねは二段。砂は満月の三分の一で足ります」
「安物を売りつける気か」
「いいえ」
私は型を光にかざした。硝子越しの朝が、薄く滲む。
「向こうは河港の町ですわ。こちらより夜が湿ります。……霧の中では、月は滲むほうが綺麗ですもの」
親方が口を開けて私を見た。それから鼻を鳴らし、窯のほうへ歩いていった。歩きながら、背中越しに指を四本立てて振る。
四基。回す窯を一基増やす、という意味だ。
「代表夫人! あたし、荷造り係に立候補します!」
ミレットが箒を槍のように構えて言った。
「割らずに運べまして?」
「割ります! ……あっ、いえ、割らない方法を考えます!」
テオが奥で小さく笑った。この工房は、こういう順番で回っている。
夕刻、商館の使者が工房を訪ねてきた。
痩せた若い男で、王国語がうまい。名乗り、詫び、世辞を三つ。手順が決まっている人の喋り方だった。
「試しの三十基。着荷から十日以内にお支払い。荷の受け渡しは国境の関所で、そこから先の破損は当方が負います」
「関所より手前で割れましたら」
「工房様のご負担でございます。──もっとも」
使者は少しだけ声を落とした。
「割れずに着いた例を、わたくしは存じません。硝子の灯りを国境の向こうまで運んだ工房が、そもそも無いものですから」
言い方は丁寧だったが、要するに「見ものだ」と言われている。レナール様は表情ひとつ変えずに、その一行を書き取っていた。
細かい話を淀みなく置いていき、最後に、思い出したような顔で付け足した。
「ひとつだけ、条件がございます」
「伺います」
「意匠の図面の写しを、一部、商館へお預けいただきたい。──通関のおり、品と図が一致するかを検めますので」
レナール様の手が、帳簿の角で止まった。私は、なるべく静かに尋ねた。
「検めますのは、どなたが」
「商館の目利きでございます。あるいは、こちらの灯火商にも見ていただくかと。アシャール商会は、灯りのことでしたらオルレアでいちばん詳しゅうございますので」
使者が帰ったあと、工房には夕方の匂いだけが残った。焼けた砂と、油と、冷めていく窯の匂い。
「図面の写し、ですか」
「お渡ししたくない顔をしていますね」
「あら。顔に出ておりまして?」
「帳簿より読みやすいです」
彼は羽ペンを取り、白紙に短く条件を書きつけていった。写しの範囲。返却の期限。他へ見せぬ旨の一筆。──守るための線を、こういう人は文章で引く。
その夜、私は図面棚の前から、しばらく動けなかった。
いちばん下の段に、母の型が眠っている。二十年、誰にも見せずに。
守ってくれる紙は、あの国にもあるのかしら。
第32話「その紋は、国境を越えません」。商館の支配人が、たいへん紳士的な顔で、たいへん厄介なことを仰います。
ブックマークと☆評価が、次の一便の追い風になります。




